第13話 【保護】震えてる迷子を温めたら、お礼に「甘い実」を置いていった
【現在:開業13日目】
昨日、元パーティーメンバーの澪がやって来て、そして去っていった。
彼女が置いていった後悔と涙の余韻は、最下層の冷たい空気に溶けて――薄く残っていた。
けれど、ここは俺の居場所だ。
過去のしがらみも、地上の喧騒も届かない。
だから今日も、俺たちはいつも通りに店を開く準備をしていた。
コーヒーの香りで、空気を整えながら。
カタ、カタカタカタ……。
ふと、微かな音が入り口の植物アーチの外から聞こえてきた。
風に揺れる葉の音ではない。
浅く早い吐息と、何かが小刻みに震え、歯の根が合わずに鳴っているような音だ。
「きゅうぅ……」
足元で、コハクが即座に低く鳴いた。
俺のふくらはぎの後ろにすっと隠れ込み、冬毛の柔らかな感触が、脛にぴたりと押し付けられる。
脳内に直接、彼女の強い感情が流れ込んできた。
──『コハク:こわい』
今のは、配信の字幕じゃない。
俺のスキル【万獣統括】が拾った感情が、頭の中で短い言葉に落ちただけだ。
……警戒心。
入り口の外にいるのは、ただの風のいたずらじゃない。
ズン、と重い足音が一つ鳴った。
カウンターの奥で豆の選別をしていたグレイが、ゆっくりと一歩だけ前に出たのだ。
威嚇の唸り声は上げない。
ただ、巨大な銀狼の姿で入り口を見下ろし、見えない“線”を引くように立ち塞がる。
配信はしていない。
それでも俺の中には、短く鋭い字幕(BeastCaption)が浮かんだ。
──『グレイ:待て』
店長としてのルール提示だ。
不用意に近づくな。まず、それが何なのか確認しろ、と。
「分かってる」
俺は頷いて、呼吸を整えた。
それから、グレイの巨大な前足の横を抜け、ゆっくりとアーチの外を覗き込む。
そこにいたのは、両手で抱えられるほど小さな魔獣だった。
くすんだ灰色の毛を逆立て、丸まった背中が小刻みに震えている。
よく見れば、ぺたんと寝た小さな耳。
涙で潤んだ、黒いつぶらな目。
震える拍子に、短い前足がちょこんと覗く。
怪我をしている様子はないが、ひどく怯え、冷え切ったダンジョンの空気に耐えかねているようだった。
「……大丈夫だ。ここなら襲われないよ」
俺は極力低い、落ち着いた声で語りかけながら、慎重に抱き上げた。
ひどく冷たい。まるで氷の塊を抱えているみたいだった。
俺はすぐに店内に戻る。
焚き火のそばに毛布を敷いて、迷子をそっと下ろしてやった。
そして、小さな器にぬるま湯を入れて、鼻先に置く。
コハクはまだ俺の足元で警戒していたが、俺が頭を撫でてやると、おずおずと前に出て迷子の匂いを嗅いだ。
ぴんと張った耳をピクピクと動かし、周囲に他の脅威がないか、これを追ってきた気配がないかを確かめている。
ただ怯えているだけじゃない。
拾い狐としての本能が、店と俺の安全確保のために動いているのだ。
「偉いぞ、コハク。周りは大丈夫か?」
「きゅっ」
俺はしゃがみこみ、コハクの背中を大きく撫でた。
指先が、ふわふわの冬毛の奥へとふわりと沈み込む。
冷えた空気に晒されていた俺の手のひらに、コハクの温かい体温がじんわりと戻ってきた。
生きている、確かな熱。
コハクは目を細め、ゴロゴロと小さな喉鳴らしの音を立てる。
さらさらと毛が擦れる音が、店内に張り詰めていた空気を少しずつ溶かしていった。
「ちょっとだけ、繋ぐか」
俺は端末を操作し、短時間の配信をスタートさせた。
こんな最下層でも、生き物が助けを求めてくることがある。
それを記録として残しておくのも、特区を預かる者の役目だと思ったからだ。
──────【LIVE】同接:5,342──────
※指定危険区域です。絶対に真似しないでください(探索者協会・監査部 仮許可)
: お、今日は早いな
: ん? なんか画面の隅に毛玉がいない?
: 主、それどうしたの!?
: もしかして保護した? 危なくない?
: 拾っちゃダメってばっちゃが言ってた
──────────────────────
「いらっしゃい。ちょっと入り口で震えてた迷子がいまして」
俺は声を落とし、静かに語りかける。
「フラッシュとかで驚かせると可哀想なので、姿はあまり映さないようにしますね。今日は静かに見ていってください」
カメラの角度を調整し、迷子の姿が直接映らないように、足元と焚き火だけを画角に収めた。
聞こえるのは、温かいお湯をぴちゃぴちゃと飲む小さな音と、パチパチという薪が爆ぜる音だけだ。
──『迷子:さむい』
配信画面に、たどたどしい字幕が浮かぶ。
──────【LIVE】同接:5,810──────
: さむいって言ってる……
: 可哀想に。迷い込んじゃったのかな
: でもここは50階だぞ、どうするんだ?
: 飼うの?
──────────────────────
「いや、飼いませんよ。ここは一時的に預かるだけです」
俺はきっぱりと首を振った。
「ダンジョンの生態系に、俺たちが過剰に介入するのはよくありません。しっかり温まって体力が戻ったら、帰る場所を探してやらないと」
俺がそう言うと、焚き火の熱と毛布で少し落ち着いたらしい迷子の横に、コハクがぴたりと寄り添った。
自分より少しだけ小さなその身体に、自分の冬毛を押し付けて湯たんぽ代わりになっている。
迷子の震えが、次第に治まっていくのが分かった。
丸まっていた身体が解け、ゆっくりとした呼吸音に変わる。
──『迷子:あったか』
その字幕を見て、コメント欄に「よかった」「尊い」という文字が静かに流れていった。
それから数十分後。
すっかり元気を取り戻した迷子は、立ち上がって身震いをした。
毛並みに艶が戻っている。
「きゅう」
コハクが短く鳴いて、入り口の方へすっと鼻先を向けた。
自分の尻尾をゆらゆらと揺らして、外へのルートを示すような仕草をする。
安全な帰り道の匂いを、すでに嗅ぎ取っているらしい。
「ほら、コハクが道案内してくれるってさ。気をつけて帰るんだぞ」
迷子はアーチの手前まで歩くと、ふと足を止め、俺たちの方を振り返った。
そして、なぜか異常にふくらんでいた右頬の毛の奥をごそごそと前足で掻き分ける。
ぽとり。
小さな音を立てて、地面に何かが落ちた。
迷子はそれだけを残して、コハクが示した安全な暗がりへと、トコトコと駆けていった。
──────【LIVE】同接:6,105──────
: 今、なんか落としていった?
: 頬袋に隠してたのかわいい
: お礼かな?
: 恩返しキター!
──────────────────────
「なんだ、これ」
俺はアーチに近づき、地面に落ちたそれを拾い上げた。
それは、ルビーのように透き通った、琥珀色の木の実だった。
指先からでも、とろけるような強い甘い匂いが伝わってくる。
「……これ、シロップにしたらコーヒーにすごく合うかもしれないな」
俺は甘い実を光にかざしながら、小さく笑った。
ただの気まぐれな保護のつもりだったが、思いがけないお土産をもらってしまった。
「よし、明日はちょっと、これを使って甘い新メニューでも試してみるか」
冷えた空気が残っていたカフェに、明日の楽しみという温かい期待が満ちていく。




