第七十一話 書き直した一行
アルドさんたちは朝のうちに発った。
写しは油紙で包んで革の筒へ入れ、馬を引く二人のうち後ろの一人が背負った。北回りの道は、行って戻るだけで十日ほどかかるらしい。
「次に来るのは、私とは限りません」
門の内側でそう言われて、僕は聞き返す言葉を探した。
「誰が来るかは、私が決めることではないので」
アルドさんはそれだけ言って馬の後ろへ回った。こちらを一度も振り返らずに坂を下りていく。
セラは門が閉まるまで、その背中を見ていた。銀の輪が二つ並んだ留め具は、坂の途中で一度だけ日を返してから見えなくなる。
「同じ所で習った人なの?」
「杭の図を見て、まず立て方を確かめていました。どなたに習ったかは聞いていませんが、私もああして見るように教わりました」
セラは包みの上から鐘の形を確かめ、壁の方へ向き直った。
門が閉まってから、僕は塔を見上げた。
「この町へ来てから、外から門を通ってきた人は、僕が知っているかぎりアルドさんたちだけです」
ニルスさんが同じ方を見た。
「ああ」
「あの人たちも、救援で来たわけじゃありません。助けを呼ぶあの輪を見て来た人は、一人もいないんですか」
「……そうだな。一人も来ていない」
「一度もですか」
「一度もない」
塔に輪を上げたのは、僕がこの町へ着いた日の朝だ。あれから、もう一月を越えた。
「あの塔の光なら、北の宿場までは見えるはずだ。そこから先は伝令が走る」
ニルスさんは塔から目を離さずに言った。
「とうに何か来ていい頃だと思っていた。これだけ待って、来たのは冠灯院の返事だけだ」
「……ほかの町も、何か問題が起きているんでしょうか」
「ザハルさんはそう予想している」
ニルスさんは塔から目を離して、壁の内側の広場を見た。
「どこも手が足りないなら、来ないのが当たり前だ。……そう思っておく方が楽だ」
楽だ、という所だけが残った。
◇
その日の午後、二日に一度の送火で柵の外へ出た。
柵の根元には、まだ送る火が残っている。図に丸を付けた一つを除けば、今日で送り終えるはずだった。
一つ目を送り終えた所で、北の斜面から灰の獣が三体下りてきた。二体が畝を越えて、その後ろからもう一体が続く。
「セラは下がって。他は左右へ」
列が割れる。僕は短槍を兵へ預けて、三体の腹の下を見た。
前に柵で戦った獣には、そこから畝の向こうへ黒いものが伸びていた。今日の三体にも、同じものが付いている。ただ、後ろへは伸びていない。腹の下からまっすぐ下りて、土の中へ消えていた。
「線があります! 三体とも、真下の土へ入っています!」
セラが石垣の陰へ移るまで、正面を守ることにした。
「三体とも、ここで受けます。《退かぬ盾》」
青い面へ先頭の爪が当たった。一つ、二つ、三つと数える間、頭の高さを長い前脚がかすめていく。
四本目の線が伸びても、次の打撃は来なかった。
灰色の背は一歩下がった所にいた。前脚を上げたまま動かず、盾の端へ回ろうともしない。爪の音が途絶えて、僕の数える声だけが畝の間に残った。
枝道で、墓喰らいもこうして腕を引いた。あの時も途中で打つのをやめ、線だけが伸びていくのを待っていた。
「待っている。盾が消えるのを」
「線の先のやつの入れ知恵か。カイ、セラは抜けたぞ」
セラが石垣へ入るのを横目で見て、たまった重さを前へ押し出した。腕を引いていた獣は反撃をまともに受け、背から土へ落ちた。
「次を押さえる!」
右から回ってきた二体目へ向き直った。この一体も、盾が消えるのを待つはずだ。
待つなら、待たせておけばいい。もう一度盾を張れば、この獣も消えるまでは前へ出てこない。そのあいだに、盾の左右へ回ってもらえる。返せばさっきの一体のように遠くまで飛ぶが、返さずに消せば、僕の立っている所へ自分から跳んでくる。いつ、どこへ来るのかが分かっていれば、左右から打てる。
「盾の左右へ回ってください。消したら、ここへ跳んできます」
「分かった。皆、構えろ」
ガランさんが剣を低く構えた。僕はもう一度両手を開いた。
「ここで待たせます。《退かぬ盾》」
出た面は、さっきより薄かった。同じ火を続けて呼んだからだ。
二体目の爪は二度続けて面を打った。三本目の線が光る頃に腕を引く。下がった足の幅も、持ち上げた前脚の高さも、さっきの一体とほとんど同じだった。僕は盾の向こうを見つめ、数える声を強くした。
この薄さでは、五本目までしかもたない。
一体目の核へ先に青火を通しておけば、盾は元の厚さで戻ってきたはずだ。枝道で墓喰らいと戦った時に確かめたことなのに、右から来る二体目から目を離せず、青火を呼ぶ間を作れなかった。
兵が倒れた一体目へ槍を差し、セラが鐘を鳴らした。僕は正面の獣から目を離さず、盾の左右へ回る父さんとガランさんを待った。
「消します」
後ろにいた兵まで横へ抜けたのを見届けて、僕は重さを返さずに盾を閉じた。行き場の無くなった分が両肩へ来たが、足は動く。
足が動くようになった瞬間、僕は父さんと反対の側へ身を引いた。面の消え際へ跳んだ獣の爪が、さっきまで立っていた土をえぐる。着地した首がこちらへ向くのを見て、もう一歩だけ横へずれた。
「こっちだ!」
僕を追った首が横へ伸びた。その下へ父さんの鉤棒が掛かる。引かれた獣が踏み直すより早く、ガランさんの剣が前脚を断った。両肩の痛みに息を詰めながらも、僕は兵の横まで抜けて振り返った。
横倒しの灰へ穂先が入る。セラの音はその後から届いた。落ちた首は土へ押し付けられても、僕の閉じた両手を追っていた。僕が指を開くと顎が動いたが、もう爪は届かなかった。
三体目は仲間が崩れたのを見て、畝の外へ下がった。
追わずに、こちらを見ている。
灰の獣は遅い者から襲う。勝てない相手を見て引く獣を、僕はまだ一度も見ていない。
外側の兵がその背を追っている間に、セラは押さえた二体の核を順に送った。それから柵の根元へ戻って、残りの一つも送り終えた。
柵に残ったのは、丸を付けた一つだけだ。その火は、帳面の数から外した。
肩の痛みは腕を回すと和らいだ。道具を持つには困らない。
◇
その夜の評定で、僕は帳面を開いた。倒した日に書いた行と、枝道で書き足した行がある。
――墓喰らいを倒した。砕いた核は一つ。
――倒した日、切れた糸の端が割れ目へ落ちた。切れ端だったのかは、分からない。
僕は、そのまま読み上げた。
しばらく誰も口を開かなかった。灯りの芯が鳴る音だけが、机の上で続いている。
昨日この部屋で、アルドさんが先に言った。集めているなら、まだ生きています、と。あの時は、誰も返さなかった。
「切れ端だったかもしれん、と書いたのはお前だぞ」
ザハルさんが僕の読んだ行へ指を置いた。
「今も、そうかもしれないと思っています」
「そう思っているのに、言うのか」
「今日の灰の獣は、二体とも盾が消えるのを待っているように見えました。三体とも黒い線が付いていて、前は畝の向こうへ伸びていたのが、今日は真下の土の中へ入っていました」
婆さんは何も言わずに、机の木目を指でなぞった。
部屋の端でニルスさんが腕を組み直した。
「土の中か」
「板の下の溝も、割れ目で途切れていました。倒した日に糸の端が落ちたのも、割れ目です」
「あれの体は、確かに崩れた」
ガランさんが壁から背を起こした。
「俺は折れた金属を蹴った。灰も残った。だが、見たのは崩れる所までだ。その後、何も起きなかったと確かめた者はおらん」
ガランさんは、僕の帳面の糸の端の行へ目をやった。
「小さなことでも、生きとる見込みが一つあるなら、生きとるものとして備える。戦場で死ぬのは、終わったと思って目を離した奴からだ」
誰も、死んだ、とは言わなかった。
ガランさんは机の図の北東へ指を置いた。石列と、枝道と、板を置いていた所。
「板が無くなった。あれは風では動かん。外の火も、誰も送らんのに減った。獣がいつもと違う動きをした。冠灯院の小僧まで、集めとるなら生きとると言った」
「四つとも、別のことだ」
ザハルさんはそこで一度切って、炭筆を置いた。
置いた音が、思ったより大きく聞こえた。
「だが、四つともあれを倒した後に起きている」
返す声は無かった。
「……カイ。倒した、と書いた所を、書き直してくれるか」
「僕の帳面をですか」
「町の帳面もだ。分からん、と書いてくれ。分かっていないのだから、それが正しい」
「はい」
ザハルさんが差し出した町の帳面の、倒した、と書いてある行へ線を引き、横に、分からない、と書いた。自分の帳面の同じ行も、そう書き直した。
字にしてしまうと、それはもう僕の帳面の中だけの心配ではなかった。まだ生きているかもしれない。その見込みが、この部屋の全員の前に置かれた。
「今夜の見張りを倍にする。明日は板を置いた所へ兵を出す。それまで外の作業は止めだ」
誰も何も言わなかった。反対が出ないことの方が、僕には重かった。
部屋を出る時、ガランさんが僕の帳面を指した。
「今日の動きも、糸の端の行と同じ欄へ入れとけ。つながったと決めるのは、まだ早い」
「はい」
◇
夜明け前に角笛が鳴った。
一度ではない。三度だった。
町の者を壁の中へ入れる合図だ。
僕が壁の上へ上がった時には、東の空がまだ灰色だった。石段から兵が次々に上がってきて、胸壁の隙間へ配置についていく。
見張りが北を指している。その先の斜面が、朝の前の薄い明るさの中で動いていた。
「なんだ、あの数は……」
声を出した見張りの手が、胸壁の石を握ったまま止まっている。
僕は端から数え始めた。
畑の縁にもう群れが下りていて、北の斜面の裾には、その倍の背が並んでいる。斜面の上の方はまだ暗い。
暗い所にも背がある。前の獣に続いて同じ向きへ下り、列の間が空くと後ろから別の頭が埋めた。斜面の向こうが、いつまでも途切れない。
五十を数えても、暗い斜面から次の背が出てきた。僕は数えるのをやめた。
見張りが毎晩書き留めてきた数より、ずっと多い。
遠い斜面からも集まってきている。互いにかみつくものも、畑へそれるものもいない。別々の道から来た背が、門の正面へ向きをそろえていく。
その並びの真ん中に、ほかより高いものが立っていた。
背の高さが周りと違う。腕の数も、前に倒したものより多かった。
東の空から届き始めた薄明かりが当たっているのは、こちらから見て右の側だけだった。その片側だけで、腕が四本あった。




