第32話 【決裁】最下層カフェは特区になり、地上のニュースは画面を伏せた
【現在:開業31日目】
チリリーーーン!
入り口の特等席で、チルが朝一番の澄んだ声を響かせた。
アーチの葉を揺らして入ってきたのは、見慣れた防護コート姿――探索者協会・監査部の倉橋だ。
だが、今日の彼はいつもと少し違った。
監査官としての鋭い視線はなく、その手には、重厚な装丁が施された一つの革張りファイルが握られている。
「いらっしゃい、倉橋さん」
俺が声をかけると、倉橋はカウンターの前まで歩み寄り、その革張りファイルをそっと差し出した。
「……本部の決裁が下りた。安全導線の確保、水源のクオリティ、そして何より『完璧な秩序』。全てにおいて文句なしの評価だ」
倉橋の口元が、わずかに緩む。
「おめでとう、深山。明日から、ここは正式に協会の認定を受けた『特区』となる」
「っ……!」
俺はファイルを受け取り、その重みを両手でしっかりと確かめた。
中には、協会の印章が押された特区認定証が収められている。
無能だとギルドを追放され、ダンジョンの底に落ちてから約一ヶ月。
誰にも脅かされることのない、俺たちだけの『正式な居場所』が、ついに認められたのだ。
「……ありがとうございます。倉橋さんが、何度も足を運んで正当に評価してくれたおかげです」
「私は事実を上に伝えただけだ。君たちが、自分たちの力で勝ち取った結果だよ」
俺が深く頭を下げると、足元でコハクが「きゅん!」と嬉しそうに鳴き、倉橋の足元にすりすりと身体を擦り付けた。
スミが『きれい!』と喜びのステップで床を滑り、ポッカが『あったか!』と少しだけ火力を上げてお祝いをする。
そして、グレイだ。
グレイは何も言わず、ただ静かに、極上の湧き水で淹れた深淵珈琲を倉橋の前に押し出した。
──『グレイ:飲め』
「……ああ、いただくよ」
倉橋はカップを受け取り、深く香りを吸い込んでから、ゆっくりとコーヒーを味わった。
監査官としてではなく、一人の常連客として。
至福の息を吐き出し、倉橋は「また来る」とだけ言い残して、ダンジョンの上層へと帰っていった。
◇
「やったな、みんな。明日から、ここは本物のカフェだ」
俺は特区認定証をカウンターの奥に大切に飾り、ふぅ、と長く息を吐き出した。
開店前の静かな時間。
俺は協会のデータベースに『最下層カフェ』の特区登録を完了させるため、自分の端末を開いた。
ピロン。
登録画面を開いた瞬間、画面の上部に【ニュース速報】の通知が割り込んできた。
普段なら無視する広告のようなものだが、そこに見出しとして踊っていた文字列に、俺の指がピタリと止まる。
『速報:トップギルド【蒼穹の剣】、深層にて致命的な連携ミスにより半壊。主力メンバーの離脱が相次ぎ、事実上の解散へ』
俺を無能だと見下し、追放したギルドの名前だった。
記事のプレビューには、かつてのリーダーや仲間たちが、マスコミの前で責任を押し付け合い、泥沼の口論をしている醜い様子が書かれていた。
後方支援を切り捨てた結果、ポーションの在庫管理も、魔獣の索敵も、何もかもが回らなくなったのだろう。
俺がいなくなったことで、彼らがどう破滅していくのか。
その結末が、小さな画面の中に集約されていた。
「…………」
俺は、無言でその画面を見つめた。
ざまあみろ、という暗い喜びが湧くかと思った。
後悔させてやった、という達成感があるかと思った。
だが、俺の胸の中は、驚くほど静かだった。
「きゅう?」
俺の足元で、丸くなっていたコハクが不思議そうに見上げてくる。
スミが静かに床を磨き、ポッカが湯気を揺らす。
カウンターの奥では、グレイが俺のために、静かに豆を挽き始めていた。
ゴリ、ゴリ、ゴリ……。
重厚な音と、鼻腔をくすぐる極上のコーヒーの香り。
こんなにも温かくて、愛おしい居場所が、目の前にある。
泥沼のいがみ合いをしている地上の連中のことなんて、もう一秒たりとも考える時間がもったいない。
俺は端末の画面を伏せ、テーブルの隅へと追いやった。
「俺にはもう、関係ない話だな」
小さく呟いた言葉は、誰に聞かせるでもなく、ただ過去の自分への別れの挨拶だった。
コトリ。
俺の目の前に、湯気を立てる木製のカップが置かれた。
グレイが、長い鼻先でそれをスッと押し出してくる。
画面の端に浮かぶ短い字幕。
──『グレイ:冷める』
「……ははっ。そうだな、せっかくのコーヒーがもったいない」
俺はカップを手に取り、大きく一口飲んだ。
湧き水が引き出す、澄み切った深いコク。
ギルドを追放された過去は、今、完全に俺の中から消え去った。
これからはただ、この店と仲間たちの未来だけを見ていけばいいのだ。




