第28話 【観測】特区の安全ラインを決めるため、入り口から奥の様子だけを確かめた
【現在:開業28日目】
特区としての安全導線を確保し、報告義務を果たすため。
俺は配信の電源を落としたまま、グレイと共にカフェの入り口である植物アーチの前に立っていた。
「コハク、店のみんなを頼むな。すぐ戻るから」
俺が声をかけると、コハクは心配そうに耳を伏せながらも「きゅっ」と短く頷いた。
石の炉ではポッカが静かに揺れ、スミが床の隅で待機している。
みんなのいるこの温かい空間を守るための、少しだけの外出だ。
「行くぞ、グレイ」
俺の言葉に、銀色の巨体が静かに一歩を踏み出す。
アーチをくぐり、カフェの光が届かない領域へ。
たった数歩外に出ただけで、五十階層の本来の姿――ひんやりと冷たく、重圧感のある空気が肌を刺した。
俺たちは戦うために来たわけじゃない。
だから、武器は持たず、足音を殺して慎重に進む。
視覚、聴覚、嗅覚、触覚。
研ぎ澄ませた五感で、周囲の環境だけを確かめていく。
しばらく進むと、なだらかだった岩肌の地形が、すり鉢状にさらに深く落ち込んでいる境界線に辿り着いた。
これより先は、本当の「深淵」。
光の届かない、底知れぬ暗闇が口を開けている。
ズゥゥン……。
下から這い上がってくるような、重い振動が足の裏を伝わった。
昨日から頻繁に聞こえるようになった、あの反響音の震源地だ。
その時。
ジジッ……。
俺の脳内リンクに、耳鳴りのようなノイズが走った。
スキル【万獣統括】が、この暗闇のさらに奥底から漂ってくる「何か」の感情を、無意識に拾いかけてしまったのだ。
──『……ガ……ギ……』
──『……■■……クラ……イ……』
文字化けしたような、ひどく歪んだ短い字幕(BeastCaption)。
明確な怒りでも、悲しみでもない。ただ、ひたすらに異質で、底知れぬ規模の何か。
「……っ」
背筋に冷たい汗が流れる。
これ以上深くチャンネルを合わせれば、向こうにもこちらを気付かれてしまう。そんな本能的な危機感があった。
隣に立つグレイも、静かに牙を剥き出しにし、喉の奥で低く危険な唸り声を上げている。
飛び込もうとしているんじゃない。これ以上は近づくべきではないという、野生の最高峰としての警告だ。
「……ああ。分かってるよ、グレイ」
俺は脳内リンクの感覚を意図的に遮断し、小さく、だがはっきりと口に出した。
「これ以上は、俺たちの領分じゃない。……安全ラインは、ここまでだ」
俺たちはダンジョンを攻略する探索者でもなければ、謎を解き明かす勇者でもない。
ただの、最下層のカフェの店員だ。
「この境界線より手前なら、音の余波が来るだけで直接的な危険はない。もし何か異常なものがここまで上がってきたら、その時は防衛する。……それで十分だ」
特区としての安全導線の見極めは済んだ。
俺は未練なくきびすを返し、背後の暗闇に背を向けた。
グレイもまた、ピタリと唸り声を止め、俺の隣に並んで歩き出す。
暗闇を抜け、見慣れた植物のアーチが見えてくる。
チリリン。
俺たちの足音に気づいたチルが、高く澄んだ声で「おかえり」の音を鳴らしてくれた。
アーチをくぐると、そこは別世界だった。
ポッカが沸かした湧き水の清らかな湯気。
スミが磨き上げた、埃一つない岩床。
そして、俺の足元に飛びついてくるコハクの、とびきり温かい体温。
──『コハク:あかり、おかえり!』
「ただいま、コハク。みんなも、留守番ありがとうな」
コハクを抱き上げ、顔を埋める。
冷え切った身体に、安心感がじんわりと染み渡っていく。
カウンターの奥へ戻ったグレイが、いつものようにミルを回し始めた。
ゴリ、ゴリという重厚な音とともに、極上の深淵珈琲の香りが満ちていく。
外の暗闇のことなんて、一瞬で忘れさせてしまうほどに芳醇な、日常の匂い。
「……うん。やっぱり、ここはいい店だな」
俺はコーヒーの香りを深く吸い込み、エプロンの紐をきゅっと締め直した。
奥で何が鳴っていようと、世界がどう動いていようと関係ない。
俺たちはここで、ただ美味しいコーヒーを淹れるだけだ。
揺るぎない俺たちの日常が、今日もまた始まろうとしていた。




