第七十八話 二人の道
指をその青へ入れた直後、膝の下の土の湿りが消えた。
草の匂いも、セラが紙をこする音も、遠ざかっていく。指先から腕を上ってきた冷たいものが胸の奥に届くと、石の上の青も見えなくなった。
◇
家の灯が細い。
膝の上に広げた布は、洗っても血と泥が抜けきらず、地の色が茶に沈んでいた。端には麦の穂を二本交わした印が、縫った時のまま残っている。
節の太い指が、その印をなぞっていく。
戸口では、肩幅の広い男の人が頭を下げていた。
『この縫われた印を、村々で聞いて回っておりました。先日、井戸のそばで娘さんの荷に同じ印を見まして』
その人は、布を置いた経緯を順に話した。谷の手前で拾ったこと。書いてある順で山を越えたこと。
『これで、うちの者は山を越えられました。谷へ入らずに済みましたんで』
話せたのは、布が落ちていた場所までだった。倒れた柱の脇と、岩の切れ目。人は見ていない、とその人は言った。布だけが、石畳の上に落ちていたのだと。
指が止まる。
あの子が何を任されていたのかは、今でも知らない。それでも、あの子が書いたこの布のおかげで大勢が山を越えたという。
やるべきことを、果たしたのだろう。
『これを書かれた方を探しましたが、どこでも見つけられませんでした。みんなを助けてくれた方です。せめて礼を言いたくて、いろいろ探してここにたどり着いたんです』
男の人は、一度言葉を切った。
『差し支えなければ、お名前を。うちの者にも、誰のおかげか伝えておきたいもんで』
膝の上の布が、握り込まれた。
『……その子の名前は、言えないんです』
男の人は何か言いかけて、口をつぐんだ。深く頭を下げ、戸口から離れていく。
『どこかで生きているんでしょう。……待っていますからね、ここで』
誰にも聞こえない声だった。
その人が帰ってからも、布は膝の上にあった。灯の芯が短くなって、部屋の隅が暗くなる。
やがて、若い女の声がした。
『お母さん』
布を胸へ寄せて、母親は答える。
『……わたしが死んだら、隣にもう一つ、石を置いておくれ。あの子のぶんだよ。わたしが縫った印を、その石に彫ってね。帰ってきた時に、どれがわたしたちの墓か分かるように』
布の端を、指がもう一度なぞった。
『それから、この布に描いてある印も一緒に彫っておくれ。あの子がやり遂げたことだからね』
◇
指を離すと、草の上へついた自分の膝へ戻ってきた。
布は母親の元まで戻っていた。それでも最後まで届かなかったものが、一つだけ残っている。
「布は、お母さんの手に渡っていた。届けた人が、ちゃんといた」
セラは手にしていた炭筆で、紙の裏へ短く書き取っていく。
「生きているかどうかだけが、最後まで分からなかったんだ。だから待っていた。……あの石も、お母さんが頼んだものだった。自分の隣にもう一つ置いて、縫った印と、布に描いてある印を彫ってくれって」
「帰ってきた息子さんが、どれが家族の墓か分かるように、ですね」
「うん。道の順が彫ってあるのは、あの人がやり遂げたことだからって」
炭筆の先が止まった。
「分からないことが、一つある。届けた人にも名前を聞かれていたんだ。うちの者に誰のおかげか伝えたいから、って。……言えないんです、って答えていた」
自分の息子の名前だ。墓の石にも彫らせなかった。
「どうして、言わなかったんだろう」
セラが、しばらく黙った。
「……もしかすると、言わなかったのではなくて、言えなかったのかもしれません」
「言えなかった? なぜ」
「昔の戦では、斥候を出した家は名を伏せるよう、軍から触れが出ていたと習いました。斥候は一人で敵陣の近くまで出るので、捕まりやすい。捕まった斥候の家が知られれば、家族を人質に取られて、口を割らされます」
「じゃあ、言いたくても言えなかったんだ……」
「本人が戻るか、上から名を明かす許可が出るまでは、家の者は口にできません。帰ってくると信じている間は、なおさらです」
セラは膝の上で指を組んだ。
「院にも似た決まりが、今もあります。灯葬士が危ない所へ務めに出る時、家の者は行き先を口にしてはいけないんです。母が出ていた時、私も、誰にも言うなと言われていました」
聞いてはいけないことを聞いた気がして、僕は黙った。
名を言えなくても、布の端には母親が縫った印があった。届けた人はその印を頼りに、家を探し当てたのだ。
火は、印の上でまだ揺れている。
僕は、その青へ顔を近づけた。
「息子さんは、帰れませんでした」
声が掠れる。
「でも、あなたが頼んだ石は、ちゃんと置かれていました。縫った印も、布の印も彫ってあります。息子さんの火は――ここにあります。僕と一緒に、ここまで来ました」
火が、ゆっくり傾いた。印をなぞるような動き方だった。
「火を、送りますか」
鐘の包みへ手をかけたセラへ、僕は首を振った。
「……やめておく。アルドさんとの約束がある」
持ち主の分かる火は、送らずに置く。院の決まりで、アルドさんが自分の口で僕に言ったことだ。谷では破った。あの時は、負ければ標章の火が墓喰らいの手へ渡るところだった。
今は、誰にも渡らない。急ぐ理由も無い。
「でも、いつかは送ってあげたい。この人はもう、待たなくていいはずだから」
「……なら、先に許しをもらいましょう」
セラは包みから手を離して、紙を膝の上へ戻した。
「許可願いを書きます。誰の火で、なぜ送りたいのか。私の名前で出します」
「怒られるかな」
「怒られるかもしれません。でも、黙って送って後から書くより、こちらの方が通ります。……理由の欄が空いている決まりなら、埋めて返すのはこちらでもいいはずです」
僕はもう一度、印の上の青へ顔を近づけた。
「少し待たせてしまうかもしれません。ごめんなさい」
火は、同じ高さで揺れている。
「許しをもらって、また来ます。その時に送ります。……息子さんの火は、僕が預かったままにしておきます。どこへ行くにも、一緒です」
青が、印の溝に沿ってゆっくり下りた。土の中へ戻っていく動きではなく、そこで待つ構えに見えた。
百年待った人へ、もう少し待ってくれと頼んだことになる。それでも、黙って消してしまうよりはいい。
胸の奥で、斥候の火が鳴った。
鳴った、としか言いようがない。ずっと冷たいままだった青が、内側から押されるように動き出す。左足の古い痛みが、一度だけ強く走った。
あの人の火が、今の話を聞いていた。
母が待っていたことも、あの人の道を通って人が山を越えたことも、ようやく伝えられた。
熱が足の裏まで下りて、そこで形になる。
立ち上がると、足元に青い足跡が三つ見えた。呼んでいないのに、墓地の出口へ向かって並んでいる。
「……カイ」
セラの声が、少し震えていた。
「足元に、青い足跡があります。私の前に、三つ」
セラの足元を見る。僕のとは別に、セラの靴の先から三つ、同じ青が並んでいた。僕の足跡と少し離れた所を通って、同じ墓地の出口へ向かっている。
今まで、この足跡は僕にしか見えなかった。道は、僕の目の中だけにあった。
あの人が運んだ道は、自分一人が帰るための道ではなかった。大勢の人を、向こうへ通すための道だ。
それと一緒に、もう一つ入ってきたものがある。
僕は目を閉じた。それでもセラが石の右にいるのが分かる。三歩ぶん離れた所から、出口の方へ行こうとしている。そちらへ体を向けたのが、見なくても知れる。
「セラ、今、出口の方を向いたでしょ」
「向きました。……見ていませんでしたよね」
「うん。足跡を渡した人がどこにいて、どっちへ行こうとしているかが、頭の中にある」
斥候は自分の目で道を見つけ、隊がどこにいるかを掴んだまま戻ってくる人だ。掴んでいなければ、届ける相手を見失ってしまう。
「《連れ道》」
口にしてから、それがこの火の名前だと分かった。
「踏んでみて。僕も踏む」
セラが一つ目に足を置く。僕も、自分の一つ目を踏んだ。
並んで三つを踏み終えると、二人の足跡は同時に消えた。見えるのは、前と同じ三歩だけだ。それでも今は、その三歩を隣の人と一緒に踏める。
◇
家へ戻って《灯名帳》の三つ目の行へ書き足した。
――斥候の火。道は届いていて、帰る場所も空けてあったと分かって、《連れ道》になった。足跡が、そばにいる人にも見える。出る向きは、その人がやろうとしていることに合わせて変わる。見えるのは三歩のまま。続けて呼べば、左足はやはり痛む。
――足跡を渡した相手は、見ていなくても、どこにいて、どちらへ行こうとしているかが分かる。分かるのはそれだけで、怪我も、見ている物も分からない。今日はセラ一人。何人まで渡せるのかは、まだ試していない。
――母親の火が、石の下にある。送っていない。持ち主の分かる火なので、許可願いをセラが出す。許しが出たら、戻って送る。
分からないことの行から、「地図は誰にも届かなかったのか」を一つ消した。届いていた、と書き直す。
それでも、斥候の名前は村の帳面では分からないままだ。布を届けたのが誰なのかも、名前を伏せさせた理由も、今あるのはセラの知識からの見当だけで、確かなことはこの村の中に残っていない。
「避難戦の記録なら、北の地方院です」
帳面をのぞきこんで、セラが言った。
「灯火の町の院には、この辺りでいちばん大きな記録庫があります。戦の後に集められた報告は、みんなそこへ送られたはずです」
その晩、僕は父さんと村の灯籠を回った。名前の分からない灯は、命日が来ればまた墓地へ上がる道へ出す。その灯を出さなくていい年が来るのは、あの人を送れた後だ。
「名前は、分かったのか」
「分からなかった。お母さんも、最後まで言えなかったみたいで」
父さんは芯の長さを直して、油壺の蓋を閉めた。
「言えなかった方か」
「うん。……書けるようになるまで、待っていたんだと思う」
次の灯籠の前まで歩いてから、父さんは手を止めた。
「うちの帳面に無いなら、この村にそれ以上の記録はない」
「……うん」
「探すなら、村の外だ」
それだけ言って、父さんは次の芯へ火を移した。
北からの返事が届いたのは、その翌日だった。
革の筒を持ってきたのはアルドさんではない。馬を引いた大人が二人で、外套の留め具には銀の輪が一つずつ付いていた。
紙には、送火の続行と記録の受領が並び、その下に二行あった。町から戻ってきた父さんが覚えていたのは、そのうちの一行だ。
「杭を打った隊は、どの地方院からも出ていない」
石列の内側に三角に立つ三本の杭を、打った者がどこにもいない。分からないまま、返事はそこで終わっている。
もう一行は、セラが僕へ読み上げた。
「持ち主の分かる火の扱いは、地方院で直接申し出ること。紙では決めない、と書いてあります」
「……行かないと、送れないってこと?」
「はい。灯火の町の院まで出向いて、私が願い出ます。カイも一緒に呼ばれると思います」
あの人を送れるかどうかは、北で決まる。ここで待っていても、返事は来ない。
セラは自分の名前で書いた次の報告を、使いの二人へ託した。見たことと、確かめたことと、まだ分からないことを分けてある。
馬が坂を下りていくのを、二人で見送った。
「一つだけ、書かれていませんでした」
坂の下から目を離さずに、セラが言った。
「私が名前を出して問い合わせたのは、送火のことだけではありません。師のことも書きました。どこへ務めに出ているのか、生きているのか。……その行に、返事がありません」
「書き忘れ、じゃないよね」
「院の紙で書き忘れは起きません。答えられないか、答える必要が無いと決められたか、どちらかです」
包みの上から鐘の形をなぞる手が、そこで止まった。
「灯火の町の記録庫は、地方院の中にあります。務めの割り当ても、あそこで決まります。次にどこへ行くかを人に決めてもらうのは、もうやめます」
自分で申し出に行く、ということだ。
僕は北の空を見上げた。
橋は直り、荷車も通るようになった。灯籠をたどっていけば、北の宿場まで人の足で行ける。
許しをもらいに行く先と、斥候の名前が残っているかもしれない場所は、同じ建物だ。セラが行く先も、同じだった。
「セラ。一緒に行こう」
言ってから、順番が逆だったかと思った。誘われる前に誘ってしまった。
セラは少しだけ目を開いて、それから笑った。
「はい。……道の読み方なら、私の方が上です」
「足元の読み方なら、僕の方が上だよ」
坂の下の道を見るセラの顔は、見送る側の顔ではなくなっていた。
出るのは、まだ先だ。
古戦場の縁には、危なくて手を付けられないまま残った火がある。町からも、壁の外で亡くなった人たちの火を送ってほしいと頼まれたままだ。ザハルさんは、急ぎではないから村での時間を大事にしてほしいと言ってくれた。
「お互いの体が治ったら、まず村の方の残火を送りに行こうか」
「はい。順番を書き出しておきます。残していくと、また減り始めるかもしれませんから」
僕の背中の痣が引くまでの日数と、たぶん同じくらいになる。
《灯名帳》に新しい行を足した。
――灯火の町の院で、あの人を送る許しをもらう。もらえたら、村へ帰って送る。
――記録庫で斥候の名前を探す。送る時に、名前を呼べるように。
――セラの師の行方。返事に一行も無かったこと。
――院の書式で、院の隊ではない杭が三本。打った者は不明。
どの行にも、まだ線を引けない。片がついた行から消していくのが、この帳面の決まりだ。
三歩ずつしか見えない道でも、隣を歩く人と同じ三歩を踏めるなら、遠い地まで行ける気がした。




