第八十一話 誰のものでもない火
柵の戸が開くと、父さんが先に外へ出た。
鉤棒を肩へ担ぎ、道の両側の草へ目を配っている。後ろにノアの父で猟師のダリオさんと、村の若い男の人が二人。僕とセラは真ん中を歩いた。
ゆうべ眠る前、灯皿には槍兵の火を選んでおいた。谷で皆に渡した青を、今日も使えるように。
道沿いの最初の火は、石台のすぐ脇にあった。膝より低い所で、青がゆっくり揺れている。灯籠の道から毎晩目に入っていたのに、そのままにしてきた火だ。
「ここ。石の陰の、少し手前」
セラが包みから鐘を出す。僕は半歩下がり、手を後ろで組んだ。触れたくなった時は、こうして自分の手を止めることにしている。
鐘が三度鳴った。
一度目で青が膨らみ、二度目で揺れが細かくなる。三度目で、ほどけた光が上へ抜けて消えた。土の上に残ったのは、乾いた草と石の影だけだ。
若い二人が顔を見合わせたので、僕は石の脇を指した。
「今ここにあった火が、送られました」
「……何にも見えんかったなあ」
「僕にしか見えないので」
二人はうなずき、それきり黙って槍を持ち直した。信じてもらえるのが当たり前になったのは、いつからだろう。
誰の火かは分からない。分からないまま送るのが、今日の決まりだった。帳面へ書くのは、場所と、送ったことだけになる。
◇
道沿いを送り終え、畑の向こうの窪みへ入る手前で、ダリオさんが手を挙げた。
「風が変わった。畝の向こうで何か動いとる」
父さんが鉤棒を下ろし、若い二人が左右へ広がる。窪みの縁から、灰の獣が二体出てきた。
背の灰は薄いが、手前の一体が草を蹴ってこちらへ向きを変えた。腹の下に、墓喰らいの黒い糸は付いていない。
「手前は左の肩、奥は胸の真ん中!」
ダリオさんが矢をつがえ、父さんが鉤棒を前へ出した。獣が土を蹴る前に、皆へ届ける。
「皆の刃へ、青を渡します。《青火結び》」
穂先へ青が這った時には、もう走り出していた。
父さんの鉤棒へ触れ、若い二人の穂先へ駆ける。届けに走る時、体は軽い。最後にダリオさんの矢じりへ指を当てて離すと、四つの刃に青が残った。
「……なんだ、こりゃ」
ダリオさんが矢じりを見下ろした。弦を引いた腕は、少しも揺れていない。
「左の肩です!」
放たれた矢が青い筋を引き、手前の一体へ吸い込まれた。灰を押し分けた矢じりが肩の奥で止まる。割れる音はしない。渡したばかりの青は、まだ細かった。
獣がよろめいた所へ、若い一人が飛び込んだ。矢の刺さった肩へ、青い穂先を突き入れる。今度は、硬いものの割れる音が小さく鳴った。獣の体が、その場で崩れた。
奥の一体が、こちらへ向き直った。前脚が上がりきる前に、残る一人の槍が脚の付け根を突き、正面からセラの短槍が胸の灰を払う。傾いた体の真上へ、父さんが踏み込んだ。
「父さん、胸の真ん中!」
打ち下ろされた鉤の先が、灰の奥へ沈んだ。一度では割れない。父さんは鉤を引かずに、もう一度体重を乗せた。割れる手応えが柄を伝ったのか、父さんの眉がわずかに動く。二体目の灰も、土の上へ落ちた。
終わってみると、数えるほどの間しか経っていなかった。
若い一人が、自分の穂先を見下ろしたまま動かない。
「今、割れたよな。俺の槍で」
「割れました」
「……灰の獣を、俺たちが倒したのか」
もう一人は、崩れた灰を槍の先でつついている。笑っていいのか分からない顔で、何度もつついていた。
ダリオさんが弓を下ろし、僕の頭へ手を置いた。
「町で、こういうことをしてきたのか」
「皆がいてくれたからです」
「謙遜はいらん。見りゃ分かる」
父さんは獣のいた方へ目を向けた。灰の中には、ダリオさんの矢が刺さっている。
「遠くから攻撃できるのは便利だが、矢につけた火は取りに行かんと次には使えんのか。面倒だな」
「矢じゃなくて、弓に渡したらどうなるんだろう」
僕はダリオさんの弓へ、自分の穂先をそっと当てた。青が弓へ移ると、ダリオさんは矢筒から新しい矢を抜いて弦につがえた。矢じりに触れていないのに、そこにも青が灯っている。
「試すぞ」
ダリオさんが、獣のいなくなった土へ矢を放った。青い矢は地面に突き立ち、弓にも火が残っている。続けて二本目をつがえると、地面に刺さった矢の青が消え、新しい矢じりへ移った。
「おお……」
ダリオさんが青い矢じりを見つめた。
「これなら、一つずつ渡しに行かなくていい」
父さんは青の消えかけた鉤の先から、ダリオさんの弓へ目を移した。弓と、次につがえた矢に青が灯っている。
「こりゃ便利だ。俺もまた弓の稽古をし直すか」
「やめてくれ。俺の見せ場がますます無くなる」
ダリオさんがおどけた顔で弓を抱えこむと、父さんが小さく笑った。
セラは短槍を握ったまま、手のひらを開いたり閉じたりしている。
「胸の灰を払う時に、穂先へ通そうとしました」
「散った?」
「握りの少し先で。戦いの中だと、余計に力が入ります」
セラは短槍を握り直し、固くなった指を一本ずつ開いた。昨日は手を緩めると先まで進んだ。戦いの中でも、それができるようになりたいのだろう。
◇
窪みの火を送り終え、墓地へ上がる道の脇へ回った。転がった大きな石の裏に、最後の火がある。そのそばでは、錆びた留め具が土に半分埋まっていた。
知らない火には触れず、帳面に場所と留め具の形だけを写す。僕が火の位置を伝えると、セラは鐘を三度鳴らした。最後の青がほどけて消え、留め具は石の陰に残った。
柵の手前まで戻ると、村の人が何人か外へ出てきていた。畑帰りの人と、子どもが三人。少し前までは、外から人が戻るたびに数を数える時間だった。誰が欠けたか、誰が怪我をしたか。今日は、そういう顔をしている人がいない。
「獣、出たんだってな」
「二体です。一体は、ダリオさんの矢が開けた所へ槍が届きました」
「ダリオの矢が?」
畑帰りの人が後ろを振り返ると、ダリオさんは返事の代わりに矢筒を叩いた。その人は感心したように首を振り、畑の話へ戻っていった。
柵の内側で、ノアが手を振っている。灯籠の組を出す前に、こちらを見に来たらしい。
「終わったの?」
「村の分は、全部」
「じゃあ、次は町?」
「その前に、リナたちを見送るよ。明日の朝、荷車で町へ渡るんだって」
「うん。リナ、カイ兄に会ってから行くって言っていた」
ノアはそれだけ言って、石台の方へ走っていった。走りながら、後ろの子へ順番を言っている。
家に入る前に、柵の外を振り返った。道沿いにも、畑の向こうにも、青いものは見えない。久しぶりに、村の外が普通の夜になっていた。
夕飯の後、土間で鉤棒の先を拭いていた父さんが、手を止めずに言った。
「村の連中と、灰の獣を倒せたな」
「うん」
「あいつら、よく踏み込んだ」
鉤の先へ油を引く手を止め、父さんが小さく笑った。自分たちの槍で獣を倒した後、若い二人は顔を見合わせていた。父さんも、あの顔を見ていたのだろう。
《灯名帳》の村の側の行へ線を引く。誰の火かは分からないまま、触れずに送った。留め具の形だけを写した。
それから、袋の底を探った。
布袋の中で、鳥の羽のお守りが四つ、指に触れた。四人で古戦場へ出る前の日に、リナが渡してくれた物だ。帰ったら四つとも見せる、と約束していた。
帰ってきてから、もうずいぶん経っている。その約束を、僕はまだ果たしていなかった。




