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名もなき英雄の残火 ~死者の技を継ぐたび、少年は強くなる~  作者: 冬月樹
第一部 青い火の古戦場

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第六十二話 十のあいだに

 朝になっても、壁の上には夜からの見張りが残っていた。昨夜の評定で決まった通り、町は壁の内側へ閉じこもる支度を始めている。交代の兵が北と東の壁へ上がり、東の橋へ運ぶはずだった材木は補修方の物置へ戻されていった。広場には汲み置きの水桶が並び、門に近い囲いにいた人たちが、荷を抱えて町の奥へ移っていく。


 墓喰らいは石列の荒れ地へ下りたきり、壁の上からは姿が見えていない。あの足で町へ向かってくれば、次に逃げるのはここにいる人たちだ。


 ニルスさんは門前へ兵を集め、ガランさんは壁から届く合図を確かめていた。僕もそちらへ向かいかけたが、扉を下から支えた二本の腕を思い出して足が止まった。


 墓喰らいは僕の盾と同じ姿勢で重さを受け、そのまま外へ出てきた。同じ形をもう一度出して、今度は何を変えられるだろう。


 答えの出ないまま門を見ていると、そちらから戻ってきたザハルさんが僕の前で足を止めた。


「カイ。門を見ていても、外へ探しには行かせんぞ。今日は兵も出さん」


 僕は首を横に振り、抱えていた《灯名帳》を開いた。門番の記憶を書いたページには、荷車の下に子どもが二人、そばに老人が一人とある。


「町に残って、古い記録を調べたいです。盾を残した人が守ろうとした三人の、その後を」


「昨日まねられた盾か」


「はい。形は使えても、あの人が何を守れたのか、僕はまだ知らないんです。墓喰らいにできなくて、僕にできることは何かを考えました。まねられるのは見た形までで、盾を残した人がどんな思いで何のためにあの盾を立てたのかは、見ただけでは分かりません。その思いまで分かって出す盾なら、同じ形でも、墓喰らいのまねとは違ってくると思うんです」


 記憶の中の門番は、残された三人へ立ち戻ろうとしていた。そこで終わったと思っていたけれど、僕が見たのはあの人の最期だけだ。ホルクさんの娘が生きていたように、その後を知っている人や記録があるかもしれない。


 盾が立てられた背景を知れば、この技への理解も、今より深まるはずだ。


「記録庫を調べてくれ。そちらは頼む。門から呼びが来たら、すぐ戻れ」


 ザハルさんは通りを空けさせるため広場へ戻った。ガランさんたちが門で備えている間に、僕は僕にできることを進める。


 記録庫の戸口では、鍵を持つ老人が避難先の控えを兵へ渡していた。その人が出るのを待ち、僕は帳面に描いた門と坂を見せた。


「戦の年に、ここから逃げてきた人の記録はありませんか。荷車が倒れて、老人と子ども二人が残されたんです」


「それは誰に聞いた」


「門を守った人の残火で見ました。その後に助かったかを知りたいんです」


 老人は図の坂を指でたどってから、棚の奥へ目を向けた。


「古戦場の方から来た者の控えならある。場所の書いてある分を出してみよう」


 最初の板には荷車のことがなく、次の束には人数しか残っていなかった。通りを走る足音がするたび顔を上げたが、呼びの声は来ない。僕は調べ終えた板を元の順に戻し、老人が次を出す場所を空けた。


 昼近く、端の焦げた板と同じ日の控えが見つかった。上には戦の年と避難民を受け入れた日の印が刻まれている。


「こっちは門で付けた分、その隣は囲いへ着いた分だ」


 僕は二枚を窓の下へ並べた。門番の火で見た、坂を下る荷車を思い浮かべながら、薄くなった字を追い始めた。


 名前の右には囲いの番号が並んでいる。下へ行くほど字の間が詰まり、最後のまとまりの後へ横線が引かれていた。線の脇には、門が破られたと短く刻んである。


「ここまでに来たのが、三十一人ですか」


「消した行を除けばな。子ども二人も入っておる」


 数え直した指が、線のすぐ上で止まった。ヨナという名前に線が引かれ、横に「重」と添えてある。その後ろには名前のない子どもが二人。同じ囲いの番号が付いていた。


「ヨナさんは、上にもいますね」


「二度書いたと思って消したんじゃろう」


 一度入った人が戻ったのかもしれない。そう思ったが、同じ名の別人や書き間違いもあり得た。僕は隣の、囲いへ着いた人の板を読み始めた。


 同じ番号の欄にヨナがいた。その下の小さな字を追ううち、板を押さえる指に力が入った。


「子二人を運ぶ。門内の坂、車輪の折れた荷車から……」


 老人が板を窓へ向けた。薄くなった文字の続きが、横からの光で読める。


「老人一人、運べず。ゲルド。あとで遺体を確かめた、とある」


 門番の記憶にあった荷車も、車輪が折れていた。坂の途中に老人が倒れ、荷台の下で子どもが二人泣いていた。場所と人数だけでなく、荷車の壊れ方まで重なっている。


「僕が見た荷車かもしれません」


 老人に帳面の図をもう一度見せ、十を数え終えて振り返った時にも三人は坂に残っていたと伝えた。


「なら、運んだのはその後じゃな」


 僕は二枚の板を見比べた。先に囲いへ着いていたヨナが戻り、子ども二人を連れてもう一度入った。門の板だけなら消されていた一行に、囲いの板には帰って来た理由が残っていた。


 十を数え終えた後にも、あの子たちは生きていた。


「写してもいいですか。両方とも」


「持っていけとは言えんが、写すのは構わん。薄い字は、こっちで確かめてやる」


 ヨナと子ども二人の記録を写し、ゲルドの行も省かずに続けた。全員が助かった話にはできない。それでも、誰も助からなかったと思ったままにはしておけなかった。


          ◇


 その夜、セラと机を囲んで二枚の写しを広げた。僕が記憶にあった坂と荷車を説明する間、セラは囲いの控えへ指を添えて聞いていた。


「子どもたちは、門を破られた後に運び出されたんですね」


「うん。あの人が見た時には、まだ助かっていなかった。でも、その後があった」


 門番は十の後で振り返り、残された三人を見た。そこから先へ手を伸ばそうとして、傷ついた腕が動かなかった。僕が受け取ったのは、盾を立てる前に振り返らなかった後悔だった。


「ヨナさんが戻れたのも、門で敵を止めていた間に、先に囲いへ着けたからかもしれない」


「そこまでは書かれていません。でも、お二人が助かった記録はあります」


 うなずいて、推測を書いた行と救助の記録を分けた。記録にある三十一人へ、ヨナをもう一人と足すこともしなかった。同じ人が二度通ったのだから。


 最後に門番へ伝えたいことを、自分の言葉で書いた。


 ――子ども二人は、あの後で助け出された。あなたが十のあいだ守った人たちは、その先でも生きていた。


 胸の奥で、火が静かに広がった。


 息を止めずにいられたのは、痛みがなかったからだった。記憶を思い返すたび肩へ重なった、もう一度盾を上げようとする感触が薄れていく。手は机に置いたままなのに、胸の中では何かを下ろせた気がした。


「カイ?」


「門番の火が、変わった気がする」


 セラが写しから顔を上げた。僕は肩を動かしてから、まだ空いているゲルドの行へ目を戻した。


「この人のことも、忘れずに残す」


「はい。助かった方と同じように」


 目を閉じると、胸に収まった門番の火の輪郭が前よりはっきりしていた。明日はこの火を灯そうと思い、写しを《灯名帳》へ挟んだ。


          ◇


 翌朝、東の見張り台から声が下りた。


「灰の獣が一体。坂を下りてきます」


 門の脇へ上がって見ると、四本脚の獣が町へ向かっていた。前脚の付け根には灰の薄い筋がある。ニルスさんもそれを見て、門に残した四体の一つかもしれないと言った。


「ほかは」


「見える範囲にはいません。大きい方も姿なし」


 ガランさんが見張りへ手を上げ、ニルスさんを門前へ呼んだ。僕も階段を下りて追いつく。


「僕が受けます。セラが送れるように、ここで止めたい」


「門のすぐ前までだ。ニルス、両脇を押さえろ。俺は上から次が来ないか見る」


 門の番兵が通り道を空け、僕たちの後ろの戸を細く残した。ニルスさんと兵二人が左右へ分かれ、セラは僕の後ろで鐘を出す。外の仕事を再開するためではなく、町へ近づいた一体を迎え撃つ配置だった。


 坂を下りきった獣がこちらを見つけた。灰の背が低く沈み、次の瞬間には土を蹴っている。逃げ込む戸口を背に、僕は両手を開いた。


「セラを守る。《退かぬ盾》」


 青い面へ爪がぶつかり、一本目の線が光った。


「一つ、二つ」


 後ろへ残りが分かるよう、いつもの速さで声に出す。三つ目を数える間にも爪は二度当たった。けれど肩へ抜けるはずの重さが来ない。打たれるたび、盾の面の奥へ青が重なっていった。


 足は地面から動かなかった。両脇では兵の槍が獣を横へ回らせず、セラが鐘を握ったまま音を重ねる機会を待っている。


「六つ、七つ」


 獣が両前脚を盾へ掛けた。重さを受け止めた青が内側から膨らみ、手のひらへ押し返す感触が来る。耐えて抱え込むだけだった面の向こうへ、今ならこの重さを押し出せる。


「セラ、後ろへ。返す」


 八つ、九つ。戸口へ下がる足音を聞きながら数えた。青い面が裂ける直前、十と声にしたところで両手を前へ押し出す。


 盾の奥にたまった重さが、一度に外へ抜けた。


 爪が離れ、灰の獣が坂の下へ跳ね飛ばされた。地面へ落ちた背から灰が大きくはがれ、起き上がろうとした首をニルスさんの槍が押さえる。もう一人の兵が前脚を崩した。


「セラ、今だ」


 ニルスさんが押さえたまま呼ぶと、鐘の音が開けた場所へ響いた。はがれた灰の下で黒いものがほどけ、音を重ねるうちに寄り集まろうとした灰も土へ散っていく。


 僕は足を動かし、消えた盾のあった場所へ手を伸ばした。肩は痛まない。両腕を上げても、途中で力が抜けなかった。


「送れました」


 セラの声に、穂先を上げた兵が息を吐いた。階段を下りてきたガランさんは、獣の消えた地面より先に僕の腕を見た。


「今のは、お前がやったのか」


「はい。盾にたまった重さを、そのまま獣へ跳ね返せました。そのおかげか、肩にも来ていません」


 ガランさんが僕の肩へ手を置いた。押されても痛まず、僕はその手を見上げてうなずいた。


「受けて終わりじゃなくなったな」


 水路の底で、一本だけ残った線を思い出した。あの時から、門番の火は受けた重さの行き先を探していたのかもしれない。抱え込めば、重さは最後に僕の肩へ落ちてくる。前へ返せば、守った人たちだけでなく、盾を出している僕まで守られる。


 門番の人が最後に持ち上げようとした盾を思い出した。僕の手は、今は前へ出せる。その先でニルスさんたちが押さえ、セラが送り終えていた。


 十を数えるあいだに受けて、返す。


「《十返し(とおがえし)》」


 声にした名を、セラが小さく繰り返した。門へ戻る足に並びながら、包み直した鐘を胸へ抱える。


「畑に残した二つも、送りたいです」


「うん。墓喰らいがどこにいるか、先に確かめよう」


 開けて待ってくれていた戸口をくぐる前に、僕も一度だけ東を見た。壁の上では、見張りがまだそちらを向いている。扉を支えたあの姿勢を、墓喰らいは僕から覚えた。受けて返すこの形は、まだ見せていない。見せた後にあれが何を覚えるのかは、分からなかった。

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