第十話 銀の鐘の少女
本日5話目です。
最初の残火へ触れた日から数えて三日目の昼前、北の見張り台から、二枚の板を打ち合わせる音が響いた。村の鐘は、白喰いを捕らえるために落としてしまった。代わりに決めた警告の合図が、この板の音だ。一度なら人影、二度なら魔物。
板の音は、一度だけだった。
「人が来た?」
僕は家の窓から北を見た。東の山道は崖崩れでまだ通れず、橋の修理へ向かった人たちも昼まで戻れないと聞いている。そもそも古戦場側から村へ来る人など、何年もいなかった。
板の音を聞いた父さんは、「様子を見てくる」と言って見張り台へ向かった。
「肩はどう?」
母さんに聞かれ、腕を胸の高さまで上げてみたが、そこから先はまだ鈍く痛んだ。
「胸の高さまでは上がる。でも、それより上はまだ痛い」
「昨日よりは動くようになったわね。向こうが気になる?」
「うん。でも、まだ人が来たことしか分からない。まずは父さんが戻るのを待つよ」
「そうね。話を聞いてからにしましょう」
青い火が関係しているなら、見に行きたい。けれど見張り台が確かめたのは、人影だけだ。何が起きているのか分からないまま、肩を痛めた僕が父さんの後を追う必要はない。
やがて表で足音が止まり、父さんが家へ戻ってきた。
「見張り台のやつからの連絡で、カイにも来てほしいそうだ」
「どうしてカイも必要なの?」
「古戦場を一人で歩いてくる者がいる。見たことのない銀の鐘を持っているらしい。残火と関係があるかもしれん。カイに、何か見えるものがないか確かめてほしいそうだ」
「危険はないの?」
「柵の外へは出さない。俺が隣について、遠くから見てもらうだけだ」
母さんは少し考えてから、《灯名帳》を布で包んで僕へ差し出した。
「残火のことを確かめに行くなら、これも必要になるかもしれないでしょう。あなたにとって大切な《灯名帳》だもの」
「うん。持っていく」
「気を付けて行っておいで」
母さんは戸口の脇へ寄り、僕たちに道を空けた。
「行ってきます」
僕は《灯名帳》を腰袋へ入れ、父さんと北へ向かった。
◇
北の柵には、弓を持ったダリオさんと、村の男が三人集まっていた。
古戦場を見ると、倒れた石柱の間を誰かが歩いてくる。風が吹けば消えてしまいそうな、小さく澄んだ音が届いた。村の鐘とは違う音だ。
小柄な人影だった。頭から白に近い灰色の外套をかぶり、右手には自分の背より少し短い槍を、左手には細い鎖で持ち手へつないだ銀の鐘を持っている。
鐘が鳴るたび、古戦場に浮かぶ青い火がわずかに揺れた。吹き消しているのではない。道の両側へ静かに分かれ、人影が通り過ぎると元の場所へ戻っている。
「女の子?」
僕が言うと、父さんが目を細めた。
「お前と同じくらいに見えるな」
少女は、柵から十歩ほど離れた場所で止まった。
外套の頭巾を下ろすと、銀色の長い髪が肩の後ろへこぼれた。片側を細く編み、後ろで濃紺のリボンにまとめている。淡い青灰色の目をしていて、よく見れば、僕より少し年上だ。
白に近い服は首元まで閉じられ、襟と胸元には濃紺の布が重なっていた。頬には乾いた泥がつき、外套の左袖は石にこすれて裂けている。
それでも槍を持つ手は震えておらず、ただ息だけが荒い。古戦場で走れば、白喰いに居場所を知らせることになる。少女は追われても歩く速さを崩さないまま、ここまで来たのだろう。
父さんが、水筒を柵の下から滑らせた。
「飲め。話はそのあとだ」
少女は一度だけ迷ってから、槍を脇へ抱えたまま水筒を拾った。匂いを確かめて二口飲み、柵の下へ滑らせて返してくる。
「ありがとうございます。ここはルカ村ですか?」
「そうだ。お前はどこから来た」
父さんの問いに、少女は槍を地面へ置いた。敵意がないと示すためだろう。けれど、銀の鐘だけは手放さない。
「古戦場の北側にある巡回路から来ました。セラといいます。十三歳です。《冠灯院》で学んでいる、見習いの《灯葬士》です」
冠灯院という名前は、初めて聞いた。けれど灯葬士という言葉には、父さんが反応した。
「死者の火を静める者。古い帳面には、そう書かれていた」
「知っているんですね」
「名前と、その一文だけだ。実際に出会ったのは初めてだ」
セラが、外套の胸元から白い金属板を取り出した。細かな文字と、冠の下で燃える灯りの印が刻まれている。
「古戦場で残火の数を調べていました。いつもなら端を半刻で抜けられます。でも今日は、目印にしていた石が倒れ、戻る道も崩れました」
「一人で入ったのか?」
「はい。中へ入ったのは私一人です。師は北の入口で待っています。定められた範囲だけを調べ、同じ道で戻る予定でした」
少女は一度言葉を切り、古戦場を振り返った。通ってきた場所には、小さな銀色の板が三つ立っている。残火の位置を測る目印なのか、どれも同じ間隔で石の隙間へ差し込まれていた。
「予定どおりにはいきませんでした。昼なのに、鐘が残火の動きを拾い続けました。灰をまとった獣もいました」
「灰をまとった、六本脚の獣か?」
「見たんですか?」
父さんが、昨日から起きたことを短く説明した。日中に現れた白喰い。地下道。広場に落とした鐘。真昼に燃え続ける青い火。
「白喰いというのは、さっき話した六本脚のことですか?」
「そうだ。ルカではそう呼んでいる」
「冠灯院でいう《灰追い》ですね。灰追いがいたので、北へ戻るより、この村へ進む方が近かったんです」
「師は、お前が戻らなくても探しに来ないのか?」
「日暮れまで戻らなければ、北の詰め所へ知らせる決まりです。巡回路が崩れた以上、師が一人で追えば、行方不明が二人になります」
不安でないはずはない。それなのに、決まりを説明する声は少しも乱れなかった。
セラは、父さんの説明を思い返すように少し黙った。
「さっき、真昼に燃え続ける青い火とおっしゃいました。灯葬士でも、残火は鐘の返りでしか分かりません。昼の火を、誰が見たんですか?」
「僕が見た」
僕が答えると、セラの目がこちらへ向いた。
「目で、見えるんですか? 鐘も使わずに」
「見える。一昨日から、見えるようになった」
「一昨日」
セラが銀の鐘を持ち上げる。父さんが、僕の前へ腕を出した。
「何をする」
「音の返りを確かめるだけです。人を傷つける術ではありません」
セラが指先で鐘を一度鳴らすと、澄んだ音が僕の胸へまっすぐ入ってきた。名もなき斥候の火が揺れる。少し遅れて、眠っている門番の火も揺れた。
セラが銀の鐘へ耳を寄せる。音が消えたあとも、鐘の内側にはかすかな震えが残っているらしい。
もう一度、鐘が鳴った。セラは目を閉じ、消えていく響きを確かめた。目を開いた時には、それまでの礼儀正しい表情が消えていた。驚きが、警戒へ変わっている。
「どうした?」
父さんが尋ねる。
セラは答えず、地面へ置いた短槍を拾った。切っ先を僕へ向けるのではなく、胸の前へ横に構えている。それでも、いつでも踏み込める姿勢だ。
「その子の中で、残火が二つ燃えています」
柵を挟み、村の大人たちが息をのむ。
「一つでも、生きた人の中にあってはいけないものです」
セラの銀の鐘が、風もないのに小さく鳴った。
「あなたは、何者なんですか?」
僕はすぐに答えた。
「カイ。ルカ村の灯守の息子だ」
藤代明人でも、斥候でも、門番でもない。
(その記憶を持っていても、僕の名前はこれだけだ)
今ここで答える名前だけは、迷わなかった。
けれどセラは、短槍を下ろさなかった。
明日は3話投稿予定です!




