第16話 【試用】角鹿が落としていった「お掃除スライム」を雇ってみた
【現在:開業16日目】
すうっ、と。
黒いゼリー状の塊が床を滑るたびに、こびりついていた泥や埃が一瞬にして消え去っていく。
塊が通り過ぎた後の岩の床は、まるで水拭きと乾拭きを同時に終わらせたみたいに、不自然なほどピカピカに輝いていた。
「……マジか。すげえな」
朝の仕込み前。
俺はカウンターの中から、その光景を呆然と見下ろしていた。
昨日、初めての常連客になってくれた角鹿。
その蹄の裏にくっついてやってきた黒いぷるぷるは、一晩でカフェ内の床を半分以上、磨き上げてしまっていたのだ。
スライム系の魔獣はダンジョンにいくらでもいる。だが、ここまで「清掃」に特化した個体は珍しい。
黒い塊は俺の視線に気づくと、ぽよんと跳ねて足元にすり寄ってきた。
――とりあえず、名前は「スミ」にしておくか。
脳内リンクに、単純で純粋な感情だけが浮かぶ。これは俺にしか聞こえないやつだ。
──『スミ:よごれ』
──『スミ:きれい』
どうやら、綺麗にすることが本能的な喜びらしい。
ただ居着かれるのは困る。でも、ちゃんと役割を果たしてくれるなら話は別だ。
「よし。スミ。ここを掃除してくれるなら、居ていいぞ」
俺が役割を提示すると、スミは嬉しそうに『ぴか』と短く返して、また床へ戻っていった。
これなら、“居候”じゃなくて店の一員だ。
「きゅ、きゅうぅ……」
だが、その新入りを面白くなさそうに見ている奴がいた。
コハクだ。
自分の縄張りに見知らぬ者が増えたのが気に入らないのか、鼻に皺を寄せて、ふんす、と息を吹きかけている。
前足でちょいちょいとスミをつつこうとした、その時。
──『グレイ:勝手に触るな』
カウンターの奥。
グレイの短い言葉が、脳内リンク越しに落ちてきた。
それはスミに対しての「店のものに無闇に触れるな」というルールでもあるし、同時にコハクへの「ちょっかいを出すな」という牽制でもある。
コハクはビクッと耳を伏せ、すごすごと俺の足元へ退却してきた。
グレイは一歩も動かず、ただ黄金の瞳でスミの働きぶりを静かに見ている。
「さて。俺はいいと思うんだが……店員を増やすなら、みんなの意見も聞かないとな」
俺は端末を操作し、いつものように配信を繋いだ。
──────【LIVE】同接:6,102──────
※指定危険区域です。絶対に真似しないでください(探索者協会・監査部 仮許可)
: うぽつ
: 仕込み配信助かる
: 主、足元の黒いの何!?
: スライム?
: グレイ店長、今日もイケメン
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「いらっしゃい。今日は開店前の準備中から繋いでます」
俺はカメラの角度を下げ、床を滑るように掃除していく黒いスライム――スミを映した。
「昨日のお客さんの蹄にくっついてきた、お掃除スライムです。見ての通り、床の汚れを食べてピカピカにしてくれるんですが……今日は皆さんに、こいつの処遇を決めてもらおうかと」
俺は配信アプリのアンケート機能を立ち上げた。
「タイトルは『清掃スライム、採用する?』。選択肢は三つです」
1.即採用(有能すぎる)
2.3日間様子見(試用期間)
3.不採用(かわいいけど危ない)
「さあ、どれがいいか投票をお願いします。名前はとりあえず『スミ』で」
──────【LIVE】同接:7,050──────
: 投票きたー!
: 掃除してくれるスライムとか有能すぎだろ
: 普通に欲しいわ。一家に一匹スミちゃん
: でも魔獣だからなー。2の様子見で!
: 慎重に2で
: 即採用の1!
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同接が七千人を超え、アンケートのパーセンテージが目まぐるしく動いていく。
結果が出るまでの間、俺はコーヒー豆の選別を進めることにした。
「きゅう……」
足元で、コハクが甘えるような高い声を出した。
見下ろすと、後ろ足で立ち上がり、俺のズボンをカリカリと引っ掻いている。
「どうした、コハク」
俺がしゃがみこむと、コハクはぽふっ、と勢いよく俺の膝の上に乗り込んできた。
そして床を滑るスミをチラリと睨みつけ、俺の腹に顔をぐりぐりと押し付けてくる。
──『コハク:いや』
──『コハク:あかり、とられる』
新入りに俺の気を取られているのが、たまらなく嫌らしい。
あからさまな嫉妬だ。
「ははっ。取られないよ。お前は一番の先輩ウェイターだろ?」
俺は笑いながら、コハクの背中を両手でわしゃわしゃと撫で回した。
指先が、柔らかな冬毛の奥へとふわりと沈み込む。
膝から伝わってくる、小さな命の確かな体温。
撫でられているうちに不満が溶けたのか、コハクは耳をぴょこんと立て、ゴロゴロと深い喉鳴らしの音を立て始めた。
さらさらという毛擦れの音が、マイクに乗って配信に流れていく。
──────【LIVE】同接:7,620──────
: コハクたん嫉妬かわえええええ
: 尊死する
: 主そこ代われ
: 最高の癒し時間
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コメント欄が「かわいい」で埋め尽くされた頃、アンケートの制限時間が終了した。
結果は――『2.3日間様子見』が55%でトップだった。
「なるほど。やっぱり皆さんも慎重ですね。じゃあ、スミには『3日間の試用期間』という形で、掃除を担当してもらうことにします」
俺がそう宣言すると、床の汚れをあらかた吸い終わったスミが、嬉しそうに『つる』と弾んだ。
その時だ。
ぷるっ、と。
スミが突然、何かに怯えたように形を崩し、俺の足元に隠れるみたいに縮こまった。
「ん? どうした?」
足の裏に、ほんのわずかな振動が伝わった気がした。
奥の暗闇の方から響く、気のせいみたいな地鳴り。
「……なんだ。ただのダンジョンの環境音か。気にするな、スミ。たまにある」
俺は怖がらせないように、あえて軽く流した。
ここは五十階層。地面が小さく鳴るくらいで、いちいち騒いでいられない。
カウンターの奥で。
グレイは結果に異議を唱えることなく、静かにスミを見下ろして、短く告げた。
──『グレイ:見ておけ』
試用期間という結果に対する、店長としての「俺が見張る」という同意のサインだった。
「これで、店の掃除はスミに任せられそうだな」
俺はピカピカになった床を見渡し、深く息を吐いた。
「おかげで、明日は久しぶりに……コーヒーの抽出と『音』の配信だけに集中できそうだ」
明日は、極上のASMRを届けよう。
そんな静かな期待を胸に、俺は今日の配信を締めくくった。




