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名もなき英雄の残火 ~死者の技を継ぐたび、少年は強くなる~  作者: 冬月樹
第一部 青い火の古戦場

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第七十七話 名の無い灯

 橋が荷車を通すようになっても、背中の痣はまだ青かった。


 骨に異常はないが、痣が引くまでは物を担ぐな、というのがテオさんの言いつけだ。日は区切られていない。診るのは町から村へ回ってくる数日おきの巡診の時で、いいと言われるまでは、僕が自分で決めていいことではないらしい。


 だから灯籠も回せない。畑の手伝いに出ようとすれば母さんに止められ、父さんには「座っとれ」と一言で片づけられる。


 手を動かせることを探して、膝の上へ《灯名帳》を広げた。


 町へ出る前から書き足してきたページを順にめくり、灯皿に宿っている三つの火を、行ごとに並べ直していく。


 ――門番の火。《退かぬ盾》。村の鐘楼の門石から、二つ目に宿した火。町の記録で、守った先が生きていたと分かって、《十返し》になった。受けた重さを返せる。


 ――槍兵の火。《青火纏い》。町の外壁跡に残っていた折れた穂先から宿した火。東の橋で、一人で戦っていたのではなかったと分かって、《青火結び》になった。仲間の刃にも青が残る。


 二つとも、町で調べて、あの人たちの心残りへ答えを返せた火だ。返した所から次の形が出てきた。


 三つ目の行で炭筆が止まる。


 ――斥候の火。《三歩の道》。古戦場で、最初に宿した火。


 その先が白いままだ。いちばん初めに宿った火なのに、この人にだけ何も返せていない。


 あの人の記憶で知っていることを下へ書き出してみる。


 ――谷を避けて山を越える脇道を見つけ、その地図を運んでいた。


 ――帰り道で矢を受け、知らせを届ける前に足が動かなくなった。


 ――母には、生きて帰ると約束していた。妹には、地図の読み方を教えると約束していた。


 ――罠の谷へ進んでしまった人たちもいた。古い補給路の木の地図と門番の記憶を重ねて、そこまでは分かっている。


 分からないことの方がずっと多い。


 ――名前。


 ――あの人が運んだ地図は、誰にも届かなかったのか。


 ――母と妹は、どうなったのか。


 書き並べた行を見て、手が止まった。どれ一つ、確かめようとしたことがない。


 この人の火で足場を見つけ、ノアを助け、谷でみんなを通した。借りているのは僕の方だ。いちばん長く一緒にいる火なのに、まだ何も返せていない。


 町で槍兵の心残りを調べたように、この人のことも調べられるはずだ。


          ◇


「手伝います」


 帳面を見せるとセラはすぐにそう言った。


 あの日の夕食から、セラはときどき家へ顔を出すようになった。来ると母さんの機嫌がなぜか良くなるので、こちらとしても助かっている。


 セラは帳面を膝の上へ引き寄せ、僕の書いた分からないことの行を読み終えると、顔を上げる。


「町では、配給の板と標章の返却記録を突き合わせました。村では、何から見ますか」


「墓の帳面。母さんに頼んで、もう出してもらっている」


 村で人が亡くなれば、灯守は墓までの道へ灯籠を置き、命日のたびに火をともす。どの家の誰にいつ灯を出すのかは、代々の灯守が帳面へ書き留めてきた。


 灯守が灯を出すのは、村の家の人だけではない。頼まれれば、よそから来て村で亡くなった人にも出す。帳面には、どの家の者かと、よそから来た人なのかが書き分けてある。


 あの人がこの村の出だったとは限らない。それでも、古戦場は柵のすぐ外だ。あの戦で戻らなかった人のことなら、いちばん近い村の帳面に何かしら残っていてもおかしくない。


 蓋を開けた僕へ、母さんが台所から声を飛ばしてきた。


「いちばん古いのは、字が薄くなっているからね。めくる時は、文字を触らないように端を持ちなさい」


 箱の底から出てきた帳面は、紙が茶色く焼けていた。墨は薄れ、書き手も何度か変わっている。父さんの字の前に祖父の字があって、その前からは知らない筆跡が続いた。端を持ってめくるたび、乾いた紙がかすかに鳴る。


 セラは紙の端だけを持って、目で一行ずつたどっていく。僕の目運びと比べて、圧倒的に速い。あっという間に、そのページを読み終えている。


 セラはよく「記録では」「本で読みました」と前置きする。その言葉の後ろには、こんなふうに読み重ねてきた時間があるのだろう。


 めくっていたセラの手が、あるページで止まった。同じ行をもう一度読み直してから、帳面をこちらへ向ける。


「百年より前です。ここだけ、名前が書かれていません」


 指の先に、細い字の一行があった。


 ――隣に石一つ。名は知れず。布を納む。命日には灯を一つ。


「隣、というのは」


 セラが、その一行の上をたどった。女の人が二人、一つの家の者として並んでいる。母と娘だ。母の行の横には、よその村から戦の後に逃れてきたことと、息子が一人、戦から戻っていないことが書き添えてあった。


「二人の墓の隣に、石が一つ。名前は分からないまま、布を納めて、命日に灯を一つ」


 灯守の帳面に、名前の書かれない行がある。頼んだ人がいて、灯守が引き受けて、それきり百年、誰も名前を足していない。


 いつの間にか父さんが戸口に立っていた。帳面をのぞきこんで、しばらく黙っている。


「この灯は、俺が継いだ時にもまだ出していた」


「誰のためか、知っていたの」


「知らん。祖父さんも知らなかった。名の分からん灯だが、そのまま出せと言われただけだ」


 父さんは帳面の行へ目を落としたまま、しばらく黙っていた。


「……二人の墓の隣に置いた石なら、息子のだろうな」


「名前は、書かなかったのかな」


「母親なら、生きているか分からなくても、息子の名前だけは残したかったはずだ。書かなかったんじゃない。書けなかったんだろう」


 それだけ言うと、父さんは水桶を提げて外へ出ていった。


 セラが、細い字の書き添えへ目を落とす。


「名前を出せない事情があったか、頼んだ人が名前を知らなかったか。どちらかだと思います」


 どちらにしても、理由が分からないまま灯だけが百年続いている。頼んだ人は、名前を書かずに灯を頼むほどの何かを持っていたことになる。


 戦から戻らない息子がいる家。その隣に、名前の無い石。あの人と結びつける材料は、まだ何も無い。同じような家は、あの戦の後にいくつもあっただろう。


 それでも、この一行から目を離す気になれなかった。


「この石、見に行こう」


 出がけに、台所の母さんへ声をかけた。


「墓地まで行ってくる。北の柵は越えないから!」


「暗くなる前に帰るのよ」


          ◇


 村の北の墓地は、古い石ほど柵の近くへ寄せてある。


 橋が落ちてから、村の男手は見張りと谷の仕事へ取られたままだ。草刈りまで手が回らず、どの列の石も膝まで埋もれている。柵の際に続く何列かが、身寄りの絶えた家の石だった。


 二人の名前を探して、セラと手分けして草を分ける。彫りの浅い石は、指でなぞらないと読めない。


 半分ほど回った所でセラが手を止めた。


「この墓石じゃないでしょうか」


 二つ並んだ石に、帳面の二人の名前が彫ってある。母と、娘。その隣の土へ埋もれるようにして、小さな石が一つ据えてあった。


 小さな石には字が彫られていない。根元の草を払うと、石の隅に印が一つだけ現れた。麦の穂を二本、交わした形だ。


「この印……」


 見たことがある。そう思ったのに、どこで見たのかが出てこない。


 僕の顔と印を、セラが見比べている。表を指でなぞると、雨に削られたざらつきが返ってきた。


 そのざらつきの方に、先に覚えがあった。


 指先でなぞるうちに、耳の奥で遠い雨の音が鳴り始める。明人の記憶が戻ってくる時の、あの音だ。


          ◇


 雨の音がしていた。


 資料館の奥の作業台で、明人は古い道標の石に薄い紙を当てていた。川沿いの工事で掘り出され、誰の物とも分からないまま運び込まれた石だ。


『読めない字ほど、目で読もうとしないこと。紙に読ませるんだ』


 先輩の声に、炭を寝かせて軽くこする。何度も、同じ所を。消えかけた字が、紙の上へ黒く浮かんできた。


 出てきたのは、行き先の村の名前と、その下に小さく彫られた人の名前だった。


『寄進した人の名前だな。偉い人でも何でもない。調べたって、何も出てこないよ』


『それでも、書いておきます。この道に石を立てた人がいた、ということだけは分かったので』


 明人は台帳を開き、名前の横に「身元未確認」と書き添えた。分からない所を、分かったように埋めることはしない。


『お前は、そういう所だけは頑固だな』


 先輩は笑って、窓の外の雨を見た。


『裏の水害の碑も、そのうち取っておけよ。あれも、誰が彫ったのか分からないままだ』


          ◇


 雨の音が遠のいて、指先に、今の石の冷たさが戻ってきた。


「カイ?」


 肩に手が置かれていた。隣にしゃがんだセラが、僕の顔をのぞきこんでいる。


「急に黙って、動かなくなりました。……名前と場所を」


「カイ。村の北の墓地。セラがいる」


 答えると、セラの手から少しだけ力が抜けた。


「明人の記憶が、少し戻っただけ。残火じゃない」


「それでも、急に応えがなくなるのは心配です。気分が悪くなったら、すぐ言ってください」


「うん、わかった」


 上着の内側を探ると炭筆は見つかったが、石に当てられるような紙が無い。腰の袋にも手を伸ばしかけた時、横から紙が一枚差し出された。


「これでいいですか?」


 セラが、報告の下書きに使っている紙を腰の袋から抜いていた。


「……ありがとう。確かめたいことがあるんだ」


 その紙を石の肩へ当て、炭筆を寝かせてそっとこする。


 石の傷だとしか思えなかった所から、細い線が浮かんできた。縦に三本。その下に、横に三本。


 息が止まった。


 斥候たちの符丁だ。縦の三本は三歩先で右、横の三本は三歩先で左。倒れた柱の右脇へ入って三歩、岩の切れ目を左へ三歩。あの人が運んでいた、脇道の入口へ入る順そのものだった。


「セラ。この順は、あの人の地図に描いてあった道だ」


 脇道の入口は、岩と背の高い草に隠れていて、遠くからは見えない。倒れた柱から数えて入る順を知らなければ、誰も見つけられなかった道だ。


「あの人は、この道を知らせる前に倒れた。それなのに、この順を知っている人がいた」


 セラが、刻みと僕の顔を見比べた。


「……地図を拾った人がいた、ということですか」


「拾って、あの道を通ったんだと思う。通らなければ、入る順までは分からない」


 でも、なぜ墓の石に道の順を刻んだのか。


 紙に浮かんだ線を見ているうちに、もう一つ、明人の見ていたものが戻ってきた。


 資料館の裏に立っていた、古い水害の碑だ。川があふれた夜に助かった人たちが、自分たちが逃げた道筋を碑に刻んで残していた。碑の説明には、こう書いてあった。道を教えてくれた人の名前は分からない。だから名前の代わりに、その人が教えてくれた道を刻んで、感謝を残した。


 同じだ。


 罠の谷へ進んでしまった人たちもいた。けれど、その後から来た人たちは、あの人の道で山を越えた。


 答えを探して、僕は石の隅の麦の穂へ目を落とした。さっきから、ずっと引っかかっている印だ。


 村の誰かの荷で見たのだろうか。母さんが僕の荷に縫ってくれた印は、こういう形ではない。この墓地で見た覚えもない。もっと汚れていて、もっと近くで見た気がする。


 ……そうだ、布だ。血と泥で汚れた布の端に、糸で縫われていた。


 斥候の記憶の中で、あの人が握っていた地図の布だった。出発の前の晩に、母が縫ってくれた印だ。


「セラ。ここ、あの人の家の墓だ」


 石の隅を指す。


「この辺りの村では、遠くへ出す子の持ち物に、母親が印を縫い込むんだ。帰ってこられなくても、持ち物だけは家へ戻れるように。僕の荷にも、母さんが縫ってくれている。あの人が握っていた布の端にも、この印があった」


 セラが、石と僕の顔を見比べた。


「縫った印を、誰かが彫ったんですね」


「石を置いた人は、この形を知っていたことになる。布を見た人だ」


 二つ並んだ石の名前は、帳面の二人だ。よその村から逃れてきて、息子が一人戻らなかった家。その隣に、道の順を刻んだ石がある。


 あの人が倒れた古戦場は、この柵を出てすぐの所だ。二人はそれを知らないまま、すぐ近くで暮らしていたことになる。


 分からないことは、まだいくつも残っている。それでも、今すぐ伝えられることが一つだけあった。


 字の無い石の前に膝をついたまま、僕は言った。


「あなたの道は、届いていました。この石に刻まれた順で、山を越えた人がいます。あなたが倒れた所は、この柵を出てすぐです。……お母さんと妹さんは、ここにいました」


 石の隅の印を、もう一度指でなぞる。


「あなたのお墓は、ご家族と一緒にここにあります」


 石と土の境で、青が一筋にじんだ。


 草の根の間から、指の先ほどの火が上がってくる。周りを照らさず、影も作らない。見慣れた色だった。


「セラ。この石の下に、火がある」


 セラが息を詰めて、石と僕の顔を見比べた。セラの目には、草と土しか映っていない。


「残火、ですか」


「うん。今、出てきた。……ずっと、土の下にいたんだと思う」


「大きさは」


「指の先くらい。石の隅の印の上で、じっとしている」


 セラは鐘を持っていない方の手を、土の上へ浅くかざした。自分には何も分からないと承知のうえで、それでも確かめずにいられない手つきだった。


 火は石の隅の印の上まで上がって、そこで止まった。呼ばれたから出てきた、という動き方だった。


「布を納む、とありました」


 膝をついたまま、セラが言う。


「品に残る火なら、その布と一緒に土の中へ入ったことになります。上から見ても分からないはずです」


 母親の火だ。戻ってきた布を、死ぬまで手放さなかった人の。


 手を伸ばしかけて、一度息を吸った。触れれば、最後の一場面が流れ込む。


「触ってみる」


「……はい。何か見えたら、後で教えてください」


 セラが半歩下がって、紙と炭筆を持ち直した。


 僕は、指をその青へ入れた。

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