第七十六話 待っていた灯
縄の上へ木の板を渡したのは、戦いが終わってからだった。
村の側から一枚ずつ送り出された板が、ようやくこちらの木組みまで届く。つながるのを待ちかねたように、対岸にいた補修方の人たちが揺れる板を一人ずつ渡ってくる。縄に掛けただけの板は、慣れた人がどうにか行き来できるだけの組み方だ。橋を整えるより先に、こちらへ来ることを選んだのだと分かった。
崩れた墓喰らいのそばで足を止めた補修方の人たちは、灰の中に散らばる鉄を見て顔を見合わせ、黙って拾い集め始める。
手を貸そうと立ち上がりかけた僕たちに、その中でいちばん年上の人が首を振った。
「橋のことは、こっちの仕事です。あなた方は、座っていてください」
「でも」
「あれだけ戦った人に、板を担がせるわけにはいきません。もう少ししたら、安全に渡れるようになりますので、休んでいてください」
言われて初めて、自分の足が震えているのに気づいた。先に岩へ腰を下ろしたガランさんにならって、僕たちも座り込む。張りつめていたものがほどけたのか、岩に預けた体をすぐには起こせそうになかった。
ガランさんは右手の手甲を外して、手首を長いこと見下ろしていた。そこに刺青があるとは知らなかった。手首を一周する黒い線が、一か所だけ途切れている。戦いの最中に擦りむいたのだろうと、その時の僕は思っていた。
「町から来るはずだった物です。回り道をしましたな」
その人は鉄を拾う手を止めずに一度だけこちらを見て、軽い口調でそう言った。笑っていいのだと思えて、笑ってから、戦いの最中に岩の破片がかすめた頬の傷が痛んだ。
ガランさんは留め具の穴が半分だけ残った肩の板を一枚、自分の荷へ入れていた。
「持って帰るんですか」
「俺の盾だった物だ。ずいぶん取り回しが軽くなったな」
板を片手で持ち上げて口の端だけで笑う。
僕たちが谷を渡ったのは、日が傾いてからだった。一歩ごとに沈む縄の上の板を、前の人が渡りきるのを待って一人ずつ進む。下をのぞいても遠い水の音がするだけで底までは見えない。
村の柵が見えてきたのは暗くなる少し前だ。
柵の外にいつもの倍の灯籠が並んでいる。石台の上だけでは足りずに地面へ直に置いた物まであった。
見張りの櫓の上で、一人が座ったままこちらを見下ろしている。
ユハンさんだ。
「遅い」
「すみません」
「……だが、生きていてよかった」
櫓の手すりをたたいてユハンさんは続けた。
「おかげで、座ったまま見張るのがすっかり板についた。お前より遠くまで見えるようになったぞ」
柵の戸が開くより先に、小さな影がその隙間から飛び出してくる。
「カイ兄!」
止まりきれずに腹へぶつかってきたノアが、そのまましがみついて離れない。打ち身に響いて息が詰まったけれど、振りほどく気にはなれなかった。
「こら、ノア」
後ろから歩いてきたダリオさんは、ノアの襟をつまんで引きはがしかけた手を途中で止め、代わりに僕の頭へ乗せた。リサさんがその横で目元を押さえている。
「よく戻った」
「ただいま戻りました」
「四人とも、だな」
僕の頭越しにダリオさんが見たのは父さんの方だ。父さんが短くうなずく。
「ヨルン。お前の分の見張りは、ちゃんと回しといたぞ」
「すまん」
それだけのやり取りで笑い合う二人は、長いこと一緒に山を歩いてきた人たちの顔をしていた。
道の脇に出てきた村の人の中には、ガランさんの肩を叩く人もいれば、ニルスさんと兵の二人へ水の桶を運んでくる人もいる。村を出た者は、皆戻った。一緒に来た町の人たちも欠けていない。
その輪の端にセラが立っていた。
包みを抱えたまま並んだ灯籠を一つずつ見ている。名前を呼んで駆け寄ってくる人はセラにはいない。
声をかけようとした所でノアに腕を引かれる。振り返った時には、セラはもう借りている部屋のある家の方へ歩き出していた。
灯籠の明かりから外れていくその背中を、僕はしばらく見送っていた。
◇
母さんは家の戸の前にいた。
戸の枠へ手をかけたまま僕が近くまで行くのを待っている。
「ただいま」
「おかえり」
言い終わる前に母さんの腕が僕を包んでいた。背中の打ち身に指が触れて小さく声が漏れると、腕は少しゆるんだけれど放されはしない。
「痛いところ、後で全部見せなさい」
「うん」
町にいた時、父さんが言っていたとおりだ。帰ったら母さんは、まず僕の傷を確かめるだろうと。思い出すと、口元が緩んだ。
「何が面白いの?」
「なんでもない」
母さんは僕の顔を見てから、隣に立つ父さんへ目を向けた。父さんも口の端を上げている。
「あなたまで何を笑っているの?」
「いや、なんでもない」
父さんと目が合うと、また笑いそうになった。母さんに問いただされて、二人で同じ返事をする。家を出る前にもあったような、何でもないやり取りだ。こうして三人で話せる所へ帰ってこられたのが、うれしかった。
母さんの目が父さんの手の鉤棒と泥のついた袖へ移る。
「本当にお疲れ様でした。……この子、わがまま言わなかった?」
父さんは少し黙ってから首を振った。
「もう子どもじゃない。町の大人と並んで、自分で決めて戦っていた。俺たちと同じだ」
僕と父さんを見比べてから、母さんは父さんの袖を一度つまんで泥を払う。払い終えてもしばらく袖から離れないその手に、父さんは黙ってされるままになっていた。
その夜、家の灯の下で、母さんは僕の背中を見た。肩から下に、手のひらより大きい痣がある。
「痛い?」
「押すと痛い」
絞った布が背中へ当てられる。その冷たさが乗った所から急に体が重くなった。
「みんな、怪我はない?」
「打ち身くらいだよ。ガランさんは膝を、町の兵の人は肩を痛めて、一人は谷で気を失ったけど、みんな自分の足で歩いて帰ってきた」
布を押さえていた手が止まる。背中の布の上からそっと額が当てられた。
「よかった」
小さな声だった。
「数日で帰ってくると思っていたのに、全然帰ってこないから……ずっと、心配していたのよ」
布越しの息が温かい。台所の方で父さんが水を汲む音は、いつもよりずっとゆっくりしている。
冷たい布越しに、母さんの額の温かさが伝わってきた。町では、どこで横になっても、こんなふうに力が抜けたことはなかった。
「もういい時間ね。ご飯、用意するわね」
布を置いて立ち上がる母さんを見ながら、久しぶりの母さんのご飯だと思っただけで腹の奥が鳴りそうになる。
「母さん」
呼び止めてから少し言葉に詰まった。
「……セラも、呼んでいい?」
一度だけ目を丸くして母さんは笑った。
「もちろん。呼んでおいで」
◇
次の日からはしばらく片づけの日が続いた。
丸一日眠ったセラは、翌日には橋へ続く道へ戻った。銀の鐘を包んだ布を抱え、僕と並んで谷へ向かう途中で、こちらを見上げる。
「この間は、夕食に呼んでくださってありがとうございました。おいしかったです」
「母さんに伝えておくよ。きっと喜ぶ」
セラは小さくうなずいてから、腕の中の包みへ目を落とした。
「師と一緒に食事をした時のことを、思い出しました。私が遠慮すると、あの人も、まだあるから食べなさいと言って」
そう言ってセラは少し笑った。院の使者から消息を聞けなかった師のことを、僕はそれ以上聞かなかった。
「またうちに来て。一緒に食べよう」
「はい。今度は、私からもお礼を言います」
橋へ着くと、セラは崩れた鉄のあいだに残っていた火を順に送っていく。僕は場所を指すだけで一つも触らなかった。
「触らないんですか」
「墓喰らいが集めた火だから、誰のどんな火か分からない。今日は、送る方だけにする」
村へ来てくれたテオさんの見立てでは、僕の肩と背中は骨まで響いていない。ただ、痣が引くまでは物を担ぐなと言われた。何日で治ると区切らず、しばらく通って診せろという言い方だった。ガランさんは膝を、兵の一人は肩を、谷で気を失った兵は頭を診てもらっている。
セラは送り終えた日の夕方から、体がだるくて起き上がれなくなった。
「怪我ではありませんね」
額と手首に触れて目の動きを確かめてからテオさんは続けた。
「私の薬で治せるものではない。ただ、術を使う人が力を使いすぎた時にこうなるのは、何度か見ています。しばらくは鐘を持たずに休みなさい」
「しばらく、ですか」
「戻るまでは、体の方が教えてくれます。惜しんで無理をすれば、もっと長くなります」
しばらくは休むこと、と書いた紙を、テオさんがセラへ渡した。
「忘れないように。あなたは自分の分を、すぐ後回しにする人でしょう」
受け取った紙をしばらく見てから、セラはこちらを見た。
「紙にしてもらうと、守らないわけにはいきませんね」
「僕も、書いたことはだいたい守れている」
「では、そうします」
紙をしまう手が途中で止まる。
「アルドさんが持っていった写しの返事は、まだですね」
「北回りは、行って戻るだけで十日ほどかかるって、ニルスさんが言っていた」
「そうですか」
それきりセラは荷の口を結んだ。
町からの手紙が届いたのは、それから数日たってからだ。受け取った兵が、紙を開いて読み上げる。
「皆さんが出て昼前に、壁の術式の線の前に並んでいた半分ほどが、一斉に東へ動きました。止めようがありませんでした」
僕たちの後ろから来た、あの群れだ。谷で、みんなで倒した。
「門の前に残った半分は、壁と術式の線と、残った兵で持ちこたえました。途中から並ぶのをやめて、ばらばらに動くようになって、それからは、いつもの獣でした」
指示を出していた者がいなくなり、獣たちは元の動きに戻ったのだ。
兵は手紙を閉じ、ザハルさんから預かった言葉をそのまま伝えた。
「急ぎではない。落ち着いたら、外で亡くなった町の者たちの火を、送ってやってはくれまいか。外の火も、もう勝手に減ってはおらん。今は村での時間を、大事にしてほしい」
外の火が、勝手に減らなくなった。取り込む口は本当に無くなったのだ。
◇
橋がつながったのは、それからまた少し経ってからだった。
最初に渡ったのは町からの薬の荷だ。橋が落ちてから村はずっとそれを待ち続けていた。
翌日には、村から町へ薬草が渡っていった。同じ荷車には、灯籠と、灯籠に入れる油の樽も積んである。
入れてあるのは、刻んだ薬草を練り込んで寝かせた、灯守の家に伝わるルカ村の油だ。村ではずっと、この油の火を白喰いが避けてきた。灰の獣にも、同じように効くのだろう。これまで灰の獣が町の外をうろつくことはなかったから、ハルドの町にこの油が回ることもなかった。今は、町の方でも必要だろう。
荷車の前後には町の兵が付き、橋から町側の道の脇には、父さんが置き場所を決めた灯籠が間を空けて並んでいる。町の兵たちは父さんから、油の足し方と見回りの順を一つずつ教わっていた。父さんが灯籠の笠を外して見せると、兵の一人が隣の灯籠で同じように手を動かす。
村を出た灯りが橋を越えて、町へ続いていく。その灯りをたどれば、行き来も前よりずっと安全になる。
町へ戻る荷車の護衛に付いたニルスさんへ、僕は短い剣を返した。
「折らずに戻ってきたな」
「本当に槍が折れてしまいました。助かりました」
鞘を受け取ったニルスさんが刃を一度だけ抜いて確かめる。
「刃こぼれがあるな」
「すみません」
「使った跡だ。研げばいい。それに、お前が無事ならそれでいい」
鞘を腰へ戻しながらニルスさんは僕を見た。
「槍だけじゃなく、ほかの武器の使い方も、ガランにでも習っておけ。お前は、前へ出る度胸がある。腕の立つ兵になれるかもしれんぞ」
通っていく荷車を村の人が道の脇に立って見送っている。声を上げる人はいないのに、通り過ぎるまで誰一人帰ろうとしない。
少し離れた柵のそばではセラも荷車を見ていた。僕が隣へ行くと、橋の向こうを見たまま小さく息を吐く。
「通れるようになりましたね」
「うん。薬も届いた」
荷車が見えなくなるまで、二人で道の先を眺めていた。
その日僕は《灯名帳》の新しいページを開いた。
――門付きの使者の火を送った。冠灯院の指示に反している。日と、場所を記す。
――あの人は報せを届けただけではなかった。武器を拾い集めて運び、槍兵と一緒に戦っていた。
次の行には谷へ行った七人の名前を、書き落としがないか一人ずつ確かめながら並べていく。
書き終えて閉じた帳面の上に手を置いた。
僕たちは、全員無事だった。ルカ村のみんなも、塔から避難してきた人たちも、誰も欠けていない。
僕たちが帰ってから、村のどの家にも毎晩遅くまで灯がともっていた。




