第34話 【異常】奥からやってきた巨大な影は、ただ「暗闇」に震えていた
【現在:開業31日目(夜)】
ズゥゥゥゥンッ……!!
五十階層の空間そのものが軋むような、規格外の地鳴り。
入り口の植物アーチが、吹き込んできた強風に煽られて大きく千切れ飛んだ。
そして、暗闇の奥から「それ」は姿を現した。
「……嘘だろ」
俺は、あまりの巨大さに息を呑んだ。
カフェの入り口を完全に塞ぐほどの、巨大な頭部。
岩肌と同化したような分厚い鱗と、闇夜に浮かぶ日食のような、巨大な黄金の双眸。
それは間違いなく、この五十階層の――いや、このダンジョンの深淵そのものを支配する主。
伝説に語られる、古竜だった。
全身から放たれる威圧感だけで、空気が凍りつく。
呼吸をすることすら困難なほどの、圧倒的な死の気配。
スミは完全に動けなくなり、コハクは俺の足元で伏せたまま、ガタガタと激しく震えている。
だが、グレイだけは違った。
グルルルルル……!!
SSランクの銀狼は、かつて見せたことのないほど凶暴に牙を剥き出しにし、古竜に向かって低い咆哮を上げた。
勝てる相手ではない。それは、野生の頂点にいるグレイ自身が一番分かっているはずだ。
それでも彼は、一歩も退かずに俺たちの前に立ち塞がった。
この店を、俺を守るために、命を捨てる覚悟を決めている。
「……待て、グレイ!」
俺は叫び、這うようにしてグレイの横に立ち、その銀色の毛並みに手を置いた。
古竜が、ゆっくりと巨大な口を開く。
万物を塵にするブレスが放たれる――そう覚悟した瞬間。
ジジッ……!
俺の脳内リンクに、強烈なノイズが走った。
スキル【万獣統括】が、眼の前にいる規格外の存在の「本音」を、強制的に翻訳し始めたのだ。
──『……ガ……ギ……』
──『……■■……クラ……イ……』
文字化けしたような、ひどく歪んだ短い字幕。
俺は歯を食いしばり、痛む頭を抱えながら、さらに深くスキルのチャンネルを合わせた。
表面的な威圧感じゃない。こいつの、本当の感情はなんだ。
「……読ませろッ!」
俺の意志に呼応するように、ノイズが晴れていく。
そして、脳内に落ちてきたのは、想像を絶するほど純粋で、ひ弱な感情だった。
──『……クラ、イ……』
──『……コワ、イ……』
──『……さみし、い……』
「……え?」
俺は、目を疑った。
古竜の巨大な双眸をよく見れば、それは怒りに燃えているわけでも、獲物を狙っているわけでもなかった。
ただ、小刻みに揺れていたのだ。
こんなにも巨大な図体をしておきながら。
誰も近づけないような深淵の底で、長い、長い間。
ただ一人ぼっちで「暗闇」に震え、泣いていたのだ。
こいつが地鳴りを響かせながらここまで上がってきたのは、俺たちを襲うためじゃない。
ポッカの温かい光と、チルが鳴らす優しい音。
そして、風に乗って漂ってきたコーヒーの甘い匂いに誘われて、光を求めてすがりついてきただけの、ただの迷子だ。
「……グレイ。牙を収めろ」
俺は、グレイの首元を優しく撫でた。
──『グレイ:……?』
グレイが、困惑したように俺を見る。
俺は強張っていた肩の力を抜き、古竜を見上げて、ふっと口元を緩めた。
「敵じゃない。……追い返すな。お客さんだ」
俺の言葉に、店内の空気がほんの少しだけ動いた気がした。
どんなに巨大でも、どんなに恐ろしく見えても関係ない。
ここは、ダンジョン最下層のカフェ。
光と温もりを求めてやってきた客を、追い返す理由なんて一つもない。
「……よし。みんな、特区としての初仕事だ。最高の接待をするぞ」
俺はエプロンの紐を強く締め直し、暗闇に震える巨大な迷子に向かって、真っ直ぐに歩み出た。




