第六十八話 送り槍のセラ
「七体。右から来る!」
ニルスさんの声が畝の上を走り、長槍が一斉に横へ向いた。
灰の獣は、足並みをそろえたまま畝を越えてくる。先頭の前脚を、ガランさんの剣が斬り飛ばした。後ろへ続く二体にも槍が入って、灰が畝へ散った。
初めて柵の外で戦った日は、一体を崩すのに三人がかりだった。今は、ガランさんの一振りで先頭が止まる。二体目と三体目へも、言われる前に槍が入っていく。
ここまでは、いつもの半分の手間だった。
斬られた先頭が、倒れきる前に地面を蹴った。
散った灰が戻っていく。脚のつながりが元に戻るまで、二つ数えなかった。
「戻るのが早いぞ」
ニルスさんの声が短くなった。
次の一体が前脚を振り下ろした。兵が長槍の柄で受けて、受けた所から折れた。
柵へ体をぶつけるだけだった獣だ。前に見た爪で、あの柄は折れない。
腹の下に細い黒いものが張っていた。土へ入らず、畝の向こうまで伸びて、その先は起伏に隠れて見えない。いつもの灰の獣に、こんなものは付いていない。
「後ろに線が付いています! 七体ともです!」
僕の声で、ガランさんの足が止まった。
「あれで強くなっているのかもしれません」
三体が同時に、その兵の方を向いた。
「セラ!」
下がれ、という意味で呼んだ。返ってきたのは違った。
「試したい術があります。ここで、やらせてください」
セラはもう短槍の石突きを土へ突き立てていた。
「どれくらいかかる?」
「四つ数えるあいだ」
「分かった」
僕は自分の短槍を横へ置き、セラの前で両手を開いた。
「全員、僕の後ろへ。《退かぬ盾》」
青い面へ爪がぶつかった。足が土へ縫い留められ、正面いっぱいに灰色の腹が迫る。柄を折られた兵が横へ転がり込むのを、背中で聞いた。
一本目の線で、もう腕の付け根が鳴った。前に十まで数えた時より重い。
三本目で、背中の方の土が細かく鳴り始めた。
正面にいた兵が左右へ抜ける。僕は四本目まで受けた重さを返した。
盾が弾け、先頭の一体が畝の外へ吹き飛んだ。後ろの六体が散らばるより早く、足の裏へ低い響きが届いた。
振り返って、足の裏へ届いた響きが何なのか分かった。
セラは鐘を出してもいない。土へ刺した短槍の柄を両手で挟んで、石突きへ魔力を落としている。冠灯院の槍は石突きに銀が巻いてあって、銀は魔力を通す。音にならない震えが、柄を伝って土の中へ下りていく。
鐘の音とは違う。火を送る音ではなく、土を揺らすためだけの響きだった。
石突きの周りで、乾いた土の粉が浮き上がった。輪の形に広がりかけて、一度落ちる。
「……もう少し、先へ」
セラが手を柄の下へ滑らせ、銀へ深く力を通した。
槍の根元から、土の粉を巻き上げて輪が走った。手前の一体で止まらず、右へ回る二体の足元を抜けて、その奥の背へも届く。六体の灰が一斉に浮き上がり、外へはがれた。
露出した黒い糸がたるんだ。前脚を振り上げた獣は踏み下ろせず、半ばまで曲げた脚から土へ落ちる。
「届いてる! 六体とも!」
僕の声にガランさんが踏み込んだ。
「今だ、斬れ!」
ガランさんの剣が一体の肩から胸を割った。刃を引く勢いで隣の前脚を払い、灰の戻らない胴へニルスさんが穂先をねじ込む。左右の兵も剥き出しの脚の付け根を突き崩す。
輪の端にいた一体が外へ逃れようとした。父さんの鉤棒が横からその胸を打ち、ニルスさんの前へ押し戻す。跳ね上がった灰の下で核が見えた。
四つ数えた所で、セラが柄から手を離した。足元の震えが切れ、浮いていた灰が落ち始める。僕は置いていた短槍を拾い上げ、胸へ次の火を呼んだ。
「開いた核を断つ。《青火纏い》」
青い穂先をニルスさんの槍の下へ突き入れる。硬い核が割れ、戻りかけた灰が土へ崩れた。抜いた柄を握り直し、ガランさんが胸を開いた一体へ踏み込む。
残った脚が柄を挟んだ。ねじり出そうとする重さに腕が引かれる。踏み込んだ足から背中へ上がる熱が、両手を支えた。
「左、開いたぞ!」
抜いて、次へ。畝を越えても膝は折れない。息は弾んでも、脚は勝手に次の獣へ向かっていた。
輪の中の六体を断ち終えると、盾で飛ばした一体が畝の外から跳んできた。兵が槍で胸をはね上げる。僕は腹の下へ青い穂先を突き上げ、最後の核を砕いた。
七体ぶんの灰が畑へ落ちた。どこにも寄り直す動きは残っていない。
槍を下ろしてから、ようやく息が上がった。柄を押し切った腕も走り回った脚も、自分のものだった気がしない。
穂先にはまだ青があった。僕は自分で火を収め、石垣の陰にいるセラへ振り向いた。
セラは土へ立てた槍を支えにこちらを見ていた。柄を挟んでいた手は震えていたが、僕と目が合うと息をついて笑った。
「全部、届きましたか」
「うん。六体とも灰が戻らなかった。だから、一気に倒せた」
そばの兵も長槍を引き寄せ、セラへうなずいた。
「爪が止まったのを見てから入れた。助かったぞ」
「響きは、十歩くらい先まで届いていたよ」
「……そこまで」
セラはニルスさんから水を受け取ると、ようやく石垣へ腰を下ろした。
「ただ、魔力の消費が激しいです。何度も続けては難しそうです」
ガランさんが見張りへ声を掛け、その日は引き上げることになった。柵に残ったのは三つで、次に送るのは、丸で囲んだ一つを除いた二つだ。町まで歩くあいだ、セラは一度も顔を下げなかった。
町へ戻ると、セラは僕の描いた畝の図へ槍の位置を書き足した。僕が伝えた距離のそばへ、十歩、と自分で書く。
「次は遠くへ広げる前に、柄へ流す魔力をそろえます」
「危ないから下がれ、と言われると思っていました」
「言おうとした。セラの方が先に石突きを立てていたよ」
セラは少し笑って、図の真ん中の槍へもう一本濃く線を引いた。
「あれ、なんていう技?」
僕が聞くと、セラは炭筆を止めた。
「《響きの輪》です。師に教わった術です」
「鐘は、使わなかったね」
「火を送れるのは鐘だけです。でも、灰をはがす響きなら、石突きの銀を通しても作れると教わりました。……教わった時は、足元までしか広げられませんでしたけど」
セラは図の上の十歩という字を、指でそっとなぞった。
「今日は、十歩です」
ガランさんが折れた長槍の柄を机へ置いたのは、その後だ。
「これを見ろ。柵に体をぶつけるしか能のない獣が、兵の柄を折った」
ニルスさんが断面を指で撫でた。
「潰れていない。切れている。灰の戻りも早くなっている」
誰も喜んでいる顔ではなかった。セラの技が通らなければ、どうなっていたか分からない。
「今までの獣とは違う」
ガランさんが柄を机へ寝かせた。
「柵に体をぶつけていた頃の獣は、ばらばらに来た。今日の七体は、足並みをそろえて来た」
「襲う相手も違う」
ニルスさんが断面から指を離した。
「灰の獣は、足の遅い者から襲うはずだ。今日は柄を折られた兵へ、三体が同時に向いた。弱った所を、そろって狙っている」
「腹の下に、黒い線が付いていました」
僕が言うと、父さんがこちらを見た。
「どこへ続いていた」
「畝の向こうまでです。先は起伏に隠れて、見えませんでした。響きが通った時は、その線もたるみました」
「なら、響きは線にも届いているのかもしれません」
セラが膝の上で手を組んだ。ガランさんは、しばらく柄の切り口を見ていた。
「線の先に、何かがいる。今はそれだけ覚えておけ」
誰も、その先にいるものの名前を口にしなかった。
◇
その夜は、部屋の隅で道具の手入れをした。
僕は短槍の穂先を砥石に当て、セラは自分の短槍の石突きを布で拭いていた。銀の巻いてある所だけは、指の腹で確かめるように何度もなぞっている。
セラが鐘の包みを開け直した時、間に挟んであった薄い帳面が床へ滑り落ちた。いつも鐘の包みに挟んでいる、院の帳面だ。拾い上げると、開いたページの端に、小さな字がいくつも並んでいた。
――響環のセラ。
――銀鈴のセラ。
――送り槍のセラ。
上の二つには線が引かれていて、残った一つが丸で二重に囲んである。
「……これ、何?」
セラが振り向き、帳面と僕の顔を順に見た。次の瞬間、耳まで赤くなった。
「か、返してください!」
「送り槍のセラ。二重丸だ」
「考えていただけです! ニルスさんのが、とても素敵だったので、その……」
帳面をひったくったセラは、胸へ抱え込んで背中を向けた。
「でも、二つ名って、自分で考えるものじゃないと思うよ?」
なるべく落ち着いた声で言うと、セラの背中がぴたりと止まった。帳面を抱えた腕に力が入り、耳の赤さが首の後ろまで広がっていく。
「……分かっています」
振り向かないまま、消え入りそうな声が返ってきた。
「分かっていて、考えてしまったんです」
「ニルスさんに見せたら、明日から見回りで『送り槍』って呼ばれるかもね」
「見せたら、カイの朝の稽古を倍にしてもらいます。ガランさんに頼んで」
それは困る。僕が両手を上げると、セラは帳面を抱えたまま、少しだけ肩を揺らして笑った。
「……でも、絶対に、ほかの誰にも言わないでください」
帳面を抱え直したセラが、赤い顔のまま僕を見た。
「うん、言わない」
頬がゆるむのを止められなかった。セラはまだ疑うように目を細めていたが、僕は笑いをこらえたまま、もう一度うなずいた。
笑いが収まると、セラは鐘の包みを結び直した。その手が休まるのを見てから、僕は自分の帳面を開いた。
図の柵の所に、丸を付けた火が一つある。
これまで触れてきた火は、門を守った人や、知らせに走った人のものだった。残火になるのはそういう人ばかりだと、どこかで思い込んでいた。
生きている人の中にも、悪い人はいる。それなら、悪い人の残火も、当然あるはずだ。そんな当たり前のことに、それまでの僕は一度も思い当たらなかった。
――板が消えた。縄の結び目は残っていた。
――外の火が五つ減った。誰も送っていない。
――灰の獣が長槍の柄を折った。灰が戻るまで、二つ数えなかった。
その上には、枝道で書き足した一行がある。倒した日、切れた糸の端が割れ目へ落ちた。切れ端だったのかは、分からない。どれも、墓喰らいを倒してから起きている。
一つずつなら、別々の話にできる。鉄を持っていく者がいて、火を食べる何かがいて、たまたま強い獣が出た。そう書けば、この帳面は今日で閉じられる。
僕には、そう読めなかった。全部、同じものが外でしていることに見える。
そして、そう思っているのは僕だけではない。
朝の補修方の人も、評定のザハルさんも、「倒したろう」と言って先へ進んだ。誰も、倒していないかもしれないとは言わなかった。




