第九話 二つの火
本日4話目です。
その夜、僕は新しい炭筆で帳面に区切り線を引いた。
線の上には《三歩の道》、下には《退かぬ盾》について書く。
――正面から来る物を止める。
――盾に十本の線があり、一つずつ光る。
――出している間は、その場から動けない。
――受けた重さは肩と腕に伝わる。
――土砂を受けている間に、自分で消せるかは確かめていない。
最後の一行を書き終えた時、肩に鈍い痛みが走り、炭筆の先が右へ滑った。それを見た母さんが言った。
「もう今日は休みなさい。疲れているでしょう」
「うん」
僕は素直に炭筆を置いた。両腕には、薬草を混ぜた布が巻かれている。骨に異常はなかったが、湯の器を持つだけでも肩が痛んだ。
夕食の時に父さんから聞いた話では、地下道で足を傷めた人は自宅へ運ばれ、骨も折れていなかったらしい。しばらく歩けないだけで済みそうだという。地下道の入口は崩れた土砂でふさがり、白喰いの通れる隙間は残っていない。夜の見張りは必要だが、今日中に作るはずだった壁より、かえって厚くなったそうだ。
「でも、確かめたいことがあるんだ」
「何を確かめるの?」
「危ないことはしない。《三歩の道》が使えるか見るだけ」
母さんは止めずに、僕の隣へ座った。
「どうして今、確かめたいの?」
「能力が二つになったから」
僕は正直に答えた。
「増えたのはうれしい。でも、二つとも同じように使えるのか、まだ分からない。何かあった時に、必要な方が使えなかったら怖い」
母さんが黙って続きを待つ。僕は先に手順を付け足した。
「椅子から立たず、青い足跡が出るか一度だけやってみる。出なければそこでやめる。盾は試さない」
母さんは少し考えてから、台所までの床を空けてくれた。
椅子に座ったまま、台所までの安全な三歩を思い浮かべる。いつもなら胸の奥で名もなき斥候の火が揺れ、床に青い足跡が現れるはずだった。
足跡は出ない。
代わりに、両腕が重くなった。胸の奥で反応したのは、盾の火だ。
「使えない」
「疲れているからではなくて?」
「《三歩の道》の代わりに、盾の方が反応した。疲れているから出ないという感じじゃない」
念のため、盾を出すまねはしなかった。今の肩で出せば、何も受け止めなくても痛みが強くなるかもしれない。
「分かったことを一つ書いたら、今日は休む」
炭筆を取り直すと、母さんは湯の入った器を机の端へ置いた。二つの能力の間へ、こう書く。
――盾を得てから、《三歩の道》が出ない。
◇
布団へ入って目を閉じると、暗い場所にいた。いつもの夢とは少し違う。体は見えないのに、自分が立っていることだけは分かる。
前には、古い石の塔があった。窓も扉もなく、壁に二つのくぼみが並んでいる。
左のくぼみには、細く揺れる火。右のくぼみには、盾の形に広がる火。
二つとも、僕の胸にある残火だと分かった。けれど、火の前に置かれた小さな灯皿は一つしかない。
今は右の火が灯皿へ入り、明るく燃えている。左の火は消えてはいないが、灰の下で息をひそめるように弱くなっていた。
(だから、《三歩の道》が使えなかったのか)
一つの器で、二つの火を同時に燃やすことはできない。
右の火を戻し、左の火を灯皿へ移そうとした。けれど火は動かない。手でつかむことも、息を吹きかけることもできなかった。
ただ、どちらを次に灯したいかは選べる気がした。
(明日は、《三歩の道》)
心の中で決めると、左の火が一度だけ強くなり、暗い塔が遠ざかった。
◇
朝、目を覚ますと、肩の痛みが少し軽くなっていた。布団の横には、母さんが置いた水差しがある。
起き上がる前に、水差しまでの安全な三歩を願った。
床に、青い足跡が三つ現れる。
「戻った」
その声を聞き、父さんが戸を開けた。
「何がだ?」
「《三歩の道》。昨日は出なかったけど、一晩眠ったら使えるようになった」
父さんは、足跡があるはずの床を見た。
「盾は?」
両腕を前へ出してみる。肩には昨日の痛みが残っているが、盾の重さが胸から返ってくる感覚はなかった。
「たぶん、今度は盾が使えない」
「二つ持っていても、使えるのは一つか」
「うん。眠る前に選べるみたい。でも、一晩眠ったことが必要なのか、時間が必要なのかはまだ分からない」
父さんは、すぐに分かったつもりになるなといつも言う。だから僕も、一度できただけのことを決まりにはしなかった。
朝食のあと、父さんと母さんへ暗い塔と二つの火のことを話した。父さんは灯守の古い帳面を何冊か持ってきたが、似た記録は見つからない。
「一度に灯す火は一つ、か」
父さんが、区切り線を挟んで並んだ二つの能力を見る。
「灯守なら、《一灯》と呼ぶところだな」
「一つの灯り?」
「灯皿が一つなら、そこへ置く芯も一つだ。お前の中でも、一度に灯せる火は一つということだ」
僕は二つの項目の上へ、《一灯》という見出しを書き足した。能力の名前ではない。二つの残火を持つ僕が、忘れてはいけない制限の名前だ。
帳面には、まだ名前の分からない二人の最期が並んでいる。藤代明人の記憶では、僕は読まれなくなった手紙から人の名前を拾っていた。今は名前さえ拾えない人たちの願いを、こうして書いている。
「この帳面にも、名前をつけていいかな」
僕が尋ねると、母さんは表紙を指でなぞった。
「能力の帳面ではないの?」
「能力だけじゃない。あの人たちが何を見て、何を残したかったのかも書くから」
「それなら、能力だけを表す名前より、残火を残した人たちのことが伝わる名前がいいわね」
僕は表紙へ、ゆっくり三文字を書いた。
《灯名帳》。
能力のことだけを書く帳面ではない。見たことも、確かめたことも、出会った人の名前も、ここへ書いていく。その中に、名前を失った人も確かにここにいたと残したい。《灯名帳》は、そのための名前だ。
表紙の文字を見た父さんが、古い灯守の帳面を一冊、その隣へ置いた。何代も前の灯守が残した記録も、最初は一人が書いた小さな帳面だったらしい。
二冊の帳面を見比べながら、藤代明人の記憶についても考えた。けれど、この前よみがえった場面の外へ手を伸ばそうとすると、やはり輪郭がぼやけてしまう。はっきりたどれるのは、資料館で古い手紙を広げ、書いた人の名や日付を確かめていた場面だけだ。そこにあった道具の名前は分かっても、使い方や仕組みまでは出てこない。
今の僕が明人の記憶から使えるのは、あの場面で明人の手が実際にしていたことだけだった。それでも、見たことと考えたことを分け、分からない部分を分からないまま残す習慣なら、灯籠の火を数える今の暮らしでも使える。
その習慣を思い出したというより、ずっと前から自分の手がそうしていた気がする。斥候の記憶を受け取った時の、外から流れ込んでくる感じとは違った。
(明人は、生まれる前の僕だったのかな)
すぐに答えは出なかった。けれど、その考えは不思議と怖くなかった。
《灯名帳》も、いつか誰かが読むかもしれない。だから、分かったことだけでなく、まだ分からないことも消さずに残すことにした。
今度は線を引き、記録する場所を四つに分ける。残火から見たこと。今の世界で確かめたこと。まだ分からないこと。そして、僕がそうではないかと考えたこと。
最後の一つは、あとで間違いだと分かるかもしれない。だから事実と同じ場所には書かない。記録にないことと、起きなかったことは同じではない。けれど、考えたことと、起きたことも同じではなかった。
能力が二つに増えても、使える火は一つ。
だから、選ばなければならない。
誰の力を使うかだけではなく、今、その力を何のために使うのかを。




