第七十三話 対岸の声
門が閉じる音を、坂の途中で聞いた。
振り返ると、壁の前に残した群れがまだ同じ所を行き来している。こちらを追ってくる背は一つもない。
人が壁の外へ出れば、灰の獣は追ってくる。これまでずっとそうだった。今日は一体も線の前から離れない。あそこへ並べた者は、もう東へ行っている。
「見るな」
ガランさんが前から言った。
「見ると足が遅くなる」
合流点までは、雨の跡で硬く締まった下り道が続いた。
セラは僕の後ろで、包みを胸へ抱えたまま歩いていた。
「腕はどう?」
「平気です。門では短く一度通しただけなので」
セラは腕を曲げて、指を開いては閉じた。
「大きな輪でも、まだ通せます」
合流点を過ぎた先で、道は二つに分かれる。荷車の通る上の道は、崩れやすい谷の縁を避けて、斜面の中腹を回っていく。もう一つは、谷の縁に沿って、橋の手前へまっすぐ出る細い道だ。
「カイ」
分かれ目の手前で、ニルスさんが足を止めた。
「見えるか」
道の縁から東の斜面を見上げると、上の道の上に、灰色の背がいくつか止まっていた。
「上の道の上の斜面に、何体かいます。今は動いていません」
ニルスさんは、谷の縁へ続く細い道の方へ目をやった。
「上の道は、あの斜面の真下を通る。幅も狭い。上から下りてこられたら、並んで戦えん。谷沿いを行く」
「足元が悪くなりませんか」
「なる。だが、橋へ着く前に崩されるよりはましだ」
言い終える前にもう歩き出していた。父さんが最後尾へ回り、兵の二人が荷を背負い直す。
◇
谷沿いの道は、両側に石が転がっていて足が取られる。
歩きながら、僕は村の北の形をずっと思い出していた。墓地を抜けて、柵があって、その向こうが古戦場だ。柵は木で、線は引かれていない。夜は灯籠が並ぶ。
灯籠は火がついているうちしか効かない。そして、灯籠を運ぶのは僕の役だった。今その役をしているのは誰だろう。ノアかもしれない。
半分ほど来た所で、ニルスさんが僕の短槍を見た。
「柄に、ひびが入っているな」
言われて見ると、握る所の少し上に細いひびが走っていた。門の外で突いた時のものだと思う。
「折れますか」
「可能性はある。折れる時は、受けた時だ。いちばん困る時に折れる」
ニルスさんは歩きながら腰の短い剣を外して、鞘ごと僕へ渡した。
「予備だ。帯へ差しとけ」
受け取ると、思っていたより重かった。腰へ回す帯が余るので、二重にして結ぶ。
「握ってみろ」
抜いて握ると、ニルスさんが僕の手を見て首を振った。
「鍔の際まで手を寄せて、小指から締めろ。親指は人差し指へかぶせる。突いた時に、手が刃の方へ滑らん」
言われた通りに握り直すと、拳のすぐ前に鍔が当たった。剣が、手の中で少しも動かなくなる。
「振り方は覚えんでいい。刃筋の立たない斬り方は、弾かれるだけだ。今は持ち方だけ覚えておけ。手首を固めて、前へ入って、突くだけだ」
「突くのは、槍と同じですね」
「同じだ。ただ、槍の間合いのつもりで突くと届かん。いつもより一歩深く入れ」
「はい」
ニルスさんはそれだけ言って前へ戻った。
僕は歩きながら、帯の結び目を一度押さえた。武器を二つ持つのは初めてだった。腰の重さは剣一本分なのに、相手を傷つけるための物が一つ増えたと思うと、それよりずっと重かった。
道が谷へ寄った所で、父さんが足を止めた。石の陰に白い粉が吹き溜まっていて、こすれた跡が上流の方へ続いている。
「これは灰の獣じゃない」
父さんが指の先へ取って、すぐ払った。
「白喰いだ」
誰も何も言わなかった。ガランさんが谷の上流をしばらく見て、それから前へ向き直る。
「先を急ぐ。今日はやつらの相手をしに来たんじゃない」
◇
橋が見えたのは、日が高くなってからだった。
谷は思っていたより深く、底の水音が遠い。向こう岸までのあいだに石の柱が二本残っていて、どちらの上にも足場の木組みが伸びていた。
矢文を射た頃は、両岸の足場が崩れたままで、谷の幅がそっくり空いていた。村の側がその後も木組みを継ぎ足して、柱の上まで届かせていた。空いているのは真ん中だけになっている。
それでも、残った幅は大人の背丈を十ほど並べたくらいある。木組みの先から先へ縄が二本張り渡してあるだけで、板は一枚も載っていない。
「おおい」
対岸で手が上がった。村側の補修方の人たちが、板を抱えたまま立っている。
「矢文は届きました! 村へは、もう使いを出しています!」
いちばん前にいた人が、両手を口へ当てて叫んだ。谷の風が止んだ時だけ、言葉の形が分かる。
「灯籠を増やして、見張りも増やすように伝えました。こちらの橋の側にもです!」
父さんが、聞こえたと手を上げて返した。
ただ僕たちを待っていたのではない。届いた紙を読んで、すぐに村へ人を走らせている。
「板は足りるか」
「木の板なら、縄の上へ渡す分はあります! でも、掛ければ獣もこちらへ渡れます! そちらに人が来るまでは掛けられませんでした!」
補修方の人が抱えた板を持ち上げてみせた。
「木だけでは、人が一人ずつ渡るのがやっとです! 荷を通すなら鉄が必要です! 町から回してもらう話になっていて、鍛冶が見に行くと聞いて、それを待っていたんです!」
ガランさんがこちらを見た。
鉄は届かなかったのではない。持っていかれたのだ。
父さんが谷の縁から身を乗り出した。
「そっちの人は、先に村へ下がってくれ! こっちの獣は俺たちが引き受ける!」
「わかりました! ですが、板を送る者がいないと、そちらへ掛けられません!」
父さんは一度息を吸って、それから手を下ろした。
「なら、板を送る者だけ残ってくれ! ほかは道の口で見張りを頼む!」
対岸で人が動いた。言われた形に分かれて、何人かが道の方へ走っていく。
◇
ガランさんが谷を覗き込んで、それから東の斜面へ目を上げた。僕も同じ方を見た。
岩の切れ目に、こちらへ背を向けた鉄の重なりがある。板を背負ったまま、橋へ続く道の手前で止まっていた。
「いた」
誰かが言って、列の後ろが静かになった。
追いついた。
背の鉄を谷へ差し渡せば、墓喰らいは自分で橋を作れる。村へ行くつもりなら、とっくに渡っているはずだった。火が欲しいだけなら古戦場へ入れば済むのに、わざわざ橋の道へ回って、渡りもしない。
体を横に向けたまま、谷の方も村の方も見ていなかった。なぜ渡らないのかは、分からない。
セラが谷の縁で足を止めた。
鐘は包みから出さず、短槍の石突きで足元の土を一度だけ軽く叩いた。
「この地形で、響きは使えるか」
ガランさんが聞いた。
「使えます。橋の上は継ぎ目で少し弱まりますけど、土の上なら、この道の幅いっぱいに届きます」
「今は」
「今は使いません。何度も使えないので、使い時を考えます」
ガランさんはうなずいて、橋へ続く道の入口を目で測った。ニルスさんが兵を岸の左右へ振る。僕は短槍を握り直して、セラの前へ出る位置を測った。
その時、谷の風の向きが変わった。
上流の岩陰から、白いものが道へ出てきていた。毛の代わりに白い灰を厚くまとった背が、その道をふさぐ形で止まる。石の陰の白い粉と、上流へ続いていたこすれた跡は、これが残したものだった。
口の中が乾いた。白い体の中に、青い点が散っている。
手前の一体にもいくつも見え、後ろの一体はもっと多い。灰の獣なら一つしかないものが、白い中でばらばらに光っていた。
「二体います。どちらも、火をいくつも取り込んでいます。後ろの方が多い」
ガランさんは手甲の紐を締め直し、剣を抜いた。ニルスさんが長槍を下ろして、道の幅を見る。
「ここで仕留めるぞ。こいつらを残したら、橋を直しても、町の荷も村の人間も通れん」
白い背は、ちょうど橋へ続く道をふさいでいる。板を掛けて橋を戻しても、ここに白喰いが居座る限り、村と町を行き来する人も荷も、この道を通れない。
斜面の上では、鉄の重なりが動かないままこちらを向いていた。




