第六十七話 足りない五つ
翌朝はまだ暗いうちに、枝道の見回りに付いて町を出た。石列の根元に残る火も、一度数えておきたかった。
石を落とした土手の隙間を過ぎ、戦った場所へ着いたのは、昼が近くなってからだ。道の脇の布が平らになっていた。
墓喰らいの体だった金属の板を寄せて、布を掛けて縄で留めてある場所だ。前に来た時は、重ねた板のぶんだけ盛り上がっていた。鍛冶が使えるかを見に来ることになっていた。
「誰か、持っていったのか?」
縄を留め直しに来ていた補修方の人が布の端を持ち上げた。緩んだ縄も一緒に上がってくる。結び目はほどかれていなかった。
下には何も無かった。道の脇に布の形だけが残っていて、板は一枚も入っていない。
「鍛冶の人でしょうか」
「鍛冶は明日来る。それに町の者なら、俺に言わずには運ばん」
その人は布を下ろし、後ろにいた兵を呼んだ。重ねた板は一人で抱えられる量ではない。
布の下では、板の重みでへこんだ土に細い溝が何本も残っていた。どれも布の縁までは続かず、真ん中の割れ目で途切れている。
首の後ろが冷たくなった。この溝の途切れ方を、僕は前にも見ている。
兵がその割れ目へ鉤棒の先を差し込むと、乾いた土が崩れて暗い隙間が広がった。
「下から引かれたんだと思います」
二人が僕を見た。
「下から? どういうことだ」
「村の北の石台にも、同じ溝がありました。灯籠が消えた時です。足跡は無くて、細い溝だけが地面に残っていました。あの時、灯籠を引いたのは、地面の下から伸びた黒い糸でした」
「黒い糸というと、墓喰らいか。それなら、倒したろう」
補修方の人の声は、責める調子ではなかった。本当にそう信じている声だった。
「お前が核を砕いたんだ。俺は見とらんが、見た者から聞いとる」
「そうですが、布の縄の結び目がほどけていません」
「誰かが掛け直したんだろう。鉄は鉄だ。思いたくはないが、黙って持っていく者もおるだろう」
さっきは、町の者なら自分に言わずには運ばないと言っていた。墓喰らいと結び付けたくないようだった。
その気持ちは分かる。墓喰らいがまだ生きているなんて、僕も思いたくない。
それなのに、割れ目から目が離せなかった。墓喰らいを倒した日、切れた糸の端が落ちていったのも、こんな割れ目だった。あの時は、ただの切れ端だと思って、帳面にも書かなかった。
僕は帳面へ、板が無いことと縄の結び目が残っていたことを書いた。その下へ、倒した日に見た割れ目のことを、初めて書き足した。運んだ者は、その日のうちには見つからなかった。
◇
町へ戻ったのは夕方だった。枝道で数えた分と、壁の上から見える分を合わせて、火の数を数え直した。数えるのは、土や柵の杭のそばにとどまっている火だけだ。
墓喰らいを倒した次の日は、二十九あった。
あれから送ったのは、柵の二つだけだ。今日は二十七のはずだった。
二十二しかなかった。
二度数えて、場所も一つずつ合わせた。柵の六つはある。足りないのは遠い方で、石列の根元と道の脇から五つ消えていた。
残火が消えるのは、セラが鐘を鳴らして送った時か、僕が青火で獣の核を砕いた時だけだ。送っても砕いてもいない火が勝手に減ったことは、この帳面に一度も書いていない。
その晩の評定で、ザハルさんは僕の出した紙をしばらく見ていた。数の並びだけで、理由は書いていない。
「減っとるな」
「はい。送ったのは二つです。合いません」
紙の端へ、五つ、と書いてある。その下は空けてあった。
「あれを倒した後でか」
誰も答えなかった。倒せば外は動かなくなると、この部屋の全員がどこかで思っていた。
「白喰いなら、この減り方になります」
セラが膝の包みから手を離した。
「白喰いは食べた分だけ、体の中に青が散ります。カイも見ています」
ニルスさんが首を振った。
「ですが、出ていません。あれを倒してから、白喰いは一度も見ていません。門の外も橋の方も、毎日見ています」
「灰の獣かとも思いましたが、今まで出会った灰の獣は、どれも核が一つです」
言ったのは僕だった。
「食べて溜めるなら、二つ目が見えるはずです」
部屋が静かになった。
残火を取り込んでいたものは、もう一つしかない。誰も名前を出さなかったので、僕が出した。
「墓喰らいでしょうか」
「……倒したろう」
朝と同じ言葉が、今度はザハルさんの口から出た。
「はい……」
核は砕いた。数えたのは一つだ。それ以上のことは、僕にも分からない。
紙の端の空けてある所は、そのままにした。
「なら、これ以上何かに奪われる前に、こっちが先に火を送るしかないな」
ガランさんが外へ出る人数を書いた紙を引き寄せた。
決まったのは、外へ出る組を増やすことと、送火の割り当てを三日に一度から二日に一度へ変えることだ。
「セラ。二日に一度、半日ずつ回れるか」
「はい。大丈夫です」
セラは迷わずに答えた。僕の方が息を止めていた。送火のあいだ、セラは鐘と火から目を離せない。外へ出る回数が増えれば、その無防備な時間も増える。
ザハルさんは護衛の人数を書き込み、そろうのに一日かかると言った。次に出るのは二日後になった。
◇
二日後の朝、僕たちは柵の外へ出た。
ガランさんとニルスさん、父さん、セラと僕に兵七人。兵のうち三人が外側を見張り、残る四人が火の周りへ長槍を並べた。柵の根元に残った六つのうち、今日は四つを送る予定だった。
歩きながら、セラは自分の短槍の石突きを見ていた。銀の巻いてある所を指でなぞっては、柄を握る位置を変えている。
柵の最初の火へ着いて、僕は指を伸ばしかけて止めた。
触れば、その人が最後にしていたことが来る。うまくいけば、力が一つ増える。
外の火を減らしているものが何なのか、まだ分からない。次に何かが来た時、今の僕で足りるとは思えなかった。少しでも強くなりたい。その気持ちの方が、触れるのをためらう気持ちより大きかった。
「一つだけ、触らせて」
セラがうなずき、ガランさんは外を見たまま半歩こちらへ寄った。父さんが隣へ来るのを待って、僕は指を入れた。
◇
押し合う背中の間で、柵の戸が開くのを待っている。
前の男が、袋を胸に抱えていた。戸の向こうへ入れるのが、あと何人なのかは分からない。入れなくても、あの袋があれば何日かはもつ。
腰の刃物を抜いた。
背中の側から、肋の下へ入れる。思ったより軽く入った。刃を伝って温かいものが手首まで来て、男の体から力が抜けていく。
紐をほどきながら、胸の奥が静かになっていくのが分かった。これで足りる。これで、あと何日かは。
後ろで、灰を踏む音がした。
◇
手が、温かかった。
柵の根元に膝をついていて、伸ばした指の先に青い火が浮いていた。指を引こうとしても、柄を握った形のまま開かない。
手首まで、温かいものが伝っている。
僕はその手を上着へこすりつけた。落ちない。今度は土へこすりつけた。爪の間に入り込んだものが、まだぬめっている気がする。柵の杭へ手の甲を打ちつけても、温かさは消えなかった。
「カイ!」
父さんが僕の手首をつかんで、止めた。つかまれたまま、それでも指を上着へ押しつけようとしてしまう。
「何を見た!」
答えようとしても、喉が鳴るだけだった。
セラが鐘を胸に抱えたまま、すぐ横へ膝をついた。ガランさんが外の見張りを兵に預けて、僕の前へ回ってくる。長槍を構えていた兵の一人も、穂先を下ろしてこちらを振り返った。
「カイ。どこにいる」
父さんが、僕の両手を包んだまま聞いた。今度はゆっくりだった。
「……町の、外。柵の、根元」
「名前は」
「カイ」
やっと、自分の名前が口から出た。父さんが、柄を握った形のままの指を、一本ずつ開いていく。
手のひらに付いていたのは、土と、杭でこすれた細い傷だけだった。あの男の血は、どこにも無い。
「袋を持った人を、後ろから刺した人の火だった。柵の戸が開くのを、待っている間に」
父さんの手が止まった。
「……僕が、殺した」
自分でも、何を言っているのか分からなかった。手のひらを見たまま、言葉だけが落ちた。
「お前じゃない」
父さんが、開いた僕の手を両手で強く握った。
「それは、その火の記憶だ。お前の手は、誰も刺していない」
セラが僕の袖をつかんだ。何か言おうとして、唇だけが動く。鐘を抱えた腕が、小さく震えていた。
ガランさんは何も言わずに、柵の根元の青い火を見下ろしている。
「……送りますか」
セラの声は、いつもより細かった。
送れば、あの火はほどける。そして、送る前に触れていた僕の体へ、あの人が最後にしていたことが落ちる。これまでに来たのは、重い物を背負える力と、止まらない脚だった。
この火から来るのは、刃物を背中へ入れる手だ。
「……送らないで」
声が、自分のものではないほど小さかった。
「今は、送らないで。これは、僕の中に入れたくない」
セラは鐘を下ろした。
「触る前に、どんな人の火かは分からんのか」
父さんが聞いた。
「分かりません。名簿で名前が分かる火でも、最後に何をしていたかまでは、触れてみるまで分かりません」
セラが答えると、ガランさんが短く息を吐いた。
「なら、力欲しさに触るのはやめろ。何が入ってくるか分からんものに、自分から手を伸ばすな」
「……はい」
うなずいた手が、まだ少し震えていた。少しでも強くなりたくて伸ばした指だった。その指が、知らない男の手の形のまま開かなかった。
僕は帳面の図で、その火の場所を丸で囲んだ。送らない火。置いていく火。
残る火には、もう指を伸ばさなかった。場所だけを指し、セラが鐘を鳴らす。触れれば力が増えるかもしれない。けれど、誰の手が入ってくるのかは、触れてみるまで分からない。
三つ目を送り終えた時、北の畑で灰色の背が上がった。
「七体。右から来る!」
ニルスさんの声と同時に、畝の向こうで灰色の背が次々に持ち上がった。七体が、同じ速さでこちらへ向かってくる。
灰の獣が足並みをそろえて来るのを、僕は初めて見た。




