第3話 【遭遇】最下層の王に殺されない方法、ひとつだけ
【過去:6日前】
心臓が、早鐘を打っていた。
全身の血が凍りつくような恐怖。
目の前にいるのは、圧倒的な「死」そのものだった。
体高は三メートルを超えているだろうか。
銀色の毛並みは、まるで鋼鉄の繊維を編み込んだ鎧のようだ。
太い四肢には鋭利な爪が隠され、吐き出す息だけで空気がビリビリと震えている。
最下層の主。
SSランク相当のボス魔獣、灰銀の大狼。
(……動けない)
逃げることすら許されない。
蛇に睨まれた蛙どころじゃない。その巨体から放たれるプレッシャーだけで、俺の身体は金縛りにかかったように硬直していた。
殺される。
そう直感した瞬間だった。
「きゅう、きゅう」
足元で、コハクが鳴いた。
逃げ出したと思っていたコハクは、俺と大狼の間にちょこんと座り込んでいた。
全身の毛を逆立て、震えている。
怖いのだ。
それでも、コハクは逃げなかった。
大狼を見上げ、しきりに鼻を鳴らし、それから俺の方を振り返る。
暗闇の奥へ耳を向けて、また大狼を見上げる。
まるで、「こいつを連れてきたよ」と報告しているように。
(……そうか、拾い狐の習性……)
コハクは俺を助けたんじゃない。
自分の縄張りに迷い込んだ異物を、このエリアの“王”に見せるために連れてきたのか。
あるいは、異常を報告して自分の安全を確保するためか。
どちらにせよ、結果は同じだ。
大狼の巨大な顔が、ゆっくりと近づいてくる。
黄金の瞳孔が収縮する。
鼻先が、俺の目前数センチまで迫る。
ズゥ、と重い呼吸音。
熱い吐息が顔にかかる。
死の匂いではない。
日向のような、それでいて野生の濃い獣の匂い。
俺は反射的に目を閉じた。
食われる──。
キィィィィン……。
その時、頭の中で耳鳴りがした。
ユニークスキル【万獣統括】の発動だ。
俺の意志じゃない。
相手の魔力が強すぎて、勝手に回路が開いてしまったのだ。
SSランクの感情が、防波堤を越えた津波のように雪崩れ込んでくる。
(ぐ、ぁ……っ!)
頭が割れそうだ。
だが、その激流の中に、奇妙な違和感があった。
『敵意』がない。
『食欲』もない。
あるのは──『観察』。
そして、静かな『期待』。
……期待?
俺は恐る恐る目を開けた。
大狼は、まだ俺の顔の前にいる。
だが、その視線は俺を通り越して、背後にある“茂み”に向けられていた。
スンスン、と鼻を鳴らす。
つられて俺も振り返る。
そこには、艶やかな緑の葉を茂らせた、一本の木があった。
枝には、ルビーのように真っ赤な実が鈴なりになっている。
あの、香ばしい匂いの発生源。
(これ……コーヒーの木に似てる……?)
葉の形も、実の付き方も。
俺が知っているコーヒーの木そのものだ。
ただ、サイズが異常に大きく、実から放たれる香気が強い。
おそらく、ダンジョンの魔素で変異した原種──深淵珈琲とでも呼ぶべきもの。
赤い実。
でも、コーヒーの本体は中の豆だ。
殻の奥に、硬くて黒い“何か”が入っているはず。
大狼は、再び俺に視線を戻した。
じっと見つめてくる。
そして、俺のスキルが、彼の思考の断片を形にする。
まだ字幕(BeastCaption)にはならない。
言語というより、原始的な感情の塊が、イメージのまま流れ込んでくる。
(……いい匂い)
(……でも、食い方、わからん)
そんな感触。
俺は呆気にとられた。
こいつ、この実が気になっていたのか?
良い匂いはするが、そのままじゃ美味くならない。
どうすればいいのか分からず、ずっとこの木の近くにいた……?
大狼が、じれったそうに前足で地面を叩いた。
ドン、と地響きがする。
コハクが「ひゃっ」と悲鳴のような声を上げて、俺の股の間に頭を突っ込んで隠れた。
震える温かい毛玉の感触が、俺の正気を繋ぎ止める。
呼吸が、早い。
毛が擦れて、さらさら、と小さな音がする。
あったかい。
生きている音と温度が、まだここにある。
やるしかない。
殺されない方法は、たぶん一つだけだ。
俺は震える足に力を込め、大狼の黄金の瞳を見据えた。
「……あの」
声が裏返る。
言葉が通じるとは思えない。
それでも、俺はテイマーとして、精一杯の“提案”を念じた。
「その実……俺なら、美味しくできますよ」
大狼の耳が、ピクリと反応した。
一瞬の静寂。
だが、俺の体は限界だった。
四十九階層から落下し、全身ボロボロの瀕死状態だ。血を流しすぎている。強がって立ってはいるものの、視界は明滅し、今にも倒れそうだった。
大狼は、そんな俺の無惨な状態を見透かしたように、巨大な顔を寄せてきた。
そして。
ザリッ――。
ヤスリのように分厚く温かい舌が、俺の血まみれの肩から胸を大きく一舐めした。
「ぐっ……!?」
食われる。そう身構えた俺だったが、すぐに信じられない感覚に襲われた。
舐められた場所から、じんわりと心地よい熱が広がり、深手だった傷口がシュルシュルと音を立てて塞がっていく。身体中の痛みが、嘘のように引いていったのだ。
(……超回復……!)
SSランクのボス魔獣。その唾液には、最高級のポーションすら凌駕する治癒効果があるらしい。
これなら死なずに動ける。「料理人」が死んでは困るという、彼なりの合理的な判断なのだろう。
大狼はフン、と鼻を鳴らすと、ドスンと腰を下ろした。
巨大なお座りの姿勢。
その瞬間。
俺の視界の端に、半透明の文字が浮かんだ。
さっきまで“感情の塊”だったものが、短い言葉に落ちる。
そして――文字の左に、俺の知らない名前まで出た。
──『グレイ:……待つ』
短い字幕(BeastCaption)。
それが、俺のカフェ店員としての、最初のオーダーだった。




