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第41話 【来店】新しいお客さんは、元・調合師。匂いにだけ、異常に敏感だった

【現在:開業40日目】



特区療養枠とっくりょうようわくが稼働し始めて、数日が過ぎた。

元Sランク剣士の鷹村たかむらさんは、あれから定期的に通ってきており、少しずつだが着実に、店で過ごす時間をリラックスできるようになってきている。



そして今日。

倉橋くらはしさんから知らされていた、二人目の療養枠のお客さんがやってくる日だ。



チリリン。



チルの「いらっしゃい」の鈴の音と共に、Aランクの護衛職員に付き添われて、一人の女性がアーチをくぐってきた。

彼女が、二人目の療養枠申請者である『楠木くすのき』さんだ。



目元まですっぽりとフードを被り、口元には何重にもフィルターが重なった分厚い防毒マスクを着けている。

呼吸は浅く、小刻みに肩を震わせており、まるで透明な何かに怯えているようだった。



「……っ、はぁ……っ」



元Aランクの調合師である彼女は、ダンジョン内での長期間にわたる毒ガス曝露事故により、嗅覚が異常なまでに過敏になってしまったという。

地上の排気ガスや香水の匂いなどで頭痛と吐き気が止まらず、日常生活もままならない状態だと聞いていた。



「いらっしゃい。空いている席へどうぞ」



俺はカウンターの中から、普段通りに声をかけた。

楠木くすのきさんはビクッと肩を揺らしたが、護衛に背中を押され、ゆっくりと丸太の椅子に腰を下ろした。



普通に考えれば、コーヒーの強い焙煎香や、魔獣の獣臭が漂うカフェは、嗅覚過敏の彼女にとって地獄のような環境のはずだ。

だが、俺はこの空間の『空気の質』に絶対の自信を持っていた。



すうっ、つるんっ。

スミが床を滑る。スミはただの汚れだけでなく、空気中に漂う微細な埃や、余分な揮発性の匂い分子すらも『きれい!』と無音で捕食し、空間そのものを無菌室レベルに浄化しているのだ。

そこにポッカの炎が合わさる。不純物を一切残さず完全燃焼する火霊の熱が、空気を淀ませることなく対流させている。



楠木くすのきさんは、防毒マスク越しに浅い呼吸を何度か繰り返していたが。

やがて、恐る恐る、震える手で分厚いマスクの留め具を外した。



「あ……」



マスクが外れ、最下層の空気が直接彼女の鼻腔に触れる。



「……匂いが、痛くない。刺さらない……っ」



楠木くすのきさんの目から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。

地上では、息をするだけで刃物を吸い込んでいるような激痛だったのだろう。それが今、彼女は数ヶ月ぶりに、何の痛みも感じずに「深呼吸」をすることができたのだ。



「ここの空気は、スミが常に濾過してくれていますからね。それに、五十階層の濃密な魔素が、匂いを丸く包み込んでくれるんです」



俺が微笑むと、楠木くすのきさんは泣きながら何度も頷いた。



「分かります……。どんな自然の匂いでも、普通は複雑で尖った分子の集合体だから鼻が痛むんです。でもここは、人工的な匂いが一切ないどころか、空気のベースが信じられないほど綺麗で……」



そこへ、トコトコとコハクが歩み寄ってきた。

楠木くすのきさんの足元でふんふんと匂いを嗅ぎ、安全を確認すると、彼女の震える手に自分の小さな鼻先をすりっと押し付けた。



──『コハク:てき、いない』

──『コハク:いいにおい』



「……っ。獣の匂いって、こんなに優しかったんですね」



強い獣臭など微塵もない。お日様を含んだような、温かくて丸い狐の匂いに、彼女の強張っていた表情が、花がほころぶように優しく解けていく。



ゴリ、ゴリ、ゴリ……。

カウンターの奥で、グレイが特大のミルを回し始めた。



深淵珈琲アビス・コーヒーの豆が挽かれ、極上の湧き水でドリップされていく。

トトトトト……という水音と共に、芳醇で深いコーヒーの香りが立ち上る。

強烈なコーヒーの匂いは、嗅覚過敏の人間には本来劇薬だ。しかし、楠木くすのきさんは顔をしかめるどころか、ハッと目を見開いた。



「どうぞ。うちの看板メニューです」



俺がカップを置くと、楠木くすのきさんは両手でそれを包み込み、うっとりとした表情でその香りを胸いっぱいに吸い込んだ。



「……すごい。このコーヒーの香り成分……毒で焼けた粘膜を刺激するどころか、薄い膜を張って保護してくれているみたい……」



過酷な深淵の底で育った豆と、極上の湧き水。それが彼女の痛んだ神経に対する、最高のアロマテラピーとして作用したのだ。

彼女はもう肩を震わせることなく、静かにコーヒーを一口飲んだ。





滞在時間が終わり、楠木くすのきさんが帰る時のこと。

彼女は、すっかり落ち着いた声で、俺に向かって申し訳なさそうに手を合わせた。



「あの、店長さん。お願いがあるんですが……」



「はい。なんでしょう?」



「このお店で使っている湧き水と、深淵珈琲の豆……少しだけ、地上に持ち帰って研究させてもらえませんか?」



彼女の目に、調合師としての強い光が宿っていた。



「この澄んだ空気と素材なら、もしかしたら……私のように匂いで苦しんでいる探索者向けの『回復用アロマ』を作れるかもしれないんです」



俺たちの居場所が、ただ癒やしを提供するだけでなく、地上の誰かを救う「希望」になろうとしている。

俺は小さく笑い、首を横に振った。



「俺は構いませんよ。でも、特区のものを勝手に持ち出すのはルール違反です。……倉橋くらはしさんに手続きを通してからなら、いくらでもお譲りします」



「……っ、はい! ありがとうございます!」



楠木くすのきさんは深く頭を下げ、防毒マスクを片手に持ったまま、明るい足取りで護衛と共に帰っていった。










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