第43話 【定休日】鷹村さんの手が、プリンのスプーンを持つ時だけ、震えなかった
【現在:開業44日目】
今日は、カフェの定休日だ。
配信もお休みにして、入り口の営業札も「準備中」のまま。
だが、特区療養枠を利用して訪れる人間のお客さんにとっては、他人の目を気にせずゆっくり休める特別な日でもある。
チリリン。
チルの優しい鈴の音が鳴り、二組のお客さんが、それぞれの護衛職員に付き添われてアーチをくぐってきた。
三回目の来店となる元Sランク剣士の鷹村さんと、先日ハーブのブレンドを一緒に考えた元調合師の楠木さんだ。
予約の時間が偶然重なったため、二人は今日、初めて顔を合わせることになった。
「あ、どうも……」
「……どうも」
互いに、どこかぎこちない会釈を交わす。
無理もない。どちらも深層での過酷な事故により心身を壊し、人間社会の喧騒から逃れるようにしてここにやってきた「迷子」だ。急に知らない人間と同じ空間になれば、緊張もするだろう。
二人は少し距離を空けて、それぞれ別の丸太の椅子に腰を下ろした。
ピンと張り詰めた空気が、店内に漂う。
だが、俺はあえて間に入って場を和ませるようなことはしなかった。
ここは病院の待合室ではない。カフェなのだから、客のペースに任せるのが一番だ。
すうっ、つるんっ。
スミが二人の足元の泥を『きれい!』と吸い取り、空間を浄化する。
ぽわんっ。
ポッカが『あっためる!』と石の炉で薪を爆ぜさせ、硬い空気をじんわりと解きほぐしていく。
そして、コハクがトコトコと二人の間を行ったり来たりしながら、ふんふんと匂いを嗅いで『てき、いない』と安心感を振りまく。
ゴリ、ゴリ、ゴリ……。
カウンターの奥では、グレイがいつもと同じように、重厚な音を立ててコーヒー豆を挽き始めた。
深淵珈琲の芳醇な香りが漂い始めると、防毒マスクを着けていた楠木さんが、迷うことなくマスクの留め具を外して、深呼吸をした。
それを見た鷹村さんが、ほんの少しだけ驚いたように目を見開く。
「お待たせしました。いつものコーヒーと……鷹村さんには、約束のプリンです」
俺は二人の前にコーヒーを置き、鷹村さんの前には、木製の皿に乗せた黄金色の『最下層プリン』を静かに置いた。
琥珀色のカラメルソースが、とろりと滴り落ちる。
鷹村さんは、微かに震える手で木のスプーンを手に取った。
そして、プリンの表面にそっと差し込む。
すっ……。
滑らかにスプーンが沈み込む音。
彼はそれをすくい上げ、ゆっくりと口に運んだ。
野鳥の卵の濃厚なコクと、樹液の優しい甘さ、そしてカラメルのほろ苦さが広がる。
「……っ」
鷹村さんの目が、ぱあっと見開かれた。
そして、もう一口、もう一口と、夢中でプリンを口に運んでいく。
俺はカウンターを拭きながら、ふと気がついた。
木のスプーンを握り、プリンをすくっている間だけ。
鷹村さんの手の震えが、完全に止まっていたのだ。
美味しいものを食べることだけに集中し、過去の恐怖を忘れている証拠だった。
だが俺は、やはり何も指摘しない。ただ、ポッカの温かい炎越しに、その光景を静かに見守るだけだ。
「……美味しいですか?」
ふと、隣の席から楠木さんが控えめに声をかけた。
鷹村さんは少しハッとして、スプーンを下ろし、照れくさそうに口元を拭った。
「ええ。……こんなに美味しいものは、地上でも食べたことがないくらいです」
鷹村さんがそう答えると、楠木さんはコーヒーのカップを両手で包み込みながら、優しく微笑んだ。
「そうですね。私も、ここの空気と匂いにはいつも救われています。……この店の匂いは、本当に綺麗ですよ」
嗅覚過敏の彼女が言うのだから、それは何よりも確かな事実だ。
鷹村さんは、自分の手元にあるコーヒーから立ち上る湯気を見つめ、静かに息を吐き出した。
「……ええ。ここにいると、少しだけ、息ができる気がします」
パチ、パチパチ……と薪が爆ぜる音。
二人の間にあったぎこちない壁が、コーヒーの香りとプリンの甘さによって、自然に溶けていく。
客同士が言葉を交わし、思い思いの時間を過ごす。それはまさに、カフェとしての本来の姿だった。
◇
夜。
人間のお客さんたちが帰り、いつもの静寂が戻った店内。
俺は、鷹村さんが綺麗に平らげたプリンの皿を洗いながら、カウンターの奥で休んでいるグレイに声をかけた。
「なんか、不思議だな」
──『グレイ:?』
「うちの店、いつの間にか人間も魔獣も関係なくなってきたなって思ってさ。角鹿が来ても、人間のお客さんが来ても、やることは全然変わらないんだもん」
俺が笑いながら言うと、グレイは黄金の瞳をすっと細め、脳内リンクに短い字幕を落とした。
──『グレイ:最初からそうだ』
「……ははっ。違いない」
SSランクの銀狼の店長にとっては、五十階層の魔獣だろうと、地上の高ランク探索者だろうと、ただ等しく「コーヒーを飲む客」でしかないのだ。
そのブレない姿勢がある限り、俺たちの店は、これからもずっと誰かの居場所を温め続けることができるだろう。




