第六十六話 走っていた人
墓喰らいを倒した次の日から、西門へ上る枝道の仕事が始まった。
道を横にふさいでいるのは、あの戦いで倒れた石だ。枝道の左の縁、荒れ地へ下る斜面の際に並んでいた石列の一本で、僕が盾で返した重さで根元が傾き、そこへあれが腕を掛けて引いた。最後は、二度目に返した重さであれの体を石へたたきつけた時に倒れた。立っていた時は大人の背丈を越えていた石で、横になると道の幅をほとんどふさいでいる。
石は折れた根元を左の縁へ向け、先を右の山の斜面へ預けて、坂の途中に横たわっている。坂を下りきった所で、枝道は山裾道へつながる。雨で土がゆるめば、あの石は坂を転がって、町へ下りる道の上まで落ちる。
墓喰らいの体だった金属も、まだ道の脇に寄せたままだ。この道に荷車は入らないから、鍛冶が見て使えると決まっても、人が担いで下ろすしかない。石が道をふさいでいては、それもできない。
補修方の婆さんは、縄を三本掛けて大人たちに引かせてから、首を振った。
「引いても動かん。丸太に乗せて押すんじゃ。立っとった所から、下へ落とす」
縄を外しながら、僕は道の左の縁に並ぶ石を見上げた。
「この石列は、何なんですか」
婆さんは石の根元の土を、足で一度踏んでみせた。
「戦の時の獣止めじゃ。下から上がってくる獣の足を、石の間で鈍らせる。いちばん上の一列は、道の縁へ土を盛って据えてある。兵はその陰から槍を出したと聞いとる」
石列の根元には、今も小さな青い火がいくつも浮いている。あれは、ここで槍を出していた人たちの火なのかもしれない。
盛った土は、道より膝ほど高い土手になって残っていた。残りの石列は、土手の向こうの斜面を下った荒れ地に並んでいる。倒れた石が立っていた所だけが、土手の上で一本ぶん空いていた。根元の側からそこへ押し戻して土手を越えさせれば、あとは石の重さで斜面を落ちていく。
動かすのは大人の背丈ほどでいい。ただ、土手へ向かって上りになるうえに、引かせる馬もいない。重さはすべて、人の手で持ち上げて押すしかなかった。
町から枝道までは、行きだけで半日かかる。西門を上げに行った時と同じように、大人たちは山裾道の途中の囲いへ泊まり込み、そこから通った。
墓喰らいはいなくなっても、灰の獣は出る。護衛にはガランさんと兵が三人付き、僕も一緒に行くことになった。セラのいない所で獣の核を砕けるのは、僕の青火だけだ。父さんは東の橋の補修へ、ニルスさんは町の門の守りへ回っている。
一日目は、昼に着いてから丸太にする木を山から切り出し、運ぶだけで終わった。二日目の朝は、雨でゆるんだ道へ板を敷き、土手の空いた所へ土と石を盛って坂を作った。折れて残った根元の出っ張りも、槌で欠いて平らにした。
押し始めたのは、二日目の昼からだ。
長い棒で石を浮かせて、丸太を四本噛ませる。後ろへ回った人たちが棒の先を石の端へ当て、土へ突いててこにして押した。石が丸太を乗り越えて進むと、後ろに出てきた丸太を大人が前へ運び直す。
一度に進むのは、手のひら一枚ぶんだった。
押すのをやめると、石は自分の重さで坂を戻ってこようとする。その前に、補修方の人がいちばん後ろの丸太へ楔を打ち込む。丸太が回れなくなれば、その上の石も止まる。縄は土手の上の隣の石へ回してあって、進んだぶんだけたぐり寄せた。
押す組は交代で、休む人は石の後ろの、山の斜面の際に腰を下ろしていた。ガランさんは土手の先から荒れ地を、兵は坂の上と下を見張っている。
獣が出ないあいだ、僕は石の後ろで楔を拾った。石が先へ進んで重みの抜けた楔を抜き、打つ人の横へ並べておく。
日が傾きかけた頃、根元が土手の上へ半分ほど乗った所で、槌の先が楔の頭をかすめた。
浅いまま残った楔が、丸太に押されて横へ飛んでいく。
止める物を失った丸太が回って、石が坂を戻り始めた。
斜面の際で休んでいた人たちが顔を上げた。縄が張っても石はじりじり下がり、足元の砂が丸太に巻き込まれていく。
打っていた人は槌を取り落として、尻をついていた。
いちばん近いのは僕だった。
戻ってくる石の端へ、肩を当てる。
押し返すのではない。楔を入れ直してもらうまで、そこで止めるだけだ。
「離れろ!」
叫んだのが誰かは分からなかった。離れれば、僕だけは横へ逃げられる。僕の後ろの、石と山の斜面のあいだには、まだ人がいた。
肩が押されて歯が鳴った。靴底が土へ沈み、石と一緒にずれかけた足がそこで止まる。後ろで人の逃げる足音が聞こえたが、肩はまだ外せなかった。
本当なら、僕一人で止められる重さではない。
尻をついていた人が槌を拾って、僕の足のすぐ横で、いちばん後ろの丸太へ楔を当てた。
「入った」
声を聞いて肩を外すと、石は丸太の上で止まっていた。
僕は自分の肩を見た。痛くもないし、腕も上がる。今もう一度同じ石を受けろと言われたら、たぶん受けられない。
技を呼んで出した力ではない。握った手を開いても、指はいつもどおり動いた。
「おい、大丈夫か!」
槌を拾った人が、慌てて僕の前へ回り込んだ。返事をする前に肩をつかまれ、腕を持ち上げられる。肘を曲げさせながら、その人は僕が顔をしかめないかと、目ばかり見ていた。
「痛みません。腕も上がります」
「……どこも、何とも無いのか」
もう一度肩を押してから、その人は丸太の上の石を振り返った。戻りかけていた石と僕の肩を、何度も見比べる。
「あれを、止めたのか。お前が。そんな細い腕で」
声が裏返っていた。縄を握っていた人たちも手を止めて、こちらを見ている。
「何人もでてこにして、やっと動かしとる石だぞ。……おい、誰か見とったか。俺の見間違いじゃないよな」
誰も、見間違いだとは言わなかった。
その人は長い息を吐いて、膝の土を払った。
「……俺も、あと一歩で止めに入るところだったんだがな」
「止められんで尻をついとったのは、どこの誰じゃ」
婆さんが言うと、縄を握っていた人たちが、どっと笑った。
その笑い声の中を、ガランさんが土手の先から下りてきた。僕の肩ではなく、手の方を見ている。
「盾は出しとらんな」
「出していません」
「……そうか」
ガランさんはそれ以上聞かずに、荒れ地の見張りへ戻っていった。
僕は肩へ触れた。袋を背負った時と同じ力だった。
日が落ちる少し前に、根元が土手の縁を越えた。
石はしばらくそこで止まっていたが、やがて後ろの端が持ち上がり、土手の上に残った石の間を抜けて、荒れ地の斜面を滑り落ちていった。下で一度跳ねて止まるまで、誰も声を出さなかった。
土手の上の石列には、一本ぶんの隙間が残った。道はようやく、荷を担いだ人がすれ違える幅に戻った。
三日目は朝のうちに、盛った坂を崩して、石が横たわっていた跡の土をならした。枝道に見張りを残して山裾道を下り、町の門へ着いた時には日が暮れかけていた。
僕たちが枝道にいたあいだに、町では見張りと護衛を付けた外の仕事が戻っていた。東の橋へ人が出て、畑の縁の見回りも再開している。僕とセラにも、三日に一度、送火に出る半日が割り当てられた。
村へは三通目の矢文を出した。墓喰らいを倒したことと、道の石をどけたことが書いてある。
肩のことは町へ戻ってから父さんへ話して、手紙には怪我なく仕事を終えたとだけ書いてもらった。
次の便りでは、ユハンさんとノアの様子を聞きたかった。
◇
四日目の朝、僕とセラは柵の根元へ出た。残っている火を送るためだ。
兵四人が柵の外側へ先に並び、ニルスさんが壁の上から北の畑を見た。石を動かしているあいだも、灰の獣は出ている。
柵の根元には八つの火が残っていた。畑と小屋を先に回っていたので、ここはずっと後回しになっている。
「一つ目は、レフさんです」
セラが紙を見て名前を読み上げた。年は十九で、壁の上と畑を行き来して数を運ぶ役だったと書いてある。
火は柵の杭の三本目の根元に浮いていた。膝ほどの高さで、初めて見つけた時と同じ所にある。
「触ってから送るね」
「はい。お父さんは今日いませんが」
「壁の上にニルスさんがいる。戻ったら、先に声を出すよ」
セラが鐘を下ろしたのを確かめてから、僕は指の先を青い火の中へ入れた。
◇
息を吐くたび、喉の奥がひりついた。
僕は――レフは、畑の縁を壁へ向かって走っていた。今日はこれで四度目だ。北の畑道の奥まで回り、人数を確かめては壁へ戻る。朝に濡れていた背中が、乾く前にまた汗で冷えた。
坂へ入ると腿が重くなった。脇腹を押さえたいのをこらえて腕を振る。一歩が狭くなっても、足を止めずに上っていった。門が閉じる前に知らせなければならない。
右の靴の底が剥がれかけていて、土を蹴るたびに半分めくれる。つま先を上げながら、畑で数えた三十二人を思い浮かべた。門の上へ知らせるまで、この人数を忘れてはいけない。
壁が近い。上で誰かが腕を振っている。
息を吸った所で、横から灰色のものがぶつかってきた。
地面が回り、空が見え、土の匂いが近くなる。
右手が前へ出た。指の先が、まだ走る形のまま伸びている。
足は、それでも動こうとしていた。
三十二。
◇
指を抜くと、柵の杭と乾いた草が戻ってきた。
「カイ、今どこにいますか」
セラが僕の名前を呼んだ。父さんがいない日は、そう決めてある。
「柵の根元。町の外で、セラがいる。僕はカイ」
走っていないのに、足の裏がまだ土を蹴っている感じがした。
「畑に三十二人。そう知らせようとしてた」
僕はそれだけ言って、火の高さへ目を戻した。名前も年も流れてこないのは、いつもと同じだ。
「大丈夫、送ってください」
鐘が三度鳴って、レフさんの火がほどけていった。
二つ目を北寄りで送り終えた時、ニルスさんの声が壁の上から下りてきた。
「二体来る! 門へ向かっている!」
畑の奥から、灰色の背が二つ下りてきていた。柵の外の僕たちには目もくれず、門の方へ斜めに畑を横切っていく。
門の前の坂には、畑から戻る人たちがいた。籠を背負った年寄りが一人、皆から遅れて上っている。
灰の獣は、足の遅い者から襲う。
「セラ、後から来て!」
二人の兵が長槍を担いで柵の切れ目を抜け、僕もその後ろへ続いた。残りの二人がセラの両脇へ付く。
門までは、壁沿いの上り坂が続く。
雨の残る土へ足首が沈んだ。畝の固い所へ移って、そのまま坂へ入る。足の長い兵の背中は、最初は三歩先にあった。
足元の石を踏むたび、濡れた靴が重く鳴る。壁の角を一つ回っても、坂はまだ上へ続いている。前の兵の肩が大きく上下し始め、背中が近くなってくる。僕も口を開けていたが、吸った息は胸の奥まで入ってきた。
いつもなら、この坂の途中で足を緩めていた。今日は上り続けても、腿が重くならない。坂の上へ出る手前で二人と並び、そのまま前へ出た。
籠を背負った年寄りが振り返った。その向こうの畝を、灰色の背が越えてくる。
僕は年寄りの前へ回り込んで、両手を開いた。
「門まで行ってください。《退かぬ盾》」
青い面へ、先頭の爪がぶつかった。足が土へ縫い留められる。二体目が盾の端へ回ろうとして、もう一度面を打った。
背中の側で、門の開く音がした。年寄りの足音が、扉の内側へ消えていく。
三本目の線が光った頃、追いついた二人の兵が、荒い息のまま左右へ回った。
「左右は任せろ!」
正面が空いたのを見て、受けた重さを返した。先頭の一体が畝の外へ転がり、もう一体の前脚へ兵の槍が入る。
盾が消えるのと同時に短槍を握り直し、胸へ次の火を呼んだ。
「開いた核を断つ。《青火纏い》」
兵が灰をはがした胸へ、青い穂先を通す。硬いものが割れて、灰が土へ崩れた。
転がった方の一体も、起き上がる前に二本の槍で押さえられた。遅れて坂を上ってきたセラが、息を切らしたまま鐘を鳴らす。押さえられた核がほどけて、灰はもう寄り直さなかった。
「今日はここまでだ」
ニルスさんが壁の上から言った。北の畑の奥に、まだ灰色の背が見えている。
門の内側へ入って扉が閉まると、セラが膝へ手をつき、兵も槍を杖にして息を整えた。僕は渡された水をセラへ回した。
「カイは、平気ですか」
「うん。まだ走れそう」
答えてから自分の胸へ手を当てた。鼓動は速いし、背中には汗も流れている。それなのに、いつもの息苦しさが来なかった。
◇
町へ戻ってから名簿を持ってレフさんの家を探した。
いたのはレフさんのお姉さんで、僕が名前を出すと戸を開けたまま横へ寄った。中には入らず、そこで話した。
「弟さんの火を送りました。送る前に触れて、見えたことがあります」
「教えてくれますか?」
僕は走っていた足のことと、靴の底が剥がれていたことを先に話した。
お姉さんは戸の枠へ肩を預けたまま聞いていて、靴の話の所で一度だけうなずいた。
「畑に三十二人いたと、知らせようとしていました」
うなずきが止まった。
「……三十二」
「はい。門が閉まる前に、壁の上へ知らせようとしていました」
お姉さんは戸の縁を握って、しばらく口を開かなかった。奥では誰かが鍋を動かす音がしている。
「あの日、門は数を知らないまま閉まりました。戻ってきたのは三十人です。町の帳面にそう書いてあります」
差は二人だ。ただ、レフさん自身がその数に入っていたのかは分からない。帳面の三十人と同じ人たちを数えたのかも、名前を見なければ決められなかった。
「戻った人の帳面と、照らし合わせたいです」
「倉にあります。明後日なら、案内できます」
「レフさんが伝えようとした人数を、その時、倉の帳面にも残してもらいます」
書き足しても、帰らなかった人が戻るわけではない。それでも、レフさんが知らせようとした数を、僕の帳面の中だけにしておきたくなかった。
お姉さんは戸の縁から手を離した。
「弟が持って帰ったんですね」
「はい。遅くなりましたけど」
「あの子が遅かったわけじゃありません。あそこまで走ったんですから」
言い直されて、僕は帳面を開く手を止めた。
三十二と書いて、その横へ、レフさんの火で見た数だと書き足した。
◇
その夜、帳面へ三つ並べて書いた。
――ホルクさんの火に触れ、その後で送った。坂で、二人がかりの袋を一人で背負えた。
――楔が外れて戻り始めた石を、肩で止めた。袋を背負った時と似た力が出た。
――レフさんの火に触れ、その後で送った。柵から門まで坂を走り続けても、いつもの息苦しさや足の重さが来なかった。
袋と石を支えた力はよく似ていた。二度ともホルクさんを送った後に出た。今日の坂で違ったのは、重さを押す力ではなく、足を動かし続けられることだった。
ホルクさんは石臼を一人で担いだ人で、レフさんは一日に四度あの道を往復した人だった。
生きている間に繰り返していたことが、体へ残るのだろうか。
袋一つなら思い違いにもできた。でも、石を止めた肩には同じ力が来た。二度出たのなら、もう思い違いではない。
向かいで鐘の布を畳んでいたセラに、三行を見せた。
「送った火から、何かが残っている気がするんだ」
セラは三行を読んで、袋と石の行へ二度、目を戻した。
「院では、送った火はほどけて空へ上がり、それきりだと教わります。何かが残るとは、聞いたことがありません」
「僕も、そう思っていた」
セラは指で、ホルクさんの行とレフさんの行の頭を順に押さえた。
「どちらも、カイが触れてから送った火です。ほどけていく途中で、カイの方へこぼれたものがあるのかもしれません」
こぼれる、という言い方が、胸の中でしっくり来た。
「なら、零れ火、かな」
「こぼれび」
セラが声に出して繰り返した。
「名前があれば、次に何か起きた時、同じ欄へ書けます。残ったものと、残らなかったものを並べられますから」
僕はうなずいて、三行の上へ名前を書いた。
――《零れ火》。
火そのものは送り終えているのに、僕の体の方へその人の力がこぼれて残る。仕組みを言い当てた名ではないけれど、今の僕にはその呼び方が一番近かった。
その下へ、まだ確かめていないことを書いた。
――力が残る時と、何も感じない時は、どこが違うのか。
――標章の火は、まだ送っていない。
レフさんの足は疲れても前へ出ていた。門まで走った僕の足にも、あの人から何かが残ったのかもしれない。
明後日は、お姉さんと倉へ行く。三十二と三十の差が誰なのか、今はまだ名前を一つも書けなかった。




