屋上 後
「それで、私はだから、あんたは嫌いだよって言ったの。そしたらあいつなんて言ったと思う?」
少女は相変わらずの不機嫌そうな顔だが、先刻よりも随分と饒舌になって言う。太陽は随分と昇り、屋上の日蔭は殆ど無くなってきていた。少女は膝を抱えたまま、翼を見上げて首を捻る。
「どうして、あなたここに居るの?」
「だって、僕が居なくなったら君自殺するでしょ」
「当たり前でしょ」
「じゃあ、居なくなるわけにはいかないよ」
「……お人好し」
少女は顔を背けた。翼は笑って、先を促す。
「……私の話より、あなたの話をしてよ。何でここに居るの?」
「うーん……よく分からないんだよね」
「はあ?」
「気付いたらここに居た、って感じで。図書館で勉強してたのは覚えてるんだけどさ」
「ふうん……真面目なのね」
「いいや、今日は夏休みの最終日だからね。友達の宿題を手伝いに駆り出されたんだよ」
翼が笑うと、少女は怪訝そうな顔になったが、特に何も言わず、抱えた膝に顎を乗せた。
「……僕はさ、何となく、君が羨ましいな」
「えっ?」
「ちゃんと、自分の意思を持って、それに向かって進んでる。勿論自殺はいけないことだけど、僕よりよっぽど、『上等な』人間だよ」
翼はそして、僅かに目を伏せた。
「……そんな事無い、あなたは、優しい」
少女はそう言って、驚いたように翼が振り返ると、照れたようにそっぽを向いた。
「……私ね、人が嫌いなの」
「……ふうん?」
「金切り声で騒ぐ親も、嘘ばっかり言う先生も嫌い。特に子供なんて、近くに居るだけで寒気がするの。だけど、誰もこの感覚を分かってくれないし馬鹿にする。だから、嫌い。人間アレルギーみたいなものよ」
少女は自分の体を抱いて小さく身震いをした。
「……僕も、嫌いだよね、じゃあ」
「ええ、多分」
「ちょっと離れようか」
「待って」
少女は翼のシャツを掴む。翼は驚いたような顔になった。
「……あなたは、多分、大丈夫」
「……そっか」
それから少し少女は黙った。翼は何も言わず、視線を空に向け、ぼんやりとして思考を巡らせる。
「……あなたが大丈夫なのは、多分、あなたが他の人と違うから」
「ふうん?」
「どうしてだろう、近くに居るのに、凄く遠くの人に感じる」
「……そう」
翼は小さく笑い、それから、また二人の間に沈黙が落ちた。
「……僕さ、」
次に口を開いたのは、翼だった。翼は視線を空に逸らしながら、ぽつり、ぽつりと言葉を紡ぐ。
「学校が、嫌いだったんだよね」
「……へえ」
「そりゃあ、勉強が嫌いだとか面倒だとか、月並みな理由はいくつでも在るよ。でも一番は、あの、学校っていう特殊な空間が、凄く嫌いだったんだ」
翼は瞼を閉じ、僅かに傾いだ太陽から目を逸らした。
「君みたいに、特殊って言うか、個性的な感覚は無いんだと思う。だけど、僕は、」
そこまで言って、翼は口を噤む。そしてゆっくりと立ち上がった。フェンスに近付いてまた街を見下ろせば、そこには閉塞的な田舎の街が見えた。
「明日からまた学校だから、ちょっと憂鬱だった。……それだけ、なんだけどね」
「……ねえ、さっきも気になったんだけど、」
少女が立ち上がり、翼に近付く。
「明日は、日曜日でしょう? 日曜日に学校始まるの?」
「え? 何言ってるんだよ、今日が日曜日……」
翼は手帳を取り出して、その日付を少女に見せる。少女は暫時それを睨んでいたが、それから口元に手を当てて笑った。
「あなた、一年間違えてるでしょ。間抜けなの? これは二〇一四年のカレンダーでしょ。今年は二〇一三年なんだから」
少女は翼の手から手帳を取り、ぱらぱらとめくる。そして、二〇一三年、八月の二十四日を指差した。確かに、曜日は土曜日だ。
「変な奴だと思ったけど。もしかして、相当の馬鹿?」
鼻を鳴らす少女を見下ろして、翼は呆然としていた。だがそれから、ふっ、と笑って、悟ったように小さく頷く。
「……そうか……僕は」
ぽつり、と翼は呟いて、口元を笑わせる。
「ねえ、」
「帰るの?」
少女は、翼のすぐ後ろに居た。翼が驚いたような顔をすると、少女は不安げな目で翼を見上げる。
「……帰らないよ。でも……もしかしたら、どうしてここに来たのか、分かった……かも、知れないんだ」
翼はそして、ゆっくりと、目を閉じた。
途切れる前の記憶、図書館で友人の宿題を手伝っていた風景。それから――――
「僕が未来から来たって言ったら、君は、笑う? ―――――瀧島、風花さん」
そう言って、翼は儚げに、その顔を笑わせた。
夏風が屋上を吹き抜けて、少女、風花は暫く黙っていた。翼は手帳を捲り、こまごまと書き込まれた日記のページを出す。
「信じられないかな。確かに、これから何が起こるかを言っても、証明にはならないけど」
「ちょっと待ってよ、何で、もし未来から来たとかそういうのが現実だとして、何であなたは、」
「僕は一年度、死んだんだ」
翼はあっさりと言った。風花は、掴んでいた翼のシャツを離し、唇を震えさせる。
「……恋もしないで終わったから、神様が悪戯してくれたのかも知れないね」
「っ……待って、待ってよ! あなたもここに居るってことは、患者なんでしょ!?」
「え?」
「ここは精神病院なの! どうせ、あなたも妄想患者でしょ、だって」
「ごめん、僕は病気じゃない。……ここが病院の屋上だってことも、今、知ったよ」
翼は手帳を開いたまま、街に向き直った。
「……さっき、触れたし、今も触れた。……信じないよ」
「でも、残念ながらそれが一番辻褄が合っちゃうんだよ。僕の中では」
翼はフェンスに寄りかかる。
「……分かった、分かったわ、信じるから、信じるからお願い、」
風花はそして、ぎゅうっ、と翼に抱き着いた。
「……行かないで。こんなに長く人と向き合っていられたのは初めてなの。声を聞いて不快にならなかったのは初めてなの。触っても吐き気がしないのは初めてなの!」
風花は額を翼の背に押し付ける。翼は苦笑した。
「……だったら、嬉しいなあ」
「死なないでよ! もっと話したいことが在るの、まだまだ、」
「自分は死にたいのに、僕が居なくなるのは、嫌なんだ」
翼が言うと、風花は息を飲んだ。意地悪だったかな、と翼は目を伏せる。
「……僕がもし、一年後で生きてたら、さ」
翼は手帳とペンを風花に差し出した。
「明日、学校が終わったら、会いに来る。だからそれまで、ちょっと生きてみてくれない?」
そう言って、ああ、自分はもうどうしようもなくこの少女が好きなのだと翼は苦笑した。
今日会ったばかりで。話がまともにできるというだけで、こんなに自分に依存してくるような、きっと『立派』ではない少女に、自分よりもずっと、生きて欲しいと願っている。
だが――――これほどまでに危うくて、繊細で、儚いからこそ、愛おしい。きっと一般的に見れば『異端』だからこそ、輝いて見える。学校と言う普遍な場所を厭った自分が惚れた相手としては、納得ができてしまうではないか。
風花が突き出した手帳を捲って、八月二十五日に書かれた『風花に会う』という文字に、笑う。
言えない。二度とそんな日が来ないであろうことなど。
ここに来るまでの記憶を辿る度に、この夏の屋上の感触が消えていった。今ではしがみつかれている風花の感触すら、危うい。
最後の記憶は、自分に向かってくる、巨大な鉄の塊。きっと自分は死んだ。
だが、もしその死の代償に、一年前に死んだ風花を救えたのなら―――
「いいんじゃないかな、それも」
そう言って、翼は、ひたすらに蒼い空を見上げた。




