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名もなき英雄の残火 ~死者の技を継ぐたび、少年は強くなる~  作者: 冬月樹
第一部 青い火の古戦場

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第五十八話 送りに出る日

 東門の上から合図が下りると、ニルスさんが僕の図を畳んで返してくれた。


「まず畑の縁、次に小屋だ。柵と道の脇は今日は回らない」


 昨日ザハルさんが外の火へ回すと決めた半日を、今朝の見張りの報告で使えることになった。灰の獣は北の石囲いの向こうにおり、畑までの道には姿がなかった。


 畑の七つと小屋の三つなら近い場所を続けて回れるが、柵まで広げれば鐘を鳴らす間も守る範囲が変わってしまう。僕は今日行く十の点を確かめ、折り目が火の位置を隠さないよう紙を帳面へ挟んだ。


 ガランさんを先頭にニルスさんと兵二人が付き、父さんは縄と音具を持って後ろへ回る。僕とセラを入れて七人が並ぶと、門の内側にいた人たちが通り道を空けてくれた。


「僕は場所を言います。次へ動く時も、先に知らせます」


「昨夜、何を選んだ」


 片手剣の柄へ手を置いたガランさんに聞かれ、僕は胸に残る門番の火を確かめた。


「盾です」


「なら、俺の後ろが空いた時に頼む」


 うなずいてから、鐘を持ったセラとの間を一歩だけ詰めた。今日は火へ近づく道も、そこに立っていられる時間も、大人たちが守ってくれる。


「群れが動いたら、すぐ知らせろ」


 ニルスさんの声に壁の上の兵が手を上げ、門の脇の術者が柱へ触れた。開いた戸の隙間を抜けると足元が石から土へ変わり、背後には門を閉じる重い音が響いた。


          ◇


 畑には葉を失った茎が倒れ、踏み荒らされた畝の間に乾いた足跡が重なっていた。壁から一列に見えた火も、近くへ来ると少しずつ畝をまたいで離れている。僕は折れた柵を目印に図を持ち直し、いちばん手前の火を指した。


「ここです。胸の高さにあります」


 セラが僕の横で鐘を上げる間、ガランさんは北へ顔を向けたまま剣の柄から手を離さなかった。一度目の音で青い輪郭が緩み、二度目でほどけた火が三度目には見えなくなった。見えていた場所へ思わず目を凝らしたが、空いた所には向こうの畝だけが残っていた。


「送れました」


「では、次を教えてください」


 六歩ほど北にある点を示すと、兵の一人が先に畝の切れ目へ移って足元を確かめた。僕たちが通るのを待つあいだ、その人は今送った火のあった方へ小さく頭を下げた。


 その人には何も見えていないのに、僕がそこにあったと言ったから頭を下げている。僕の言い方がそのまま場所になるのだと分かって、次からは畝の何本目かまで添えて伝えた。


 セラが音を重ねるたびにニルスさんは北と壁の上を見比べ、合図を返してから次へ進ませた。四つ目を送り終えたところで、セラが鐘の柄を握り直した。


「少し休もう。指、痛む?」


「痛みはありません。ただ、続けて鳴らしたので」


 僕の視線に気づいたセラが手を開くと、指の付け根には柄を押さえていた跡が付いていた。


 ニルスさんへ声を掛け、兵が立つ畝の内側で父さんから水を受け取った。門はすぐに見えるのに、鐘が止まると風の音が急に近くなった。


「残りは、まだありますね」


 水を返したセラが畑の奥を見たので、僕も図を開いて残る印を確かめた。


「あるよ。でも、今ここで休んでも無くならない」


「次に出る日まで待たせずに済むなら、送っておきたいんです」


 そう言う指はもう自然に曲がっていたが、ニルスさんの合図が来るまで二人とも立たなかった。父さんが畝の向こうを見に行き、戻ってから五つ目へ進んだ。


 五つ目の火が消えた先には、木の小屋へ続いていたらしい踏み固められた土があった。その端に浮く六つ目の火を見て、僕は鐘を上げようとするセラへ声を掛けた。


「ここは、あの人がお父さんを残したと言っていた場所だと思う」


 ホルクという名を図の横で確かめたが、目の前の火がそうだとはまだ言えなかった。近くに戸の板が残っていないか見ても、倒れた木と土が重なっているだけだった。


「送る前に触らせて。何か見えたら、戻ってから伝えたい」


 セラは鐘を下ろし、ガランさんがこちらへ目を向けるのを待った。


「俺たちは動かん。戻ったら、まず声を出せ」


 父さんがすぐ隣へ来たのを確かめてから、僕は青い火へ指を入れた。


          ◇


 娘の背中が、戸口から畝の間へ飛び出していった。


 後ろを見るな、と叫んだ声が、自分の喉で割れた。戸を引いて閉める。木を挽いて自分で立てた戸だが、閂は付けていない。夜に獣が来るような畑ではなかった。


 土間の隅に、粉をひく石臼が据えてある。


 両腕を回して持ち上げ、肩へ担ぎ上げた。若い頃に町から一人で運んできた臼だ。あの日と同じ所へ重さが乗り、腰がその下へ入る。三歩で戸の前まで運んで、板へ寄せて下ろした。


 息が整う前に、戸が外からたたかれた。


 臼が土の上をずれ、板が内側へたわむ。薄い板へ回した両手が、外からぶつかる重さを受けて震えた。節の太い指が板の縁へ食い込み、肩を当てて押し返すと、開きかけた隙間がいったん閉じる。


 二度目は、臼ごと押し戻した。七十をいくつか越えても、腕はまだ押し負けていなかった。


 戸の下の隙間からは畝の間を走る足が見え、土を蹴るたびに裾が左右へ振れている。娘がまだ走っている。


 三度目に外のものがぶつかった時、踏ん張った膝の方が先に鳴った。腕はまだ動く。膝が戻らない。それでも板から手は離れなかった。


 まだ走っている。


          ◇


 乾いた土の上へ戻ると、伸ばしたままの指を父さんがそっと下ろしてくれた。僕の目の前には板も戸もなく、青い火が触れる前と同じ高さに浮いていた。


「カイ、どこにいる」


「町の外の畑。父さんと、セラがいる。僕はカイ」


 言い終わって顔を上げると、北を向いたガランさんの背中も見えた。肩と腕へ残った重さを確かめるため両手を握り、ゆっくり開いてからセラへ向き直った。


「小屋の石臼を一人で担いで、戸の前へ置いてた。それから、娘さんが逃げていくのを見ながら、戸を押さえてた」


「名前は分かりましたか」


「ううん。ホルクさんかどうかは、まだ分からない」


 流れてきたのは肩に乗った臼の重さと、板を押し返す手の感触と、遠ざかる足、それから最後まで追いかけていた思いだけだった。あの女の人が話していた小屋とも年とも重なるが、名前は火からは伝わってこない。


「送ってください」


 父さんと並んで下がると鐘が鳴り、戸を押さえていた人の火がほどけていった。最後の青さが消えた後も両手を見ていた僕へ、セラが静かに声を掛けた。


「戻ったら、あの方に聞いてみましょう」


「うん。見えたことを伝えていいか、先に聞く」


 安全を確かめる兵の後ろで帳面を開き、石臼を担いだことと、戸を内側から押さえていたことと、走る足だけを短く記した。娘に何と言いたかったのかまでは書かず、紙を押さえる指から力を抜いた。


 次の七つ目を送り終えると、ニルスさんが北側の石の小屋へ向かう前にもう一度壁を見上げた。合図を返す見張りの腕が見え、七人は崩れた屋根を避けて石の積まれた方へ回った。


 残っている壁の足元に三つの火が寄り、僕が指す先をセラも目を細めて見ていた。


「この石の内側に三つあります。すぐ隣り合っています」


 人が隠れたくなる狭さだったが、同じ時にここへ来たのかは分からない。


 ニルスさんが石の間を確かめている間、父さんはガランさんに呼ばれて畝の切れ目へ縄を運んだ。低く張った縄の端をガランさんが足元へ置き、僕たちはその後ろで鐘を鳴らす場所を取った。


「布と、木の器が二つある。心当たりは?」


 石の内側から戻ったニルスさんの手には、色の違う糸で継いだ布が載っていた。器の一つには底に小さな印があり、もう一つには印が見当たらなかった。


「今は分かりません。持って帰って、見覚えのある人を探したいです」


 僕は運び出す前の位置を図へ足し、器の底の印も横へ写した。ニルスさんが布を広げ直してくれたので、二か所の縫い目も忘れずに描けた。火が三つあっても持ち物を一つずつ割り当てられず、布も器も同じ包みへ収めて父さんに預けた。


「そこで立てるか」


 声を掛けたガランさんへセラがうなずき、石の外側から一つ目へ鐘を向けた。風が吹き込んでセラの袖が揺れたが、その中でも音は途切れずに火へ届いた。


「これで八つです」


 消えた場所から隣へ指を移すと、セラは少し向きを変えて鐘を持ち上げた。残る二つを送れば、今日は図に囲った場所を全部回れる。


 一度目の音で輪郭が緩んだ時、壁の方から短い叫び声が届いた。


「止めろ」


 石の上へ上がったニルスさんの声に、セラが鐘を布で押さえた。余韻が消えた先で九つ目の火はまだ揺れており、僕は数を増やしかけた炭筆を止めた。


 畝の向こうには灰色の背が次々に現れ、低い石囲いの端を回り込んでいた。


「九だ。北から来る」


 ニルスさんが石から下りる間にも先頭の一体は土を蹴り、後ろの背が畝をまたいで広がった。


「鐘か」


 ガランさんが短く聞くと、セラは布で押さえた鐘を胸へ引き寄せた。


「そうだと思います。こちらへ向きを変えました」


 父さんが音具へ手を伸ばしたところで、ガランさんが手のひらを上げた。


「今は鳴らすな。こっちを向いてる。ほかへ散らすな」


 僕は帳面を閉じてセラの前へ寄り、町へ戻る道を振り返った。門は見えているが、そこまでの畑には背を隠せるものが何もない。走り出せば、鐘も包みも持つセラと父さんが最後になる。


「僕はセラの前にいます。盾が必要になったら出します」


「そこで待て。まず俺たちが止める」


 ガランさんは足元の縄の張りを爪先で確かめてから、石壁を背にした兵の横へ入った。右手の剣は下げたままで、空いた左手は縄の端へ届く所に置いてある。畝を埋めていく九つぶんの背へ、ガランさんは一歩も下がらないまま正面を向け直した。

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