第4話 【初めての一杯】最下層の豆を挽いたら、ボス魔獣が真似した
【過去:5日前】
目の前には、巨大な狼。
俺の手元には、真っ赤なコーヒーの実。
失敗すれば食われるかもしれない。
そんな極限状態の中で、俺は思った。
――手を動かすしかない。
震える手で装備袋から携帯用の手動ミルを取り出した。
探索者の必需品だ。カフェインは命綱だからな。
まずは、赤い実の皮を剥く。
果肉は甘酸っぱい香りがするが、用があるのは中身だ。
出てきたのは、翡翠色をした生豆。
それを焚き火代わりの携帯コンロと小鍋で炙る。
パチ、パチ、と爆ぜる音。
香ばしい煙が立ち上り、ダンジョンの湿った空気を塗り替えていく。
鍋の縁から熱が伝わって、指先がじんとする。
豆の色が狐色から、深い褐色へと変わる。
深淵珈琲特有の、濃厚で、どこか土の匂いがする力強い香り。
グレイ──そう字幕に出た大狼が、鼻をヒクつかせた。
黄金の瞳が、鍋の中の豆に釘付けになっている。
その巨体が、じり、と数センチだけ前に出た。
(……興味津々だな)
俺は少しだけ肩の力を抜いた。
焙煎した豆を冷まし、ミルの投入口に入れる。
ガリッ、ゴリッ。
ハンドルを回すと、硬い豆が砕ける音が響いた。
静寂に満ちた最下層に、リズミカルな粉砕音が吸い込まれていく。
ゴリゴリ、ガリガリ。
手に伝わる振動が心地よい。
挽きたての粉から、さらに一段階、華やかな香りが噴き出す。
「きゅう……」
コハクが、俺の膝に前足をかけて覗き込んできた。
ふわふわの耳が、ハンドルの動きに合わせてピコピコ動く。
近い。温かい。
小さな呼吸が、足に当たってくすぐったい。
その鼻先が、挽かれた粉の匂いを嗅いで「くしゅん」とくしゃみをした。
「はは……」
俺は苦笑しながら、ドリップの準備をする。
お湯を注ぐ。
のの字を描くように、ゆっくりと。
ぽこ、ぽこ、と粉が膨らむ。
コーヒードームだ。新鮮な証拠。
黄金色の泡が立ち、黒い液体がサーバーに落ちていく音。
トトトトト……。
その一部始終を、グレイはじっと凝視していた。
瞬きもしない。
まるで、世界の真理を見極める賢者のように。
「……どうぞ。毒見は俺がしますから」
俺は自分のシェラカップに注ぎ、一口飲んでから、鍋に残った分を冷まして差し出した。
グレイは長い舌で、ペロリと液体を舐めた。
一瞬、動きが止まる。
そして。
──『グレイ:良い』
短い字幕(BeastCaption)。
感情の波が、満足感で満たされるのが分かった。
尻尾が、バフッ、バフッと地面を叩く。
地響きがすごい。
気に入ったらしい。
俺が安堵のため息をついた、その時だった。
グレイが巨大な前足を伸ばし、俺の手元のミルに触れた。
え、と声を上げる間もなく、彼は器用にハンドルを爪で引っ掛け──
ゴリッ。
回した。
人間用の小さなミルが、丸太のような腕の中で回転する。
最初はぎこちなく。
でもすぐに、一定のリズムを刻み始める。
ガリガリ、ゴリゴリ。
俺がやるより、はるかに安定した回転。粒度が揃っている。
グレイは楽しそうに目を細め、粉の香りを楽しんでいる。
──『グレイ:おもしろい』
「……嘘だろ。SSランク魔獣がバリスタ志望かよ」
俺は思わず笑ってしまった。
追放されて、死にかけて、最下層で狼とコーヒーを挽いている。
おかしくて、でも、なんだか胸が熱かった。
ここなら。
この場所なら、俺は生きていけるかもしれない。
そう思った矢先、俺は反射的にポケットの端末を確かめた。
画面を見る。
『圏外』
そうだった。
ここは最下層。地上の電波なんて届かない。
誰にも連絡できない。
俺がここで生きていることも、この奇跡のような光景も、誰にも伝えられない。
このままじゃ、ただの遭難者だ。
せっかく見つけた「居場所」なのに、世界から切り離されている。
俺は、端末と、転がっていた魔石の欠片を見比べた。
……待てよ。
俺の【万獣統括】は、魔力の波長を読むスキルだ。
この魔石を媒体にして、俺の魔力で波長を増幅すれば──あるいは、地上まで声を届けられるかもしれない。
俺は顔を上げた。
グレイが、またゴリゴリと豆を挽いている。
コハクが俺の足に体を寄せてきた。
毛が擦れて、さら、と小さな音がする。
温度が戻ってくる。
「グレイ。俺、ここをカフェにするよ」
無謀な思いつき。
でも、やらなきゃ始まらない。
俺は魔石を拾い上げ、強く握りしめた。




