第五十九話 届かない刃
鳴りやんだ鐘の向こうから、土を蹴る音が押し寄せてきた。ついさっきまで火を送って回っていた畑を、九体の灰の獣が走ってくる。
「畝を越えさせるな」
ガランさんの声でニルスさんたちの槍が並んだ。僕はセラを小屋の石壁へ寄せ、短槍を両手で握り直した。隣に残る二つの火は静かなままで、その前へ灰色の頭が近づいてくるのがどうしても嫌だった。
先頭の一体が畝の切れ目から跳んだ。ガランさんは剣を振り上げず、体を横へ逃がしながら足元の縄を引いた。前脚を取られた獣が土へ突っ込み、すぐ後ろの一体までその背へ乗り上げる。
倒れた。そう思ったのは一瞬だった。崩れた灰は土に落ちる前から集まり、獣の脚がもう伸び始めている。けれどガランさんは、起き上がるのを待ってはいなかった。
「ニルス、押さえろ」
三本の長槍が、重なった二つの頭を畝の方へ押し戻す。その横から抜けようとした脚へ、ガランさんの左手が伸びた。短剣が関節に差し込まれ、脚を引き損ねた獣が肩から傾く。灰が刃をのみ込んだ時には、ガランさんはもう相手の背を回っていた。
核には届かない短剣だった。それを置いていった場所で獣がつまずき、後続まで同じ切れ目へ詰まっている。
「出たぞ、置き刃だ」
長槍の列から声が上がって、押さえている兵が短く笑った。抜かずに残した刃で相手をつまずかせる。町兵のあいだでそう呼ばれているのを、僕はこの日初めて聞いた。
「左、半歩引け」
兵が足を引くのと、そこへ別の前脚が伸びるのがほとんど同時だった。ガランさんが脚を払い、兵の槍が崩れた肩を押さえる。獣は起き上がるたびに頭をそらされ、こちらへ走り出す形に戻れない。
村で木剣を持って向き合った時も、僕の木剣は何度もあの足さばきにかわされた。今はその前に九体もいるのに、ガランさんの足は急いでいるように見えなかった。剣を振る隙を待っているのかと思ったが、その足に目が追いつかないのは僕の方だった。
畝の外を走る背に気づいたのは、石壁の切れ目へ頭が入る寸前だった。ガランさんは二体を押し戻していて、父さんも反対側の獣へ鉤棒を掛けている。誰かがこちらへ回れば、空いた所から別の一体が抜ける。
「セラ、僕の後ろへ!」
小屋へ戻るセラを横目に隙間へ立った。青い火の浮いている所を、爪に踏ませたくなかった。両手を開くと、胸の門番へ頼む言葉は迷わず出た。
「ここは通さない。《退かぬ盾》」
青い面が広がるのと、爪がぶつかるのは同時だった。重さが腕を抜けて両肩へ落ち、食いしばった歯が鳴った。戻った爪がすぐに来る。二つ、三つと線が光っても獣は離れず、四度目には顔の前で大きく口が開いた。膝が折れかけたのに、足の裏は土を離さなかった。どこにそんな力が残っていたのか、考える暇はなかった。
青い盾越しに歯が見えた。息の仕方を忘れそうになり、僕は声を出して五つ目を数えた。
その首が横へ流れた。
盾の脇から長槍が入り、灰色の頭を押し上げていた。助かったと思って腕を下げかけると、ニルスさんの声が飛んだ。
「そのままだ! 後ろを通す!」
僕は歯をかみ合わせ直した。足は動かせないし、肩も痛い。それでも正面の爪が離れたぶんだけ、横に立つ兵の顔が見えた。その人がうなずく後ろを、父さんに連れられたセラの白い袖が通った。
「町側の溝へ下がれ」
ガランさんの指示で槍が一本ずつ退いていく。抜けた所へ頭が入る前に、ガランさんが剣の腹でそらし、兵が下がれば自分も半歩退く。足を滑らせた一人が膝をついた時には、その肩をつかんで引き起こしながら別の獣を蹴り戻していた。
僕の盾の前へも、爪が何度か伸びかけた。けれど今度は溝まで下がった兵が長槍を差し入れ、触れる前に追い払ってくれる。五本目まで光った線の向こうで土が跳ね、頬に当たった。父さんが対岸から手を伸ばしているのが見えた。
「そこで待て。俺が行く」
ガランさんが僕の横へ来た。剣の腹で頭を払い、空いた胸へ兵の槍が入る。
「引け!」
後ろを通す人は、もう通り終えていた。盾を消すと両腕が急に重くなった。それでも柄を握り直して走り、父さんの手を借りて溝を跳んだ。着地した足の横へガランさんが下り、振り返った先には、追ってくる頭と、それを迎える三本の穂先があった。
誰も小屋の側に残っていない。僕はセラの横へ並び直し、役目を終えた門番の火から次の火へ呼びかけた。
「次は、あなたの番だ。《青火纏い》」
赤黒い穂先を青い火が包んだ。槍を持ち直した手へ刃の向きが伝わり、肩の痛みよりも先に跳んでくる一体が目に入った。
ニルスさんの槍が横腹を押した。獣は岸へ前脚を掛けたまま首を伸ばし、薄い灰の下に核へ続く細い胴がのぞいた。
届く。
脇から突き入れた穂先が灰を割り、奥の核に当たった。硬いものが砕ける手応えが柄を伝い、引き抜いた後を青い火が追う。頭も脚も形を失い、さっきまで爪のあった所へ乾いた灰が降った。
「一つ!」
父さんの声に次の跳躍が重なった。今度はセラの鐘が鳴り、浮き上がった灰の奥から胸が現れる。こちらを向くはずだった頭は、着地の先で待ち構えていたガランさんの方へ動いた。
穂先の前が開いた。
一歩踏み込み、見えている所へまっすぐ突いた。引き抜くより先に獣の膝が折れ、二体目が溝の縁へ崩れる。僕は倒れる姿を追わず、右から伸びてくる頭へ短槍を戻した。
「父さん、右!」
「分かった!」
鉤棒が岸へ掛かった前脚をさらった。首だけを突き出す形になった獣へ穂先を下げ、付け根へ押し込むと、灰の奥で核が割れた。三体目の灰が溝へ落ちた時、刃の先で青い火が細く揺れた。
腕へ肩の痛みが戻ってきた。もう一度構えた槍が思った高さまで上がらず、ガランさんが僕の前へ足を入れた。
「まだ突けるか」
「あと一度なら。でも、火が弱くなっています」
「なら残せ。追ってくる奴に使う」
「鐘を、もう一度いいですか」
セラが聞くと、ガランさんは溝の向こうの獣ではなく、こちら側の兵を見た。
「鳴らせ。二人、穂先を低く構えろ」
鐘の音が溝を越え、縁で足を並べていた二体の背から灰が浮いた。浮いた所へ入った長槍は、さっきまでと違って前脚の付け根で止まらない。
押し込まれた一体が前のめりに落ち、四本の脚のうち二本が伸びたまま動かなくなった。もう一体も同じ所で崩れる。
「核は、潰れていません」
崩れた灰の奥で、青は同じ強さのまま灯っている。壊せてはいない。
「潰さんでいい。立たんなら、それで済む」
剣を下げたままのガランさんは、落ちた二体の脚の向きだけを確かめていた。
まだ前へ出られると思った。三体とも刃が届いた感触が手に残り、次も同じように突けそうだった。けれど柄を握り直すと小指が震え、穂先の火はもう元の太さへ戻らなかった。
僕は穂先を向け直した。溝の対岸では四つの頭が左右へ動き、跳ぼうとするたびに長槍がそろう。ここまでの幅は人でも一歩で越えられる。それでも飛び込んだ三体が戻らない岸へ、すぐ続くものはいなかった。
ガランさんに合わせて少しずつ下がった。火が消えても柄は下ろさなかった。獣が横へ寄れば兵も向きを変え、父さんが用水沿いに門へ合図を送る。開いた戸を確かめた時、セラだけが小屋の方を振り返った。
石の内側には、送りかけた火がまだ残っていた。その奥にももう一つ見える。
「二つ、置いていきます」
「崩した二体は、どうなる」
ニルスさんに聞かれて、セラは首を振った。
「潰さないかぎり、灰はまた形を探します。でも今日はもう、あちらへは行けません」
セラはそれだけ言って鐘を包んだ。僕も返事をしたが、もう一度あちらを見てしまった。さっきは踏ませたくなくて盾を出したのに、今は自分から離れていく。
父さんの手が僕の背へ触れた。
「帰るぞ」
布を巻いた鐘を抱え、セラが待っていた。僕はその横へ戻った。
◇
七人が門をくぐり終えると、戸が閉まる音が背中に響いた。短槍の石突きが石畳へ落ち、ようやく自分がまだ柄を握りしめていることに気づいた。
父さんに槍を取ってもらい、壁際へ座った。器を差し出されても片手では上がらず、両手で持つと今度は肩が痛む。セラが底を支えてくれる間に、僕は少しずつ水を飲んだ。
「盾は五度か」
ガランさんが目の前へ片膝をついた。うなずくと、今日はもう武器を持たずエルナさんに診てもらえと言われた。立ち上がったガランさんの左の腰に短剣がなく、あの灰に埋まった刃を思い出した。
「短剣、置いてきたままです」
「ああ」
「大事な物じゃないんですか」
ガランさんは空いた鞘へ手を置いたが、外を振り返らなかった。
「使うために持ってきた。今日あそこで使った。それだけだ」
その横でニルスさんが槍を壁へ預けた。膝をついた兵も戻っており、破れた服の土を払っている。短剣を取りに戻っていたら、あの人を引き起こす手も間に合わなかったのかもしれない。
今日は、僕の火が先に細っても、戦いは止まらなかった。
「四体、まだ溝の向こうです。二体は崩れたままで、立っていません」
上から届いた報告にガランさんがうなずいた。剣を鞘へ戻す姿を見ていると、僕たちの前で何度も向きを変えていた灰色の頭が浮かんだ。僕が突いた胸は、ガランさんが頭の向きを変えた後に開いた所だった。
「僕にも、あんなふうにできますか」
聞くと、ガランさんは僕の短槍へ目をやった。
「今日は三つ、逃さなかったな」
「出してもらった所を突いただけです」
「それができたなら、次を教えられる」
僕はもう一度顔を上げた。肩が痛くて槍も持てないのに、今すぐ立ちたくなった。見抜いたようにガランさんが手を上げ、父さんは僕の短槍を自分の鉤棒と一緒に抱えた。
「まず休め」
今度は素直にうなずけた。門の外には二つの火が残っている。あそこへもう一度行くために、ガランさんから覚えたいことが、今日一つ増えた。




