第八十二話 町へ渡る
夜明けの広場に見慣れない荷車が引き出されていた。
車輪の泥はきれいに落とされ、幌の破れ目には新しい布が当ててある。見張り塔の外に置き去りになっていた、マルクさんたちの荷車だ。古戦場が落ち着いてから、ダリオさんたちが前の日に引き戻してきたのだという。
御者のボルさんは、馬の腹帯を締め直しながら振り返った。
「待たせたな。今日でようやく、こいつの仕事が終わる」
見張りの櫓ではユハンさんが手すりにもたれ、荷車を見下ろしていた。
「俺はもう少し村の見張りを手伝ってから、町へ行くよ。世話になった分くらい返さないとな」
ボルさんが手を上げると、ユハンさんも振り返した。
荷台の横では、肩の上で髪を切りそろえたリナが僕を待っていた。その後ろでは、ノアが眠そうな目をこすっている。
袋から布袋を出して口を開くと、鳥の羽のお守りが四つそろって出てきた。
「四人とも、帰ってきたよ」
リナは羽を一つずつ指で確かめてから、顔を上げた。
「一つもなくしていない」
「うん。約束したから」
リナは少し笑い、羽を一つだけ取った。
「今度は、どこへ行くの?」
「北へ。セラと一緒に行くつもりだよ」
「ガランさんは?」
「まだ分からない」
残りの三つが、僕の手のひらへ押し戻される。
「一緒に行くなら、ガランさんの分も。今度も、みんなで帰ってきてね」
「……ありがとう。三つとも、持っていく」
朝の風が吹き、手のひらの羽が少しだけ揺れた。荷台へ上がったリナがノアに手を振ると、ノアも眠そうな目のまま大きく手を振り返した。
◇
荷車は東の橋を渡った。
前に落ちていた所には新しい板が隙間なく並び、柱を継いだ鉄の帯が朝日を返している。補修方の人たちが、墓喰らいの崩れた鉄の中から使える物を選んで打ったのだと聞いた。車輪が板を踏むたびに、橋全体が低く鳴る。ボルさんは一度も手綱を緩めず、馬の耳の向きだけを見ていた。
欄干越しに谷を見下ろしたセラが、小さく息を吐いた。あの日、この縁で僕たちは囲まれていた。底の水音は今日も遠い。
橋の向こうの道の脇には、灯籠が間を空けて並んでいた。荷車の後ろを歩く父さんが置き場所を決めた灯籠で、石台の上の油壺には、白喰いの嫌う村の油が満たしてある。町の兵へ油の足し方を見せるために、父さんも町まで一緒に来ていた。
灯籠を一つずつ目で追っていたマルクさんが、ユナさんへ何か言った。
「この間隔なら、夜に荷を出しても次の灯がすぐ見えます。前の道より、半日は早く町へ着けるでしょう」
どの灯籠が何刻ぶんの道を照らすのか、商人は数で測るらしい。
ハルドの町の東門をくぐった所で、荷車は止まった。マルクさんたちとの別れは短かった。
「今度は、道が崩れていない時に来ます」
頭を下げたマルクさんの横で、ユナさんが僕とセラの手を順に握った。荷台の上のリナは一度だけ振り返り、一つだけ持っていった羽を高く上げてみせた。
壁の詰め所ではザハルさんが待っていた。
机の上に、見覚えのある名簿が広げてある。壁の外に残された人たちの名前を書いた欄で、いくつかの名前の横に、僕の字で「場所が重なった」と書き添えてあった。家族が最後に見た場所と、火が見えた場所が同じだったという意味だ。
「外の火を送る日を、決めておきたい」
ザハルさんは名簿をこちらへ向けた。
「家族には、送る日を知らせる。来たい者は来させる。来ない者には、送ったとだけ伝える」
「はい。家族の話と名簿を、皆で照らし合わせましたね」
「ああ。場所は重なるが、火の持ち主までは分からん。家族には、そのまま伝える」
名簿の端を指で一度叩いてから、ザハルさんは顎で外を示した。
「それと、ガランが鍛冶場にいる。新しい盾ができたそうだ。寄っていけ」
◇
鍛冶場の前でガランさんが腕を組んで立っていた。谷で痛めた膝は、もう庇っていない。足元の台には、布を掛けた大きな物が立てかけてある。
「来たか」
鍛冶の親方が無言で布を取った。
大盾だった。前の物より少し細身で、縁が厚い。鉄の面には墓喰らいの体から外した板が何枚も継ぎ合わせてあり、打ち直した跡が波のように残っている。持ち手の裏に一枚だけはめ込まれた古い板には、留め具の穴が半分だけ残っていた。
谷で、ガランさんが自分の荷へ入れていた板だ。
「魔道具じゃない。鉄と木と革だけだ」
「それでいい」
ガランさんは持ち手へ腕を通した。持ち上げた盾が、すっと胸の前で止まる。面を一度軽く揺すってから、鍛冶場の脇に打ち込まれた太い杭へ向き直った。
ガランさんは一歩踏み込み、盾の縁を杭へ打ちつけた。
鈍い音とともに、杭が根元から傾いた。
親方は口を開けたまま、傾いた杭を眺めている。ガランさんは盾を下ろし、持ち手の裏の古い板を親指で一度だけなぞった。
「……やはり、盾があると落ち着くな」
親方が、傾いた杭を見下ろした。
「……それ、鉄を曲げる時に使う杭なんだが」
ガランさんは親方と杭を交互に見た。
「す、すまん!」
深々と頭を下げるガランさんを見て、僕とセラは顔を見合わせた。親方は杭に手を置き、小さく息を吐く。
「叩き直せる。次は声を掛けてくれ」
「分かった。必ず掛ける」
ガランさんは咳払いを一つして、僕の方へ向き直った。
「カイ。午後は空けておけ」
「何をするんですか」
「稽古だ」
◇
稽古はその日の午後から始まった。
詰め所の裏の空き地へ、ガランさんが木の短剣と棒と、刃を潰した斧を並べていく。
「槍が折れた時、手の届く所に何があるか分からん。何を拾っても、最初の一振りで止まらんようにしておけ」
谷から戻った日、ニルスさんに言われたことを思い出した。槍だけでなく、ほかの武器の使い方も習っておけ。教える相手が、ガランさんになったらしい。
ガランさんは、セラの方へ顎をしゃくった。
「槍なら、ニルスが一番詳しい。あいつに見てもらえ」
空き地の反対側で待っていたニルスさんは、長槍を壁へ立てかけ、セラに何度か突かせてから穂先の高さを指でそろえた。
「型はできているな。誰に習った」
「師です」
「いい師だ。崩す所が無い。足すのは、退きながら突く形と、人と並んで突く間合いだ」
「退きながら突く形から、お願いします。鐘を鳴らす前に、自分の身を守れるようになりたいので」
セラはすぐに構え直し、ニルスさんの足を目で追った。退く途中で穂先が揺れると、もう一度同じ所から始める。今度は最後まで穂先を相手へ向けたまま下がれた。
「今のだ。忘れないうちに、もう一度」
うなずいたセラは、言われるより先に足を戻した。
僕の方は木の短剣からだった。握り、構え、退く時の足。ガランさんは一つ見せて一つやらせ、違えば何も言わずにもう一度見せる。三度目でようやく後ろ足から下がれるようになり、下がった先でも木の刃を正面へ向けていられた。
棒から斧へ持ち替えると、大人の手に合わせた柄は重心が先の方にあり、振りかぶった肩が後ろへ引かれた。それでも振り下ろした刃は止まらずに杭へ届き、乾いた音を立てて木屑を散らす。手に返る重さを受け止め、僕は柄を握り直した。
杭の傷と僕の腕を、ガランさんが見比べた。
「担ぐ力が、腕にも回り始めとるな」
「……分かるんですか」
「斧は肩で振る物じゃない。それでも、腕の力だけであの斧を振り下ろすとはな。次は体も使え」
空き地の向こうから、ニルスさんの声が飛んできた。
「その歳の子の振りじゃないな」
「僕だって、もう子どもじゃありませんから」
思わずそう返すと、ニルスさんは短く笑った。
笑われても、悪い気はしなかった。この腕の力は、袋や石を担いだ日に急に出てきたものだ。出てきた力を、出てきたままにしておくつもりはない。明日からは、朝の素振りと、荷を担いでの坂の往復を自分の日課にする。そう決めて、休みの間に《灯名帳》の確かめたことの欄へ一行目を書いた。
休みの間、ニルスさんは水袋を回しながら、ぽつりと言った。
「王国軍の槍の隊にいた頃、隣の隊の者から、この男の話をよく聞いた」
顎で示した先では、ガランさんが新しい盾の持ち手の革を締め直している。
「盾撃の名は、隣の隊から俺の耳にも届いていた。俺の槍もこの町では一番と言われるが、北まで聞こえていたのは、そっちの名だった」
セラが僕の方を見た。北の詰め所で聞いた話と、同じ名前だ。
「谷で一緒に戦ってみて分かった。噂通りの男だったよ」
「盾は取られた」
ガランさんは顔も上げずに言った。
「取られた盾の代わりなら、今朝受け取ったばかりだろう」
ニルスさんに返されて、ガランさんはそれきり黙った。
今なら、少しだけ聞いてもいい気がした。セラと目を合わせてから、口を開く。
「ガランさん。話したくないことは、話さなくていいので」
革の端でガランさんの手が止まった。
「町の門の脇で、火を入れられた人を戦場へ出したと言っていましたよね。その人たちが、どうなったのかを」
乾いた風が空き地の上を渡っていった。
「今は言わん」
革を締め終えたガランさんは、盾を立てた。
「話せる時が来たら、話す」
それ以上は聞かなかった。話す日があるのだということは、その言い方で分かったからだ。
夕方、詰め所を出る時に、ザハルさんが送る日を告げた。明後日の朝、壁の外の火をまとめて送る。石列の根元へは、その前の日に兵を付けて回る。
壁の外を回れば、外柵のそばも通ることになる。
送らないと決めた火の前を、僕は通らなければならなかった。




