第26話 【格上げ審査】本部の厳しい審査官が来たけれど、完璧な秩序と一杯のコーヒーで納得させた
【現在:開業26日目】
ついに、特区への格上げを賭けた「本審査」の朝がやってきた。
スミが床を完璧に磨き上げ、ポッカが適温の湯をキープし、グレイが静かに待機している。
俺は深呼吸をしてから、配信のスイッチを入れた。
──────【LIVE】同接:8,410──────
※指定危険区域です。絶対に真似しないでください(探索者協会・監査部 仮許可)
: うぽつ!
: 今日はいよいよ本審査か!
: 待機してたぞ
: 倉橋ニキ以外のお偉いさんが来るんだよな
: みんな緊張してる?
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「いらっしゃい。……ええ、俺はちょっと緊張してますが、うちのスタッフたちはいつも通りですね」
俺が苦笑すると、足元にいたコハクが「きゅう?」と首を傾げた。
俺のズボンに前足をかけ、立ち上がって顔を覗き込んでくる。
俺はしゃがみこみ、その背中をゆっくりと撫でた。
指先が、柔らかな冬毛の奥へとふわりと沈み込む。
ひんやりとしたダンジョンの空気を遮るように、手のひらに伝わってくる確かな体温。
撫でるたびに、コハクの喉からゴロゴロという深い音が鳴り、さらさらと毛が擦れる音がマイクに乗る。
──『コハク:あかり、だいじょうぶ』
──『コハク:あんしん』
「……ああ、ありがとうな」
コハクの温もりに背中を押された、その時だった。
チリリーーーン!
入り口の特等席で、チルが高く澄んだ声を響かせた。
アーチの葉が揺れ、いつもの防護コートを着た倉橋監査官と、もう一人――仕立ての良いスーツの上に重厚なコートを羽織った、白髪混じりの初老の男が姿を現した。
本部から派遣された、特区認定の審査官だ。
「……失礼する。ここが、申請のあった『最下層カフェ』か」
初老の審査官は、鋭い鷹のような目で店内をぐるりと見渡した。
そして、巨大な銀狼であるグレイを見るなり、顔をしかめる。
「倉橋君。話には聞いていたが……いくら何でも、SSランクのボス魔獣を含め、これほど複数の個体を狭い空間に放し飼いにしているとは。正気の沙汰とは思えんな」
厳しい口調。
さらにタイミングが悪いことに。
ズゥン……。
五十階層のさらに奥から、昨日よりも少しだけはっきりとした、重い反響音が響いた。
「なんだ、今の音は」
審査官が顔を険しくする。
「奥の深淵エリアから聞こえる、原因不明の地鳴りです。最近、観測されるようになりました」
「……そんな不安定な環境下で、魔獣の群れを管理できると? 何かの拍子にパニックを起こせば、一瞬でここは血の海だぞ。特区認定など、到底下せん」
審査官が吐き捨てるように言った。
その言葉に、配信のコメント欄もピリッと凍りつく。
──────【LIVE】同接:10,240──────
: うわ、お堅い人が来た
: まあ、一般常識からしたらそうなるよな
: ここで地鳴りとかタイミング悪すぎだろ!
: 大丈夫か、これ……
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だが。
そんな重苦しい空気を切り裂くように、カウンターの奥で重厚な音が響き始めた。
ゴリ、ゴリ、ゴリ。
グレイが、特大のミルを回し始めたのだ。
地鳴りがしようと、厳しい視線を向けられようと、一切の動揺はない。
ただ、目の前のコーヒー豆を完璧に挽くことだけに集中している。
そして。
スミは『きれい』と倉橋たちの足元の泥を吸い取り、ポッカは『あったか』と適温のお湯を揺らす。
コハクは審査官の足元にトコトコと歩み寄り、匂いを嗅いでから、ぽすんとお腹を見せて転がった。
──『コハク:しってる』
──『コハク:あんしん』
「……な、なんだこの狐は。地鳴りに怯えもしないのか……?」
審査官が目を白黒させている間に、グレイは湧き水を沸かしたお湯で、丁寧にコーヒーを抽出していく。
トトトトト……。
極上の香りが、最下層の張り詰めた空気を完全に塗り替えてしまった。
グレイはカップにコーヒーを注ぐと、長い鼻先でそれを審査官の前に押し出した。
──『グレイ:冷める』
「どうぞ。うちの自慢の、湧き水を使ったコーヒーです」
俺が促すと、審査官はためらいながらもカップを手に取り、一口飲んだ。
その瞬間。
「……っ!」
審査官の鋭い目が、驚愕に見開かれた。
深淵珈琲の深いコクと、極上の湧き水が引き出すクリアな甘み。
「……信じられん。なんだ、この澄み切った味は。それに、この空間の……異常なほどの落ち着きは」
審査官が呆然と呟くと、傍らにいた倉橋が静かに口を開いた。
「お分かりいただけましたか。彼らはパニックなど起こしません。ここはすでに、『店』という一つの完璧な秩序のもとに成り立っているんです。これ以上の安全な拠点が、ダンジョン内にあるでしょうか」
──────【LIVE】同接:11,580──────
: 倉橋ニキのナイスアシスト!
: 審査官、完全に毒気を抜かれてるww
: そりゃあの湧き水コーヒー飲んだらな!
: 完璧な秩序。良い言葉だ
: さすが俺たちの最下層カフェ
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審査官はカップを見つめ、やがて深く息を吐き出して、表情を和らげた。
「……なるほど。随行員が報告書で熱弁していた意味が分かった。確かに、この水と秩序は、特区としての価値が十二分にある」
審査官が手帳を取り出し、ペンを走らせる。
「審査は、条件付きでクリアとしよう。本部に正式な決裁を申請する」
「本当ですか! ありがとうございます!」
俺が頭を下げると、コメント欄も爆発的な歓喜に包まれた。
だが、審査官は手帳を閉じながら、一つだけ鋭い視線を残した。
「ただし、懸念事項が一つある。……あの奥の反響音だ」
審査官が、深淵の方角を指差す。
「ここのスタッフが動じないのは分かった。だが、あの音に過敏になった野生の魔獣が暴走して、ここに雪崩れ込んできた場合……客の安全を確保する『導線』が不明確だ。それさえクリアできれば、正式に特区として認可を下そう」
安全導線の確保。
特区として、客を守るための絶対条件。
「……分かりました。すぐに対処します」
俺が力強く頷くと、審査官は「期待している」とだけ言い残し、倉橋と共に帰っていった。
チリリン。
チルが見送りの音を鳴らす。
審査は通った。あとは、あの「音」に対する安全の証明だけだ。
俺は、店の奥に広がる深い暗闇を、静かに見据えた。




