第40話 【来店】元Sランクの剣士は、コーヒーカップを持つ手が震えていた
今日は、入り口の営業札を「営業中」にしているが、配信用のカメラは電源を切ったままだ。
お客さんのプライバシーを第一に考えるためである。
チリリン。
静かな店内に、チルの「いらっしゃい」を告げる澄んだ鈴の音が響いた。
「っ……!」
アーチをくぐってきた人影の肩が、その小さな音だけでビクッと大きく跳ねた。
護衛のAランク職員に連れられて入ってきたのは、一人の男だった。
無精髭を生やし、酷く落ち窪んだ瞳。かつては立派だったであろう体格も、今はどこか縮こまって見える。
彼が、倉橋さんが言っていた最初の特区療養枠のお客さん――かつてSランクの名剣士として名を馳せた『鷹村』だ。
深層での事故で仲間を失い、半年以上現場に復帰できていないという彼の両手は、腰に下げた剣の柄に触れることすら恐れるように、微かに、だが絶え間なく震え続けていた。
鷹村は店内に足を踏み入れた途端、カウンターの奥に鎮座するグレイの巨体を見て、息を呑んで硬直した。
SSランク魔獣の威圧感。本来なら剣を抜いて警戒すべき相手だが、彼の震える手は動かない。
「いらっしゃい。空いている席へ、座ってください」
俺はカウンターの中から、普段と全く変わらないトーンで声をかけた。
過剰な同情はしない。ただの、いちカフェの店員として。
グレイもまた、彼を「敵」ではなく「客」と認識し、カウンターを顎でしゃくった。
──『グレイ:座れ』
鷹村は護衛に促されるまま、フラフラと人間用の丸太椅子へと向かった。
すうっ、つるんっ。
彼が歩く先から、スミが『きれい!』と足元の泥を瞬時に吸い取っていく。
ぽわんっ。
石の炉ではポッカが『あっためる!』と炎を揺らす。
パチ、パチパチ……と乾いた薪が爆ぜる心地よい音が響く。ダンジョン特有の、骨まで凍るような暗い冷気と湿気が、春の陽だまりのような優しい温もりに上書きされていく。
椅子に腰を下ろした鷹村のもとへ、コハクがトコトコと駆け寄り、ブーツの匂いを嗅いだ。
──『コハク:てき、いない』
──『コハク:こわがってる』
コハクはそう判定を下すと、鷹村の足元に自分の体をすりすりと押し付けた。
座面に敷かれたコハクの抜け毛クッションが、彼の体重をふんわりと受け止める。下から伝わる羽毛のような柔らかさと、足元でじゃれつく本物の冬毛の温もり。
極上の触覚に包まれ、張り詰めていた鷹村の強張った表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
俺は極上の湧き水で淹れた深淵珈琲を、彼の前に置いた。
コトリ、と木製のカップがくぐもった音を立てる。
立ち上る真っ白な湯気が、深い焙煎の香りを彼の鼻先へと運んでいった。
「どうぞ」
鷹村は、微かに震える両手でカップを包み込んだ。
手のひらから、じんわりと確かな熱が伝わっていく。
彼は深く息を吸い込み、一口飲んだ。
「……っ」
その瞬間。
カタカタと鳴っていた彼の手の震えが、ほんの一瞬だけ、ピタリと止まった。
「……美味い」
掠れた、小さな声。
それからは誰も喋らなかった。ただ、ポッカの薪が爆ぜる音と、チルの穏やかなさえずり。そしてコーヒーの芳醇な香りだけが、彼の時間を静かに包み込んでいた。
やがて滞在時間が終わり、鷹村は立ち上がった。
「あの……また、来てもいいですか」
帰り際、彼がポツリとこぼした言葉に、俺はいつもと変わらない事務的なトーンで返した。
「協会の手続きが通れば、いつでも」
ここは病院じゃない。だから「絶対に治りますよ」なんて無責任な言葉はかけない。
鷹村は一度だけ深く頷いて、護衛と共に帰っていった。
◇
【現在:開業38日目】
鷹村の二回目の来店は、それから三日後のことだった。
初回よりは少しだけリラックスした様子だったが、手の震えは相変わらずだ。
今日は、鷹村自身の同意を得て、顔を映さない首から下の画角で配信のカメラをオンにしている。
──────【LIVE】同接:14,500──────
※探索者協会認定・第50階層特別安全区(特区)
: 療養枠のお客さんか!
: 本当に来てるんだな……
: コハクが足元で接待してる、尊い
: 配信で見る分には普通の常連客みたいだ
──────────────────────
鷹村は、足元で丸くなるコハクの背中を、震える手でゆっくりと撫でていた。
指先が柔らかな冬毛の奥へ沈み込み、手のひらにトクトクという静かな心音と、ゴロゴロと喉を鳴らす微かな振動が伝わってくる。
その確かな命の体温が、彼の凍りついた心を少しずつ溶かしていく。
ゴリ、ゴリ、ゴリ……。
カウンターの奥で、グレイが特大のミルを回し始めた。
腹の底に響くような、重厚でリズミカルな木の音と、豆が砕かれる振動。
「……ん?」
俺は、ふと気がついた。
あのミルの音を聞いている間だけ。グレイが豆を挽くその一定のリズムと、コハクの温もりに身を委ねている間だけ、鷹村の手の震えが、完全に止まっていたのだ。
最下層のボス魔獣が奏でる、ただの生活音。
それが、どんな治癒魔法でも治せなかった元Sランク剣士の震えを止めている。
俺はそれに気づいても、あえて何も指摘しなかった。
「……俺の仲間にも」
ふと、鷹村がポツリとこぼした。
「こういう温かい場所を、見せてやりたかった」
深い後悔と、悲しみが滲む声。
俺は何も言わない。ただ、ポッカがパチッと薪を爆ぜさせ、チルが慰めるようにチリリンと鳴いた。
俺は静かに、淹れたてのコーヒーのおかわりを彼の前にスッと差し出した。
言葉で過去を救うことはできない。俺たちにできるのは、今この瞬間に、温かいコーヒーを出すことだけだ。
鷹村はそれを受け取り、深く息を吐き出して、静かに飲み干した。
そして帰り際。
入り口のアーチで立ち止まった鷹村が、振り返って口を開いた。
「店長。次はあの……配信で見た、プリンを食べてみたいです」
その顔には、初めて見る、不器用で小さな「笑顔」が浮かんでいた。
「ええ。お待ちしていますよ」
鷹村を見送った後、俺の端末が小さく鳴った。
倉橋さんからの通知だ。
『鷹村の三回目の申請が通った。それと、もう一名、新規の申請がある。……今度は、女性だ』
どうやら、この最下層カフェの癒やしを必要としている迷子は、彼だけではないらしい。




