第七十二話 待つ意味
畑の縁にいた群れが動き出した。
朝の前の斜面を、灰色の背が並んで下りてくる。走ってはいない。壁へぶつかりに来る時の勢いが無かった。
先頭が壁の根元まで来て、線の手前で足を止めた。二体目も三体目も、同じ所でぴたりと止まる。
「効いとる」
婆さんが胸壁の隙間から下を見て、石を一度たたいた。
「登れんのじゃなくて、触りたがらん。水路の時と同じじゃ」
けれど、僕には同じに見えなかった。水路の白喰いは、石へ前脚を掛けようとして、届く手前で止まった。下の獣は、掛けようともしない。線の手前で足をそろえ、門の左右へ同じ幅で並んでいく。一体が止まると後ろも止まり、爪が壁へ届く距離なのに、打ち込んでくるものがいない。胸壁の下で、乾いた土をこする音だけが続いていた。
並んだ腹の下を見て、息が詰まった。どの背からも黒いものが下りて、土の中へ消えている。昨日、柵の外で盾が消えるのを待っていた獣と同じだ。
「線に触りたがらないというより、ただ並んでいるように見えます」
婆さんがこちらを向いた。
「……何のためにじゃ」
「分かりません。でも、獣が自分で選んだ行動ではないと思います」
婆さんは黙って、下の列を見た。
壁の内側では、荷を抱えた町の人が兵に導かれて広場へ向かっていた。門へ続く道を空けるためだ。子どもを抱き上げる人の姿が見えた。
あの列が何を待っているのか分からないまま、僕たちは門の内側にいる。
出ないといけない。あれが何かをするより先に。
◇
並びの真ん中にいた、背の高いものが動いた。
斜面の裾から、こちらへ下りてくる。近づくにつれて、隠れていた側の腕も見えた。左右に四本ずつ、八本ある。
体は一回り大きくなっていた。背には曲がった板と古い鉄が何枚も重なっている。その肩がこちらを向いた時、二股に裂けた板の縁が見えた。根元には半分だけの留め具の穴がある。
ガランさんの手が腰の袋へ動いた。中から出した小さな破片を握ったまま、肩の板を見ている。
「あの時のだ」
喉が狭くなった。あの切り口を、僕も手の届く所で見た。砕いた核の手応えが指へ戻る。
昨日の夜、倒したと書いた所に線を引いて、分からない、と書き直したばかりだ。それでも、次の朝にこれが下りてくるとは思っていなかった。
折り重なった鉄の隙間から黒い糸が何本も下がり、地面を擦って、細い溝を残していた。布の下の土に残っていたのと同じ溝だ。そのうちの何本かは、溝の先で土の中へ潜っていく。門の前の獣の腹から下りていた黒いものも、同じように土へ消えていた。
「来るぞ」
誰かがそう言った。東側を守る兵が胸壁へ身を寄せ、一斉に弓を構えた。
墓喰らいは坂の途中で向きを変えた。
壁の方へは来ない。線の手前へも近づかない。町の壁と斜面のあいだを、そのまま横切っていく。
八本のうち前へ伸ばした二本を地面へ置き、残りを体の脇へたたんでいる。急ぐ様子もなかった。
東へ歩いていた。
横を向いて歩いていく巨体へ、胸壁の兵たちが矢をつがえ、弦を引き絞った。
「まだ射るな」
弓を引き絞った兵へ、ザハルさんが低く言った。
「こっちへ向かせるな。壁の内には、まだ町の者がおる」
兵たちが弦を戻した。墓喰らいは一度も壁を見上げず、門の前に並んだ群れの後ろを、ゆっくり横切っていく。そのあいだ、並んだ獣は一体残らず、同じ向きへ首を回していた。
切り落とした腕のそばから、新しい腕が二本伸びていた。あの時に開けた肩の隙間も、別の鉄で埋められている。僕たちが帰ってからも、あれは体を作り直していた。
「門を開けますか」
ニルスさんが階段の下から叫んだ。
ザハルさんの返事はすぐには来なかった。
門の外の線の際には、灰の獣が隙間なく並んでいる。開ければ、その線が一か所だけ切れる。
「開けられん」
ザハルさんは門の前の群れを指し、階段の下まで届く声で続けた。
「一か所切れば、あの群れがそこへなだれ込む。町の中で受けることになる」
僕は壁の縁を握ったまま、東へ動いていく背を見ていた。
あれは町を襲いに来たのではない。灰の獣を壁の前へ残して僕たちを出られなくし、その横を通っていく。
群れが門の前にいるかぎり、僕たちは戦わなければ外へ出られない。そのあいだに、あの大きな体だけが先へ進める。
どこかで見た形だ、と思ってすぐに分かった。
置き刃だ。ガランさんが短剣を置いていって、後続をそこへ詰まらせた日と同じことを、あれは獣でやっている。
あれは、ガランさんのやり方まで覚えている。
◇
評定は日が昇りきる前に始まった。
「なぜやつは東へ進んでいる」
ザハルさんが聞いたのは、部屋の中で東の道をいちばんよく知っている人だった。ニルスさんが図の上で、合流点から東の橋へ指を進める。橋の壊れた所には印が残り、補修中の足場がその手前まで描き足されていた。
「橋の向こうは、山の外側を回る道です。その先がルカ村です」
父さんの手が図の端で止まった。僕の隣で、指の関節の色が抜けている。僕も、図の東の端から目を離せなくなった。
「なぜ村へ行く」
ガランさんが図の上で、東へ進む道をたどった。
答えを考えるより先に、口が開いていた。村へ向かう理由を、村の外に見つけたかったのだと思う。
「村が目的ではなく、火を探しているのかもしれません。墓喰らいは残火を取り込みます。村の北の古戦場には、まだ大量の火が残っています」
部屋の顔が一度にこちらへ向いた。
「火なら、石列から古戦場へ入れば済む。なぜ橋の道へ回る」
ザハルさんが炭筆の尻で、図の石列から北の縁をなぞった。古戦場は、そこから村の北の柵までひと続きだ。火を集めるだけなら、あれは道へ下りる必要が無い。
「……分かりません。そこだけが合いません」
言いながら、自分がいちばんその答えにすがっていたのが分かった。火が目当てなら、村はただの通り道で済む。そうではない理由を、僕はまだ一つも打ち消せていない。
父さんが、橋の先の道を村まで指でたどった。
「あの道から古戦場へ行くなら、先に村を通る。北の柵の手前が墓地で、その手前が……」
父さんはそこで止めた。図から手を離して、一度握り直している。
言わなくても、この部屋の全員が同じ図を見ている。
ノアがいる。母さんがいる。ユハンさんは座って短い見張りへ入れるようになったと、前の便りに書いてあった。座って見張るのは、立って戦えないからだ。
柵は木で、術式の線は引かれていない。白喰いに壊されたこともある。
「村には、あれを崩せる者がおらん」
ガランさんが短く言った。
「灰をはがす鐘も、核へ届くお前の刃も無い。灯籠と柵で灰の獣を防げても、あれを止めたことはない」
「だが、橋は落ちている。誰も何も通れん」
ザハルさんが言った。
「……人だけなら、渡れるようになっています」
言ったのはニルスさんで、図の谷へ指を置いていた。
「正確には、渡れる見込みがある、です。補修の組が、残った橋脚まで足場を延ばしました。板を渡せば、人は一人ずつ渡れるそうです。荷を通す橋にするには、町から回すはずだった鉄が必要です」
僕は図から目を上げた。鉄なら、さっき見た。
「その鉄なら、あれが背負っています。枝道に置いていた板です。さっき、背に重なっているのを見ました」
部屋の目が、またこちらへ集まった。
「あの腕で鉄を谷へ差し渡せば、あれは自分で橋を作れます」
「橋が落ちとっても、あれは渡れるということか」
ザハルさんの炭筆が、図の谷の上で止まった。
「……はい」
村の柵に、線は無い。それに、あれは元々あのあたりにいた。北の灯籠を引いていったのもあれだ。あの柵の外に何が残っているかは、とっくに見ている。
「何を狙っとるのかは、分からん」
ガランさんが図から顔を上げた。
「だが、渡れるなら村までたどり着ける。理由が分かるのを待っとる暇は無い。追うしかない」
分からない、という言葉が、どんな答えより重く聞こえた。
「門は開けられん。壁の前の数が減るまでは、一人も出せん」
「なら、減らします」
僕の声が思ったより先に出た。
「門の前へ寄った獣の灰を、セラの響きではがします。脚が鈍って灰も戻らない間に、兵の人たちが崩す。核は僕が断ちます」
「セラ。門を開けずに、内側から届くのか」
セラは短槍の石突きを床へ下ろし、柄の下へ手を添えた。
「門の扉の下には、開け閉めのための隙間があります。そこから石突きを外の土へ差し入れれば、届くはずです」
「昨日も外へ出たな。腕はどうだ」
「今は上がります。ただ、何十体も一つずつ送るのはできません」
「動きを鈍らせてくれればいい。崩すのは俺たちだ」
ガランさんが答えるとセラもうなずいた。
「出る前に、隙間から一度短く通してみます。それで届かなければ、外へ出るための別の手が必要です」
ザハルさんは割り当ての紙のセラの名前の横へ、印をもう一つ足した。
決まったのは、まず門の前の数を減らし、減ったら東の道へ組を出すことだった。その組は村まで行く。先に橋の補修方へ矢文を出し、対岸から村へ警告を届けてもらう。
「誰が行く」
ガランさんが聞いた時、父さんはもう立っていた。
「俺と、カイだ」
「僕とセラです」
同時に言ってしまって、父さんがこちらを見た。
父さんはセラを見てから、図の横へ紙を引き寄せた。僕を残す話はしなかった。
「ガランさんも必要です。ニルスさんも、兵も」
僕は図の谷を指した。
「細い足場では、一斉に戻れません。渡る人は村を守るつもりで行くことになります」
ザハルさんが炭筆を置いた。
「町を空にはできん」
「町に残す兵も必要です。何人までなら出せますか」
ザハルさんは壁の見張りと門の守りを先に数え、残った名前へ印を付けていった。
◇
出るのは七人と決まった。ガランさん、ニルスさんと長槍の兵二人、父さん、セラ、僕だ。町の兵を出す代わりに、残る組は門と壁へ集める。
「橋の板と縄は、向こうの補修方に借りる。持つのは水と武器だ」
ニルスさんが荷を分け始めた。ガランさんは剣帯を締め直し、父さんは鉤棒の先へ布を巻いて袋へ固定した。
支度をしているあいだ、僕は寝台の脇の袋から布の包みを出した。
中には右の縁が欠けた標章がある。門付きの使者の火が残った方だ。
送らないでください、とアルドさんは言った。理由は、最後まで言わなかった。
送れば、僕の体に何か残るかもしれない。あの人は走って報せを届けた人だ。
でもそうすれば、アルドさんとの約束は守れない。
僕は包みを結び直して、荷のいちばん内側へ入れた。今はまだ送らない、と決めた。
《灯名帳》の最後のページへ、出る前に二行足した。
――七人で東の橋を渡り、村を守る。
――どうしても今の自分で勝てない時は、標章の火を送る。
帳面を閉じると、門の方から兵を呼ぶ声がした。
門へ向かいながら、胸の奥の灯皿を確かめた。乗っているのは門番の火だ。眠る前に選ぶのは、たいてい門番の火だった。外で最初に要るのは、誰かの前に立つことだから。ゆうべも、そうして眠った。
門の内側で、セラが扉の際に片膝をついていた。短槍を斜めに構え、開け閉めのための細い隙間から、石突きを外の土へ突き立てている。両手はもう柄の下へ添えてある。
「開く所の前だけ、短く通します」
「頼む」
低い響きが、敷居の下を抜けていった。
「正面の灰が浮きました! 前の何体かが脚を折って倒れています。起き上がりません!」
門の上の見張りが、胸壁から身を乗り出して叫んだ。ザハルさんが一度だけ門の上を見上げる。
「よし、開けろ!」
ザハルさんの声で閂が動いた。
「出るぞ!」
開いた所からガランさんが先に出て、剣が横へ走った。ニルスさんと兵が左右へ割り、灰の戻らない胴を突き崩していく。合図を待っている者はいなかった。
僕は両手を開いた。
「横は僕が受けます。《退かぬ盾》」
青い面へ横から来た重さを返す。押し返された獣が転がった所へ、父さんの鉤棒が掛かった。
盾が弾けると、入れ替わりに槍兵の火が灯皿へ寄ってきた。短槍を拾い、胸へ灯す。
「開いた核を断つ。《青火纏い》」
ガランさんの剣が割った灰へ、青い穂先を通していく。抜いて、次へ。
門の隙間から、七人全員が飛び出た。
「出たぞ! 閉めろ!」
後ろで閂の落ちる音がして、切れていた所へ術者が手を置いた。残った群れは壁の線の前で足を止め、こちらを追ってこない。僕たちは坂を下り始めた。
東の斜面に、墓喰らいの背はもう無かった。
門の前に残した数を、僕はもう数えていない。
これから数えるのは、東へ向かった一つだけだ。




