第15話 【常連】甘い匂いに釣られて、最初の「お客さん」がやってきた
【現在:開業15日目】
昨日作った新メニュー『甘実のはちみつラテ』。
その強烈に甘くて香ばしい匂いは、一晩経った今でも、最下層のカフェ内にほんのりと漂っていた。
カサ……。
入り口の植物アーチが、遠慮がちに揺れた。
外からそっと店内を覗き込んできたのは、立派な枝角を持つ一頭の鹿の魔獣だった。
若草色の美しい毛並み。
しかし、その大きな瞳はひどく臆病そうで、こちらの様子をびくびくと窺っている。
昨日の配信終盤で聞こえていた「新しい足音」の主だ。
甘い匂いに釣られて――たぶん、入り口の前でずっと迷っていたのだろう。
俺が声をかけようとしたその時。
カウンターの奥にいたグレイが、ゆっくりと視線を角鹿へ向けた。
そして、客席用に置かれた丸太の椅子へと、短く顎をしゃくる。
──『グレイ:座れ』
威嚇ではない。
店長としての、毅然としたルールの提示。
角鹿はビクッと肩を揺らしたが、グレイに敵意がないことを悟ったのか、おずおずと店内へ足を踏み入れた。
そして、指定された丸太の前に、ちょこんと行儀よく座り込む。
「いらっしゃい。甘い匂いに釣られてきたのかな?」
俺は微笑みかけながら、昨日仕込んだ琥珀色のシロップを取り出した。
その瞬間、短い字幕が浮かぶ。
今のは配信画面じゃない。俺の中にだけ落ちた“本音”だ。
──『角鹿:……あまい?』
期待と不安が入り交じった感情。
「ああ、とびきり甘いやつを淹れるよ。ちょっと待っててくれ」
俺は端末を操作し、いつものように配信を繋いだ。
──────【LIVE】同接:5,210──────
※指定危険区域です。絶対に真似しないでください(探索者協会・監査部 仮許可)
: お、開いた
: って、鹿!?
: 新しい魔獣だ! かわいい!
: 昨日の匂いに釣られたお客さんかな?
──────────────────────
同接は五千人台。
常連たちが温かく見守る空気感が、もう出来ている。
「ええ、昨日言っていた『甘いお客さん』です。どうやら、うちの初めての常連になってくれそうですよ」
俺がそう言うと、足元にいたコハクが、トコトコと角鹿のほうへ近づいていった。
ふんふん、と鼻をヒクつかせ、角鹿の匂いを嗅ぐ。
草と、乾いた土の匂い。
それに、怯えの匂い。
危険はないと判断したらしい。
コハクは俺の足元に戻ってくると、誇らしげに胸を張った。
──『コハク:あんしん』
「そうか。コハクが言うなら間違いないな」
俺はしゃがみこみ、コハクの背中を撫でた。
指先が、柔らかな冬毛の奥へとふわりと沈み込む。
手のひらに伝わってくる、確かな体温。
撫でられているうちに、コハクは目を細め、ゴロゴロと心地よい喉鳴らしの音を響かせた。
その間に、グレイが手際よくコーヒーを抽出し、温めたミルクを注ぎ込む。
美しい葉のラテアートが描かれたカップに、俺が甘実のシロップを垂らして完成だ。
「お待たせ。特製はちみつラテだ」
俺が角鹿の前にカップを置くと、湯気と共に立ち上る強烈な甘い匂いに、角鹿の耳がピンと立った。
長い舌を伸ばし、恐る恐る表面を舐める。
次の瞬間、角鹿の大きな瞳が、ぱあっと輝いた。
──『角鹿:……おいしい!』
その一言で、コメント欄の温度が一段上がるのが分かった。
──────【LIVE】同接:6,540──────
: 鹿さんの目が輝いたwww
: 癒されるわー
: 初の常連客獲得おめでとう!
: グレイ店長のコーヒーは魔獣にも通じるんだな
──────────────────────
角鹿は夢中になってラテを舐め、あっという間にカップを空にしてしまった。
満足そうに「ふう」と息を吐くと、立ち上がって俺とグレイに深く頭を下げる。
そして帰り際。
角鹿は口にくわえていた、色鮮やかに紅葉した落ち葉を数枚、カウンターの端にそっと置いた。
彼なりの「お礼」なのだろう。
「ありがとう。またおいで」
俺が声をかけると、角鹿は嬉しそうに短い鳴き声を上げ、アーチをくぐって帰っていった。
――その際。
角鹿の蹄の裏にひっついていた『黒いぷるぷるの塊』が、ぽとりと床に落ちたことには、配信中の誰も気づかなかった。
◇
「今日もいい配信だったな。お疲れ様、グレイ、コハク」
配信を切り、俺は落ち葉を片付けながら息を吐いた。
ふと、床の隅に転がっている『黒い塊』に目が留まる。
「なんだこれ。泥の塊……じゃないな」
俺が近づくと、その黒い塊は、ぷるん、とゼリーのように震えた。
そして、床についていた泥汚れの上を滑るように移動し、汚れごと自分の中に吸い込んでしまったのだ。
塊が通り過ぎた後の床は、ピカピカに磨かれたように輝いている。
「……お掃除スライム?」
俺は目を瞬かせた。
どうやら、角鹿が思いがけない落とし物をしていってくれたらしい。
「これが居てくれたら……明日は掃除の手間が省けそうだな」
ピカピカになった床を見つめながら、俺は明日のカフェの営業に、新たな楽しみを見出していた。




