第七十話 名のある返事
評定の部屋は、しばらく誰も動かなかった。灯りの芯が小さく鳴り、紙の上を走る筆の音だけが続いている。
書き終えたアルドさんが、顔を上げずに次の問いを置いた。
「核を砕いたのは、あなたですね」
「僕です。砕いたのは一つです」
「その時、ほかに核が残っていなかったかは、確かめましたか」
「……確かめていません。体が崩れたので、そこで倒したと思ってしまいました」
アルドさんの筆が、そこで一度止まった。
「では、もう一つあったかどうかは、まだ分かりませんね」
「……はい」
ガランさんが壁から背を離した。ザハルさんは腕を組んだまま、何も言わない。
「取り込まれる前に送ってしまえば、その火はもう、誰にも連れていかれません」
さっきまでの、規則を読み上げる声ではなかった。自分にも言い聞かせているような声だった。
「……分かりました」
僕がそう答えると、アルドさんは書いた所を上から押さえ、指を離した。
「減った五つと、倒した後の話は、そのまま持ち帰ります。ここで判断はできません。残っている火の方を、先に決めます」
外套の中から薄い板を出し、机の端へ置く。
「院の判断を伝えます。町の周りの残火に、送火は続けて構いません」
「……いいんですか」
「残火を送れば、その人を苦しみから解き放てます。奪われる前に、送ってあげてください」
ひとまず、外の火を送る仕事は続けられる。机の下で握っていた手を、僕はやっと緩めた。
「減った五つも書いてください。場所と、いつ見たかを」
「記録を、持ち帰るんですか」
「何を見て、何を送り、何を送らなかったかを、全部です。あなたの中の火をどうするかは、この記録と一緒に持ち帰ります」
「帳面は、明日も外で使います。どの火がどこにあるかは、この帳面にしか書いてありません。写しなら今夜書いて、朝に渡せます」
アルドさんは板を机へ置いたまま、しばらく指を動かさなかった。
「……写しで構いません。ただし、帳面に書いてあることは、省かずに写してください」
「見たことと、確かめたことと、まだ分からないことは、欄を分けてあります」
「では、その欄のまま写してください」
板を畳みかけた手を止め、アルドさんは付け足した。
「送った火のうち、誰だったか分かっているものは、その人が何をしていた人かも書いてください」
「町の名簿と照らした分なら、あります」
「それで結構です」
アルドさんが紙を畳み終えると、今度はセラが席を立ち、膝に置いていた別の紙を机へ広げた。
「こちらも見ていただけますか。最初の報告を出した後で、見つけたものです」
僕が《灯名帳》から写して渡した、杭の図だった。三角に並ぶ三本の印へ、セラの指が下りる。
「西門へ上る枝道に、この杭が打ってありました。院で測る時と同じ配置です」
アルドさんは身をかがめ、指先で配置をたどった。
「院からこの辺りへ杭を打ちに出たという話は、聞いていません。確かに、院で使う立て方です。印は現物も見たいですね」
「では、院の方が立てたのでしょうか」
「そうだとは思います。ただ、この図だけでは、誰が打ったものかまでは分かりません。北の地方院から出ている調査隊は三つあります。どの隊がここへ来たかは、戻って記録を確かめます」
セラは図を机に残し、席へ戻った。アルドさんが板へ何か書き始めたので、僕は先に部屋を出た。
◇
その日の夕方、アルドさんに頼まれて、門の脇の石段から壁の上へ案内した。杭のある場所を、一度は自分の目で確かめておきたいという。
僕は北東の、石列が細く見える辺りを指した。
「あの向こうの枝道です。ここからだと、行きだけで半日かかります」
アルドさんはしばらく石列の方を見ていたが、杭どころか、枝道の形も見分けられる距離ではない。
「明日の朝には発たないといけません。今回は、図で確かめます」
壁の縁へ、《灯名帳》から写した杭の図を広げた。風で浮く端を、僕が押さえる。
「内側に火が無いのは、前からですか」
「見つけた時も、内側にはありませんでした。杭が打たれる前は、見ていません」
アルドさんは図の印へ顔を近づけ、三本の杭を結ぶ線を、指先で順にたどった。
「印の形は、うちで習うものと一つだけ違います」
「どこですか」
「切り込みの向きです。うちは右へ倒します。これは左です」
「杭に刻んであったとおりに写しました」
答えてから、印の横へ切り込みの向きを書き足した。
「左へ刻むのは、どこの立て方ですか」
「私の知るものにはありません。印の写しも持ち帰ります」
自分の板へ印を写し終えると、アルドさんは壁の縁から離れた。
上ってきた石段の方へ並んで戻りながら、僕は一つだけ、先に言っておくことにした。
「送っていない火が、もう一つあります」
アルドさんの足が止まった。
「町の外ではなくて、僕が持っています。使者の人の標章に残っている火です」
「送っていない理由は」
「使者の記録を調べる手掛かりとして、残していました。町の外の火は送っています。この人の火は静まっていますが、まだ送っていません」
アルドさんは壁の内側の町を見下ろしたまま、少し黙っていた。
「その一つは、送らないでください」
「どうしてですか」
「持ち主の分かる火は、送らずに置く。それが決まりです」
こちらを向いたアルドさんの目は、僕とそう変わらない高さにあった。十四だと知ったのは、その夜、馬を引いていた人から聞いてからだ。
「壁の外の火は、誰のものか分かりません。だから、そちらは送ってかまいません」
「分かる方だけ、残すんですか」
「そうです」
「どうしてですか」
今度の沈黙は、さっきより長かった。
「規則です。院が決めたことに、私が理由を付け足すことはできません」
答えになっていない、と思った。言い直さないところを見ると、その先は、アルドさんも持っていないのかもしれない。
アルドさんは町を見下ろしたまま、石段を下り始めた。
◇
夜、写しを書いている僕の横で、セラは紙の端を押さえてくれていた。押さえていない方の手を、何度か開いては閉じている。
「まだ痺れる?」
「少しだけ。柄の下を握っていた方です」
セラは指を開いたまま止めた。
「鐘なら、鳴らせばすぐ手を離せます。昨日は長いあいだ、銀へ流し続けていました。戻ってきた震えが、そのまま腕に残ったのかもしれません」
「試さないの?」
「試しません。今日通したら、明日通せなくなります」
言い切って、セラは手を膝へ下ろした。
「師の名前は、今度も出ませんでしたね」
「一度も」
アルドさんは北の地方院の名で来て、三つの隊の話までしたのに、セラの師には触れなかった。
「あの方が私を古戦場へ出したことは、院の紙のどこかに残っているはずです。それなのに、三つの隊の話にも出てきませんでした。……師の身に、何かあったのかもしれません」
僕は炭筆を止め、写している行を見直した。何を見て、何を送り、何を送らなかったか。書けと言われたのはそこまでで、誰に言われて来たかを書く欄は、この帳面にも無い。
言われたとおり、送った火の欄へ、分かっているものだけ、その人が何をしていたかを書き足していった。
石臼を担いでいた人。畑の縁で数を運んでいた人。麦の荷車を押していた人。
名前の下へその一行が入ると、紙の上でその人が少しだけ形になる。元の帳面より、写しの方が読みやすくなっていた。
それから新しい行を一つ作り、セラの名前を書いた。
――壁の外の火を送っているのは、冠灯院の見習い灯葬士セラである。師の指示で古戦場へ来たと、本人から聞いている。
写しの方にも、同じ行を入れた。持ち帰る紙に一行増えたところで、院の記録が変わるわけではない。それでも、セラと、セラを送り出した人のことを書かない紙を、こちらから渡したくはなかった。
最後に、アルドさんが言ったもう一つの欄を書いた。
――減った五つ。場所と、いつ見たか。
返事がいつ戻るのかは、アルドさんも言わなかった。それまでに、これまで送った火を一つずつ並べ直しておこう。誰だったのか。何をしていた人だったのか。どの欄が、まだ空いているのか。
藤代明人は、資料館で読まれなくなった手紙を整理していた。欠けた所を埋める仕事ではなく、欠けている所が分かるように並べる仕事だった。
その並べ方なら、僕は知っている。




