第七十四話 渡した青
橋へ続く道をふさいだ白喰いは、二頭とも動かなかった。斜面の上の墓喰らいも、鉄の重なりをこちらへ向けたまま止まっている。
どちらの白い体の中にも、核がいくつも光っている。奥の方が、頭一つぶん背が高かった。まとった灰も厚く、脚の太さがまるで違う。取り込んだ火の数だけ、体が育っているように見えた。
「手前のは三つです。胸の上と、右の前脚の奥と、首の下。奥のは、胸の奥と腹に固まっています」
灰の中の火は、僕にしか見えない。言った所を、ガランさんが目で追った。
その剣先が上がりかけた時、列の後ろで兵が叫んだ。
「後ろ!」
谷沿いの道の曲がり目に、灰色の背が並んでいた。僕たちが通ってきた道だ。
群れの並び方に見覚えがあった。門の前で、線から一歩も離れなかった灰の獣だ。
あの獣たちは追ってこなかったのではない。僕たちが町へ戻れない所まで離れるのを、待っていたのだ。
斜面の上で、墓喰らいが体の向きを変えた。腕が八本、順に土へ触れる。
前に白喰いが二頭、上に墓喰らい、後ろに灰の獣の群れ。谷の縁で、僕たちは包囲されていた。
墓喰らいは橋を作れたのに、作らずにここで待っていた。村へ帰られれば、古戦場の火を先に送られてしまう。送れる者を、橋の手前で消すつもりだったのだ。初めから、僕たちをここで仕留めるために。
「三方から囲まれたか……」
ニルスさんが低く言った。
「板は掛けるな!」
父さんが対岸へ叫んだ。
「掛けたら、こいつらが村へ渡る! 今は下がっていてくれ!」
対岸で、補修方の人たちが抱えていた板を下ろし、その横からこちらを見ている。村への道は、これで閉じた。
「こ、こんな数を相手に……」
長槍の兵の一人が、声を震わせた。
「町にも戻れない。橋も渡れない。こんなの、どうしろって言うんだ」
「黙れ」
ガランさんの声は大きくなかった。それでも、兵の口が閉じた。
「嘆いとる暇があるなら、槍を上げろ。ここで生き残るには、やるしかない。全員でだ」
兵が喉を鳴らして、長槍を構え直した。もう一人も、黙って隣へ並ぶ。
「セラも今は下がっていろ。使う時は、お前が決めろ」
「はい」
セラは包みを抱えたまま、橋へ続く道の入口まで下がった。下がっても、前の組にも後ろの組にも、すぐ手を貸しに行ける所だ。
「後ろは俺らで止める」
ニルスさんが兵二人を連れて、来た道へ向き直った。父さんも鉤棒を下ろして、ニルスさんたちの横へ並ぶ。前はガランさんと僕、後ろはニルスさんたち、そのあいだの入口にセラがいる。
「くそっ、やるぞ!」
兵の一人が叫んで、長槍の穂先を上げた。もう一人も、同じ高さへ穂先をそろえる。
灰の獣が何体も横に並び、道の幅いっぱいに広がって、足並みをそろえたまま下りてくる。走ってはいない。逃げ場の無い所へ、歩いて詰めてくる。
「崩すのは俺がやる。カイ、前だ」
ガランさんの剣が、手前の白喰いの肩を横から払った。厚い灰がはがれて、下の節が透ける。
灯皿には、門を出る時に寄ってきた槍兵の火が、まだ乗っている。
「開いた所へ通します。《青火纏い》」
穂先にともった青は、門の前で一度出しているぶん細かった。眠れば戻る火でも、一晩待てば、その間に墓喰らいは橋を作って村へ渡ってしまう。それでも胸の上の一つへ入れると、硬いものの割れる手応えが返ってきた。白喰いの前脚が崩れ、体が前へ傾く。ただ、白い体の中では、ほかの青がまだ光っている。
「火を一つ崩しただけでは倒れません! 次は右の前脚の奥です!」
「言った所を崩す。続けて指示をくれ」
ガランさんの剣が右の前脚の付け根を払い、厚い灰がはがれた。開いた奥の青へ穂先を入れると、二つ目も割れた。
「最後は首の下です!」
言い終える前に、白い顎が上から下りてきた。柄で受けると腕が沈み、靴の底が土へめり込む。それでも押し返せた。自分で思ったより、白い首がのけぞるほど強く。腕の力が、前より上がっている。
のけぞった首の下へ、三つ目を通した。手前の白喰いが崩れ、白い灰が土の上へ平らに広がった。
その時、斜面の上で墓喰らいの腕が一本、岩の塊を抱え上げているのが見えた。向いているのは、後ろで灰の獣を押さえているニルスさんたちの方だ。
ニルスさんたちが立っているのは谷の縁で、踏んでいる土ごと崩れやすい。あの岩が縁へ落ちれば、みんな谷底へ持っていかれる。
渡すなら、今しかない。
「後ろのみんなが、戦いながら縁から外れる所へ。《三歩の道》」
青い足跡が三つ、ニルスさんたちの足元から出た。僕にしか見えない。
「父さん! 左の岩の陰、その奥のくぼみ、道の内側の土! みんな父さんの踏んだ所を!」
父さんは振り返らなかった。鉤棒で目の前の一体を払いながら、言った岩の陰へ足を移す。兵の二人が同じ所を順に踏み、ニルスさんが槍で獣を押さえたまま最後に下がった。
ニルスさんが三つ目の土を踏んだ所で、足跡が消えた。入れ替わりに、槍兵の火が灯皿へ寄ってくる。
「《青火纏い》」
穂先に戻った青は、門の前で出した時と同じ太さだった。
その直後、ニルスさんたちが立っていた縁へ岩が落ちた。土が割れて、縁がひと抱えぶん谷へ崩れていく。追ってきた灰の獣も、一緒に落ちた。底の水音が、遅れて上がってきた。
◇
奥の白喰いが、崩れた仲間の灰を踏み越えてきた。
手前のものより頭一つ高い。振り下ろされた前脚を、ガランさんが剣の腹で横へ流す。流しきれずに、ガランさんの靴が土を削って下がった。
「胸に固まっています! 左から崩してください!」
返事の代わりに、ガランさんの剣が胸の灰を横へ払った。厚い灰がめくれて、青い点が並んで見える。戻ったばかりの太い青で左の一つを突くと、割れた。抜いて隣へ入れ、それも割れる。三つ目へ入る前に白い首が横から振られ、僕は穂先を引いて下がった。
後ろでは、ニルスさんの長槍が灰の獣の喉を突き上げていた。兵の二人が左右から続けて突き、父さんの鉤棒が倒れた背を谷の方へ転がす。一体、また一体。押さえられている。
その瞬間、後ろから重い音がした。
振り返ると、兵の一人が道の脇で倒れていた。灰の獣の先頭に体ごと当てられて、長槍が手から離れている。起き上がらない。
ニルスさんがその前へ入り、目の前の獣を槍の柄で押し返した。父さんの鉤棒が次の首を引く。それでも、群れの幅の方が広い。
空いた一人分の所へ、灰の獣が次々と押し寄せてくる。
「使います!」
入口で、セラが短槍の石突きを足元の土へ突き立てた。
柄を握った手の下で、石突きの銀が震え始めた。
「四つの間、動きを抑えられると思います!」
低い響きが足の裏を抜けて、道の方へ広がっていく。
押し寄せていた灰の獣の背から、灰が一斉に浮いた。黒い糸が緩んで、前脚が半ばで止まる。奥の白喰いの厚い灰も、端がめくれて揺れていた。
「一つ!」
ニルスさんの長槍が、止まった一体の胸の灰を突き崩した。核へは届かなくても、灰が戻るまでは起き上がれない。残った兵が、隣の一体の脚を突き崩す。
「二つ!」
父さんが倒れた兵の襟をつかんで、セラのいる入口の方へ引きずった。引きずりながら、片手の鉤棒で動きの鈍った一体を横へ倒す。
「こっちはもう大丈夫だ! カイ、前に集中しろ!」
「三つ!」
僕は奥の白喰いの胸へ踏み込み、さっき届かなかった核へ穂先を入れた。浮いた灰の下で、割れる手応えが来る。
「四つ!」
セラが柄から手を離した。響きが切れて、浮いていた灰が戻り始める。それでも先頭の獣は崩れたまま、地面でもがいていた。すぐには起き上がれない。
柄から離したセラの手が、震えていた。
「同じ輪は、すぐには使えません」
「十分だ」
ニルスさんが、振り返らずに返した。
上から、墓喰らいが下りてきた。
速い。斜面を滑るように詰めてきた巨体から、一本目の腕が横薙ぎに来た。ガランさんが剣を斜めに立てて、受けずに流す。爪に埋まった古い鉄と刃がこすれて火花が散り、逸れた爪が足元の岩を叩き割った。破片が頬へ跳ねる。流したはずなのに、ガランさんの靴は土を削って半歩下がっていた。
「くそ、やはり重いな」
その直後、二本目と三本目が上から落ちてきた。ガランさんが横へ転がる。さっきまで膝のあった所へ爪が二本突き立ち、土が爆ぜた。
息をつく間が無い。八本の腕が、順番を待たずに次々と振り下ろされてくる。
四本目が、僕の方へ来た。
短槍の柄を立てて、爪の腹を受ける。ひびの入っていた所から、乾いた音がした。
柄が折れて、穂先が石の上を滑っていった。薄い青が、滑りながら消えていく。手の中に、木の折れた側だけが残っている。
次の爪は、もう頭の上にある。
折れた柄を投げつけて、横へ跳んだ。背中のすぐ後ろを爪が抜けて、服の裾が裂けた。
腰の帯を探ると、ニルスさんの短い剣がそこにあった。抜いて、教わったとおり鍔の際まで手を寄せ、親指を人差し指へかぶせる。呼んだ二度目の青は、刃の根元に薄くまとわるだけだった。
それでも前へ入った。振り下ろされた腕の下をくぐり、継ぎ目へ剣先を押し込む。断てない。腕が跳ね上がって、僕の体ごと持ち上げかける。柄にしがみついて踏ん張った一瞬、腕の動きが遅れた。
「任せろ!」
ガランさんの剣が、遅れた腕を根元から叩き落とした。落ちた腕が土の上で跳ねて、灰を撒き散らす。
腕が一本減った。肩の力が抜けかけた時、足の裏へ、重いものが土を蹴る震えが伝わってきた。
息を吸う前に、奥の白喰いが横から肩をぶつけてきた。剣で受けたが、受けきれずに刃が跳ね、手から飛んだ。体が浮いて後ろへ投げ出され、背中から石へ叩きつけられる。
目の前が白くなった。その白の中で、さっき兵が倒れた所に長槍が転がっているのが見えた。
「借ります」
這って拾った槍は、重さも長さも違った。穂先へ通した青は、さっきよりさらに薄い。起き上がりざまに白い首の下へ突き上げると一つ割れたが、次へ届く前に青が消えた。
抜いて、呼んで、また突く。弾かれて、呼んで、また突く。出ない火を、出るまで呼ぶ。
もう青が乗るのは、穂先の端のほんの一瞬だけだった。その一瞬に入れれば、灰の奥で何かが割れる。割れた数だけ、白喰いの動きが鈍っていく。
何度目かの手応えで、奥の白喰いがようやく膝を折った。手の中の槍が、ひどく重い。
振り返る間も無く、頭の上で風が鳴った。墓喰らいの腕が二本、同時に落ちてくる。
ガランさんが僕の前へ飛び込んで、剣で受けた。受けきれずに膝が落ちる。足元の石が割れて、ガランさんの体が沈んだ。
「……まだだ」
膝をついたまま、ガランさんは腕を押し返そうとしている。だが、やはり相当重いらしく、押し返せない。
さっき叩き落とした腕の付け根から、黒い糸がもう伸び始めていた。落ちた腕が、引きずられるように元の場所へ戻っていく。
後ろでは、ニルスさんたちが群れを押さえていて、押さえきれずに少しずつ下がってきていた。ニルスさんの長槍は、穂先の付け根が曲がっている。入口のセラも、鐘を握ったまま、鳴らす間をはかっているようだった。
……このままじゃ全滅だ。
《灯名帳》の最後のページに書いた一行を、僕は思い出していた。
――どうしても今の自分で勝てない時は、標章の火を送る。
触れてから送った火は、その人が体でしていたことを僕に残していく。ホルクさんの火からは担ぐ力が、レフさんの火からは走り続ける息が来た。灯皿の青はもう細い。今ここで僕が強くなれる手は、零れ火しかない。
荷の内側へ手を入れて、布の包みをつかんだ。
「ガランさん、もう少し耐えて!」
「セラ! この火を送って!」
叫びながら、セラの所まで走る。セラの前で包みを開くと、セラが動きを止めた。右の縁が欠けた、鳥の印の板だ。
「アルドさんが」
「分かっている! でもここで僕が倒れたら、これは墓喰らいの物になる!」
ガランさんが、膝をついたまま剣を横へ払った。僕たちの方へ伸びてきた腕が、火花を上げて逸れる。
「いつまでも持ちこたえられんぞ!」
セラは膝をつき、鐘を標章のすぐ上へ構えた。僕を見たのは一度だけで、止める目ではなかった。
僕は板へ指の先を入れた。
前に触れた時とは、流れ込み方が違った。
◇
息が上がっていた。
喉が焼けるように乾いている。足の裏で、砕けた石が鳴った。
門から壁の切れ目まで、走ってきたばかりだった。胸で円い板が跳ねる。
『門が閉まった。避難民は坂の下だ!』
長い槍を持つ兵の背は振り返らない。それでも、声は届いている。
次の報せは、まだ出ない。出るまでのあいだに、できることは無いか。
自分には、武器を振る腕が無い。振り方を知らない者が前へ出れば、あの背の邪魔になるだけだ。
見ている前で、槍の兵の長い柄が獣の脚に折られた。槍の兵は棒になった柄を投げ捨て、倒れた兵の脇から剣を拾って、また前へ出る。
軽い剣だ。長くはもたない。周りを見ても、拾える武器はもう落ちていなかった。
この人は、手にある物が尽きるまで戦う。尽きた時が、この切れ目の終わりだ。
武器を、途切れさせてはいけない。
走った。来た道を、門の方へ。
石段の途中にも、倒れた荷車の陰にも、ここまで下がってきた兵が倒れている。その脇に落ちた武器を、走りながら拾い集めた。剣も、斧も、槍も、穂先の折れた柄までも。すまない、と倒れた人たちへ口の中で言って、帯をほどいて束ねる。
走るための体には重すぎる。それでも足は止まらなかった。何度も走った道だった。
壁の切れ目が見えた。長い槍の兵の背は、まだそこにある。まだ、剣を握っている。
間に合った。
束を下ろそうと、その背の三歩後ろへ駆け込んだ時、崩れた石の陰から灰が膨らんだ。
爪が標章の鎖へかかる。首を引かれ、次の爪で体が石壁へ叩きつけられた。帯がほどけて、抱えていた武器が石の上へ散らばる。
起き上がろうとして、足が動かなかった。
槍の兵の剣が、折れた。
槍の兵は振り返らない。足元を一度だけ見て、散らばった中から斧をつかんだ。
――届いた。
どれだけ倒れていたのか分からない。遠くで、槍の兵の声がした。
『誰か、東へ走れる者はいるか』
自分の役目だ。次の報せを運ぶのは、自分のはずだった。起き上がろうとして、指一本動かなかった。
『走れます』
若い声が答えた。
『東の分隊へ伝えろ。ここは持たん。だが避難民は坂を下りきる』
坂の下、と言った。運んできた言葉が、そのまま次の命令になって、若い足音が東へ遠ざかっていく。
――武器は届いた。報せも、走っていった。
張りつめていたものが、ほどけていく。痛みも、運べなかった悔しさも、遠くなった。あとに残ったのは、静かな安堵だけだった。
◇
指を抜いた。
「カイ、分かりますか?」
「分かる、大丈夫! 送って、セラ!」
背中の方で、剣と鉄のこすれる音がした。ガランさんの息が荒い。
セラが鐘を標章の真上で振った。一度目で、板の青が浮く。次を鳴らすには、響きが消えるのを待たないといけない。待つ間にも、ガランさんの靴が土を削って下がってくる。
二度目。浮いた青が、板から離れる。
三度目。青がほどけて、消えた。
膝から下が、軽くなった。
それと同時に、胸の奥で火が動いた。
槍の兵の火だ。今日はもう出ないはずの青が、灯皿の縁から自分で立ち上がってくる。
剣が折れた時、斧はあの人の足元にあった。拾ったのは槍の兵でも、届けた人がいた。槍の兵は、それを知らないまま倒れた。
斥候が道を示した先で、門番が十を数えた。あの日は、知らない人どうしが次から次へと受け渡していた。武器を運んだ人がいなければ、剣が折れた所で、切れ目を支える手は空になっていた。東への報せも、出せなかったかもしれない。
あの人は、一人で戦っていたのではなかった。
僕も同じだ。弾き飛ばされた剣はニルスさんの物で、手の槍は倒れた兵の物だ。ガランさんが腕を払い、セラが響きを通し、父さんたちが後ろを押さえている。一人で届かせてきた所など、どこにも無い。
僕の手には、倒れた人から借りた槍がある。
その時、槍兵の火から、強い意志のようなものが伝わってきた。言葉ではない。今の記憶を、この火も一緒に見ていた。自分は一人で戦っていたのではなかった、と。借りた物を、届く物に変えろ。渡された物で、最後まで戦え。お前も、一人ではない。胸の奥で、そう聞こえた。
そのとき、《青火纏い》の新しい力の名前が浮かんだ。
「《青火結び(あおびむすび)》」
青が穂先へ這った。
穂先の青は、朝のものより濃い。細くもない。この火は、僕の手の中だけでは終わらない。そう分かった。
僕は、膝をついていたガランさんの剣へ手を伸ばした。触れて、離す。
触れた指から、青が刃を伝って柄の方へ流れていく。その奥で、冷たい鎖のようなものが一本、ぴんと張ってから、ほどけた気がした。
離した後も、ガランさんの刃は青いままだった。
ガランさんが目を見開いた。押さえ込まれた腕を受けたまま、自分の剣を見下ろしている。
「……俺の剣に、火が」
僕の手は、もう離れている。それでも、刃の縁から青が消えない。
零れ火は、僕一人しか強くならない方法だった。脚は、確かに軽くなった。だけど、あの人の火が運んできたのは、それだけではなかった。僕の青が今、隣で戦う人の刃に灯っている。




