第12話 【来店】追放した元ヒーラーが震えながら謝りに来た(※配信OFF)
【現在:開業12日目】
その日、俺は配信のスイッチを入れていなかった。
毎日繋ぐのも悪くないが、たまには機材のメンテナンスや、豆の選別に集中する「定休日」も必要だと思ったからだ。
静かな最下層。
焚き火のパチパチという音と、遠くで水が跳ねる音だけが響く。
サァッ……。
不意に、入り口の植物アーチが揺れた。
風じゃない。誰かが、草を掻き分けて入ってきた音だ。
漂ってきたのは、安っぽい回復薬と、微かなフローラル系の香水の匂い。
それに混じって、鉄の匂いがした。
「……灯、さん」
声は掠れていた。
名前を呼ぶだけで喉が痛い、そんな声だった。
そこに立っていたのは、ギルド『蒼穹の剣』のヒーラー、神崎澪だった。
……立っている、というより、どうにか倒れないでいる。
防寒着の裾は裂け、泥が乾いて白くこびりついている。
手袋は片方だけで、むき出しの指先は赤く腫れていた。爪も何本か欠けている。
手首には包帯が巻かれていたが、端が茶色く染まって、固まっていた。
ひどく震えていた。
寒さだけじゃない。息が浅く、肩で呼吸をしている。
顔は青白く、目元は赤く腫れている。泣きはらした跡だ。
無理もない。ここはダンジョン五十階層。
強力な魔素が渦巻き、視界の端には巨大な銀狼が鎮座しているのだ。
普通の探索者なら、立っているだけで正気を失う空間である。
「きゅう……」
足元で、コハクが低く鳴いた。
いつもなら客(倉橋やヒナ)にすり寄っていくはずのコハクが、今日は俺のふくらはぎの後ろに隠れ、警戒するように身を低くしている。
コハクの習性は「安全を見極める」こと。
今の澪から放たれる、後悔、恐怖、焦りといった負の感情の匂いを、本能的に「危険」と判定したのだ。
指先でコハクの背中を撫でる。
ふわりと毛が沈み込み、震える小さな体温が伝わってくる。
大丈夫だ、と撫で続けると、毛擦れの音とともに少しだけ震えが収まった。
一方、グレイはといえば。
立ち上がりもせず、ただ静かに、黄金の瞳で澪を見下ろしていた。
牙を剥くわけでも、威嚇の唸り声を上げるわけでもない。
ただ、“線”だけがそこにある。
配信は切っているが、俺のスキルがグレイの感情を脳内に字幕(BeastCaption)として浮かび上がらせる。
──『グレイ:客じゃない』
「グレイ、大丈夫だ。手出しはしないでくれ」
俺が声をかけると、グレイはフンと短く鼻を鳴らし、視線だけを逸らした。
それで十分だった。
「……ごめんなさい」
静寂の中、澪が消え入りそうな声で口を開いた。
「昨日、配信を見ました。灯さん、すごく……楽しそうで。私、自分がどれだけ酷いことをしたか、急に恐ろしくなって……っ」
「……そうか」
俺は、短く返した。
喉の奥が少しだけ熱くなったけれど、飲み込んだ。
澪は耐えきれないというように、その場に崩れ落ちた。
冷たい岩床に両手をつき、ボロボロと大粒の涙をこぼす。
「あの時、私は止められたんです……! 灯さんが毎日、私たちのために徹夜で安全なルートを探してくれてたことも……目立たないように、魔獣のヘイトを完璧にコントロールしてくれてたことも……一番分かっていたのは、回復職の私だったのに!」
ギリッ、と彼女の爪が岩床を引っ掻く。
己への嫌悪と、後悔に満ちた声だった。
「でも、怖かったんです……! 逆らって、自分の居場所がなくなるのが……だから、黙って……っ」
懺悔だった。
俺の胸の奥で、昔の痛みが小さく跳ねた。
だけど。
ここは、あの会議室じゃない。
最下層の、コーヒーの匂いがする場所だ。
「……澪」
俺は、静かに彼女の名前を呼んだ。
怒りじゃない。線を引くための声だ。
「ここには、魔獣を倒すための『戦い』はないんだ。派閥も、言い訳も、押し付け合いも……要らない」
俺は、グレイとコハクを交互に見た。
温かくて、不器用で、優しい俺の相棒たち。
損得じゃなく、ただ俺という人間を見てくれている。
「ここが、俺の居場所だ。……あそこにはもう未練なんてない」
澪が顔を上げた。
泣いて、震えて、言葉を失ったまま。
俺は続けた。
「謝るな、って意味じゃない。謝罪は……受け取る。受け取って、それで終わりにする。ここで、区切る」
言い終えると、胸の奥が少しだけ軽くなった。
俺は手元のケトルを持ち上げた。
お湯は沸いている。
目の前には、冷え切った指先で岩床を掴んでいる、かつての仲間。
この店は、客を選ぶべきか?
それとも、一杯のコーヒーで冷え切った体を温めてやるべきか。
答えは、案外シンプルだった。
グレイが、ゆっくりと鼻先を動かした。
カウンターの端に、空のカップを――澪から少し離れた場所に、コトリと置く。
──『グレイ:座れ』
短い言葉。
それは“許した”でも、“迎え入れた”でもない。
ただ、「客としての最低限」を与える合図だった。
「……澪。そこ、座って」
俺が言うと、澪は小さく頷き、ふらつきながら椅子に腰を下ろした。
座った瞬間、肩ががくりと落ちた。堪えていたものが切れたみたいに、手が震える。
俺はコーヒーを淹れた。
いつも通りに、蒸らして、落として。
湯気が立ち上る。
香ばしい匂いが、最下層の冷たい空気を少しずつ塗り替えていく。
澪は、カップを両手で包み込んだ。
指先に、熱が戻っていくのが分かるようだった。
その瞬間。
「きゅ……」
コハクが、俺の足元から顔を出した。
まだ警戒は解けていない。
でも、さっきよりほんの少しだけ、距離が近い。
俺は空いた手で、コハクの背中をそっと撫でた。
指が冬毛の奥へ沈み、温かさが掌に広がる。
毛が擦れて、さらりと小さな音がした。
澪は、カップの縁に唇を触れたまま、しばらく黙っていた。
それから、やっと息を吐いて――小さな声で言った。
「……また、来ていいですか?」
その問いが、ずるいのは分かっていた。
“許してほしい”じゃない。
“居させてほしい”だ。
俺は、少しだけ困って、そして笑った。
「ここは、誰も拒まないよ」
言い切ってから、続ける。
「……ただし、戦わない。嘘は持ち込まない。あと――ここは最下層だ。そんなにボロボロになってまで来るな。安全を十分に確保できるなら、来てもいい」
澪が、何度も頷く。
俺は肩の力を抜いて、最後に付け足した。
「……そもそも来れる人間も、少ないけどな」
澪の目尻から、また涙が落ちた。
でも、今度はさっきの涙とは違う匂いがした。
グレイが一度だけ、鼻を鳴らす。
──『グレイ:守れ』
短い言葉が、店のルールとして胸に落ちた。
配信を切っても、店は続く。
誰かを迎え入れる日もあれば、線を引く日もある。
でも、ここは――戦わない場所だ。
俺は湯気の向こうで、澪の指先が少しずつ温まっていくのを見ていた。




