第六話 昼に燃える青
本日1話目です。
白喰いは鐘の下で昼まで暴れ続けた。
鐘を持ち上げれば、また誰かが襲われる。かといって、あのまま何日も閉じ込めておくわけにもいかない。
父さんは僕を広場から離し、家へ帰した。だから、その後のことは見ていない。遠くで一度だけ鐘が揺れ、それきり、白喰いの暴れる音は聞こえなくなった。
後で聞いた話では、ダリオさんたち猟師が鐘の縁の隙間から槍を差し入れても、穂先は灰に阻まれて奥まで通らなかったという。それなのに昼を過ぎた頃、鐘の中の白喰いは急に動かなくなった。鐘を持ち上げると、白い灰が山になって残っているだけだった。誰がとどめを刺したわけでもない。なぜ崩れたのかは、猟師たちにも分からなかった。
怖い魔物だった。それでも、動かなくなってよかったと喜ぶ気にはなれなかった。家へ戻ってからも、鐘の下からは昼まで、苦しむような鳴き声が途切れ途切れに届いていた。人を食べる魔物だと分かっていても、あの声を何も感じずに聞けたわけではない。
藤代明人の記憶が戻ったせいかもしれない。けれど、十二歳になるまでの僕だって、きっと同じ気持ちになったと思う。
母さんは、そんな僕へ温かいスープを出した。
「食べられる時に食べておきなさい」
「父さんたちは?」
「鐘楼の片づけ。北の見張りも増やすそうよ」
左足の痛みは、家へ戻る頃には消えていた。背中の傷も開いていない。スープを飲み終えると、僕は帳面へ鐘楼で起きたことを書き足した。
――一度に見える足跡は三つだけ。続けて二度目を使うと、左足が痛む。
――ほかの人は青い足跡を見られない。声で伝える必要がある。
書いてみると、分かっていないことの方が多かった。
何を安全と決めるのか。誰のための道を探せるのか。痛みは使った回数で決まるのか、それとも距離なのか。
試せば分かるかもしれない。けれど、わざと二度目を使って痛みを確かめても、限界を知る前に足を傷めるだけだ。
(白喰いに追われながら試すのは、二度とごめんだ)
今は、分からないと書いておけばいい。
空いた場所へ、鐘楼で使った順番も簡単に描いた。井戸、荷車、石柱。三つの足跡を一本の線でつなぐ。
前の僕なら、頭の中で覚えておけば十分だと思ったかもしれない。けれど斥候の名前が残らなかったことも、資料館で古い手紙を記録していたことも、もう思い出してしまった。今は、書かずに済ませる方が落ち着かない。
帳面を閉じた時、戸の外が騒がしくなった。
◇
外へ出ると、東の山道を見に行ったロイさんが、泥だらけで広場へ戻ってきた。
「東の山は、村よりずっとひどく降ったらしい。谷川があふれて、水を吸った斜面が道ごと崩れてる。橋脚が一本、谷へ持っていかれて、上の板も一緒に落ちた。橋は途中で切れてる。町へは行けん」
ロイさんの服は膝まで泥にまみれ、肩には濡れた小枝が引っかかっていた。谷川沿いの木には、ロイさんの背丈より高い所まで草や枝が残っていたという。東の山へ降った水が狭い谷へ集まり、濁流になった跡だ。
広場へ集まった大人たちの顔が曇った。ルカ村から山向こうの町へ行くには、東の谷にかかる橋を渡る。薬や鉄の道具、冬を越すための塩も、その道を通って運ばれてくる。村で干した薬草も、同じ道を下って町へ届けている。
今すぐ食べ物がなくなるわけではない。各家には冬用の穀物があり、井戸の水も出ている。ただ、時期が悪かった。
村で誰かがけがをしたり病気になったりすれば、薬が要る。鐘楼を直すには鉄の金具も必要だ。何日も町との道が閉じれば、村で作れない物から足りなくなる。薬や塩が尽きれば、やがて命に関わる。
「直すのにどれぐらいかかるか分かるか?」
オルバン村長が、ロイさんへ尋ねた。
「崖だけなら三日。橋は柱を立て直さんと渡れん。向こう側からも人手が来なきゃ、どれだけかかるか分からん」
「そうか……。町へ知らせる方法を考えながら、まずは村側だけでできる所から始めよう」
ロイさんが強くうなずいた。
北には古戦場があり、東の道は崩れた。西と南は高い山に囲まれている。
村は、外から切り離されていた。
広場の端で話を聞いていた人たちが、不安そうに家族と顔を見合わせる。白喰いの脅威が去ったばかりなのに、安心する時間さえなかった。
「ワシの家の倉を使おう。食料と薬を確かめたら、夜の見張りを二人一組で始める。ワシも最初に入ろう。地下道は日暮れまでにふさぐ」
オルバン村長は腰の鍵束から倉の鍵を外し、そばにいた村人へ渡した。見張りの組み合わせを決める時にも、自分の名を最初に挙げる。大人たちも、それぞれの役目へ動き始めた。
村長の倉は、各家で保管しきれない穀物や薬草を預かるため、普段から村人に開かれている。中には町で術式を刻んだ乾燥板があり、湿気から中身を守っていた。村長自身は魔術師ではないから、乾燥板の修理はできない。今回は道が戻るまで食料と薬を長く持たせるため、村中から必要な分を集め、その倉へ保管することになった。
家へ戻ろうとした時、広場の隅に白い灰が残っているのを見つけた。
白喰いを鐘の下から運び出した跡だ。
灰の間で、小さな青い火が燃えていた。
一つではない。
指先ほどの火が、いくつも灰から浮かんでいる。そのうちの一つが灰を離れ、風に逆らって古戦場の方へ流れていった。
それぞれ燃え方が違う。すぐ消えそうに震える火もあれば、細くまっすぐ伸びる火もある。二つに分かれ、また一つへ戻る火もあった。
白喰い自身の願いには見えなかった。あの獣の中へ閉じ込められていた別々の残火が、一つずつ逃げていく。
真昼だった。
太陽は雲の切れ間から広場を照らしている。それでも青い火は消えず、周りを照らさないまま、はっきり見えた。
「父さん」
落ちた鐘の周りを片づけていた父さんを呼ぶ。
「青い火がある。白喰いの灰から出てる」
父さんは僕が指した場所を見た。
「俺には灰しか見えない」
「今も一つ、古戦場の方へ流れていった。灰にはまだ三つ残ってる」
父さんの表情が変わる。
「昼間にも出ているのか。しかも、動いている?」
「うん。灰から離れて、北へ流れていく」
「帳面には、残火は日が落ちてから燃え、死んだ場所に留まると書いてあった。どちらも違う」
父さんは古戦場の方角を見たまま、しばらく黙っていた。
「帰ったら、帳面を最初から調べ直す。お前も一緒に見るか?」
「うん。読めない字は教えて」
「俺にも読めない字があったら、一緒に母さんへ聞こう」
父さんは冗談ではなく言った。母さんは村に残る古い薬草帳を読むため、今では使わない形の文字まで覚えているそうだ。父さんも古い灯守の帳面で読めない字を見つけるたび、母さんへ尋ねている。
青い火を目で追うと、広場の外にもいくつか浮かんでいることに気づいた。墓地へ続く道から北の柵、その向こうの古戦場まで、いくつもの火が続いている。
昨夜ほど多くはない。それでも、日の高い時間に消えずに燃えている。
白喰いが日のあるうちに古戦場の奥から出たことと、関係があるのだろうか。
今は考えても答えは出なかった。
その時、鐘の落ちた鐘楼の根元で、別の青い火がともった。
ほかの小さな火より大きく、鐘楼の土台に使われた古い石へ張りついている。
一度、強くなる。
少し弱まり、また強くなる。
僕は無意識に数えた。
一つ、二つ、三つ。
青い火は、きっちり十回脈を打った。
一回目から十回目まで、間の長さも同じだった。誰かが声に出さず、正確に数を刻んでいるように見える。
十回目が消えかけた時、胸の奥に短い感情が届いた。
後ろを、確かめたかった。
それだけだった。
逃げたいという願いでも、誰かに助けてほしいという訴えでもない。
(どうして最後に、後ろを確かめたかったんだろう)
触れれば、その人の最期が流れ込んでくる。
僕は右手を握り、青い火から一歩離れた。昨日のように追い詰められているわけではない。今度は父さんと母さんへ話し、自分で考えてから触れるべきだ。
新しい残火は真昼の広場で、僕以外の誰にも見つけられないまま燃えていた。




