第五十六話 落とした扉
次の朝の机には東の橋の図が無く、代わりに古戦場の西側を写した古い一枚が広げてあった。紙の左下に描いてある四角い印が、僕たちが縄を切って落とした西門だった。
「東が三日に一度しか進まんなら、西の話を先にしておく」
ザハルさんは西門の印を炭筆でなぞってから、その先の何も描かれていない所で手を止めた。扉の向こうの広間と地下道は、僕たちが歩いただけで誰も測っていないので、この図では白いまま残っている。
「三つそろわんと、あの門へは人を出せん」
三つという数え方をこの部屋で聞くのは二度目だった。
「一つは扉だ。落ちたままの物を、こちらから上げなければ中へ入れん」
「二つ目は戻る道です」
ニルスさんが受けて四角い印から町へ向かう線を一本なぞった。
「開けた後にこちらへ引ける形が必要です」
「三つ目は」
僕が聞くとザハルさんは僕の方ではなく父さんの方を見た。
「まねられる形への備えだ。あれはお前たちの技を見ている」
◇
扉の話をするために呼ばれた婆さんは、椅子へ座る前に図をのぞき込んだ。
「これは落とし戸じゃな。上から下ろすだけの仕掛けで、上げる方は付いとらん」
「作らなかったんですか」
「上げるのは戦のあとじゃ。戦のあとに使う物まで作る余裕は無かったんじゃろ」
婆さんは自分の膝を二度たたいてから、落ちた扉を上げる手順を数え始めた。石の下へ楔を打ち込んで指一本ぶんの隙間を作り、そこへ梃子を差して少しずつ上げていく。上がった隙間へ次の楔を噛ませ、また梃子を差し直す。
「一段で指一本じゃ。楔さえ足りれば、一日で膝の高さまでは上がる。人の通る高さまでなら、二日はかかる」
「何人いりますか」
「梃子に四人、楔に二人、外を見る者が別にいる。楔は一段に二本ずつで、抜いた分は使い回せん」
兵が一人呼ばれ、しばらくして木槌と鉄の楔を抱えて戻ってきた。机の端へ置かれた楔は僕の手のひらより短く、厚い方の端が槌にたたかれて丸くつぶれている。つぶれた端を指でなぞると、石を持ち上げた重さがそのまま形になって残っているのが分かった。
「町にいくつありますか」
「壁の補修用が十二本ある」
一段に二本ずつ使って、上がるのは一段につき指一本ぶんだ。人の通る高さまで上げるなら、十二本ではとても足りない。
「足りませんよね」
「足りん。壁のぶんを全部持ち出すわけにもいかん」
婆さんはつぶれた楔を指で立ててから、そのまま横へ倒した。
「つぶれたのは鍛冶が打ち直せる。ただし打ち直しとるあいだ、石は止まったままじゃ」
持っていける本数がそのまま、一日に何段上げられるかの数になる。僕は人数と本数を紙へ書いて、東の橋へ置く人数の下へ並べてみた。どちらも同じ町から出す人で、同じ日には出せない並びになっている。
「もう一つ言うておく」
婆さんは指を立てて図の四角い印を軽くたたいた。
「一度上げたら、それきりじゃ。落とすための縄は、お前さんたちが切ってしまっとる」
あの時は落とすことしか考えていなくて、その後で誰が上げるのかまで考えていなかった。
「閉じられないなら、開ける前に決めておくことが増えます」
「増えるな」
ザハルさんの返事は短かったが否定ではなかった。
図の四角い印を見ているうちに、扉の向こうに何が残っているかを思い出した。ガランさんの大盾は、あの広間で墓喰らいにばらされ、その板は今もあれの肩に付いている。開けた先で待っているのはガランさんの盾を身に着けた相手だ。
そのことを口にしかけて父さんの顔を見たら、父さんの方もガランさんを見ていた。ガランさんは図から目を離さないままで盾の話はしなかった。
「仕留めそこなった場合、町までは半日です」
ニルスさんが山裾道の線を指でたどって町の東門まで一気に運んだ。
「壁の線では止まりませんか」
僕が聞くと答えたのはザハルさんではなく婆さんの方だった。
「あれは灰の獣に効くと分かっとる線じゃ。白喰いにも効いたそうじゃが、腕が四本ある物で試した者はおらん」
水路へ線を引く前にも、白喰いに効くと言えるかと聞かれて、誰も言い切れなかった。あの時は輪の中へ入って確かめたが、今度は確かめる場所が町の壁になる。
「開けて仕留めそこなえば、次にあれが立つのは石扉の前じゃない」
ザハルさんはそこで言葉を切って、図の町の四角を炭筆の腹で押さえた。
「この中だ」
ザハルさんは炭筆を山裾道へ移し、町までの半分ほどの所で先を止めた。
「半日というのは、行きだけの時間だ。扉を上げにかかったら、上がりきるまで向こうで夜を越すことになる。石を持ち上げかけたまま置いて帰るわけにはいかんからな」
上げかけの石を残して夜を迎える形を、僕は水路へ引いた線のことで思い出した。引いてから乾くまでのあいだがいちばん危ないと、婆さんは前に言っていた。
「夜を越すなら、そこにも囲いと人が必要です」
ニルスさんは山裾道の途中へ小さな四角を描いて、その中へ点を六つ置いた。
「寝る者と起きている者を半分ずつ置いて、これでようやく回ります」
東の橋と西門とで同じ町の同じ人を取り合う形になっている。紙の上でどちらの数も増やせないまま、僕は自分の帳面へ二つを並べて書いた。
◇
「三つ目に返る」
ザハルさんが炭筆の先で図の四角い印を指すと、父さんが僕の方を向いた。
「西門でお前が使ったのは、道と盾だ。道はもう形をなぞられてるし、盾も正面から十まで受けるところを見せてる」
ガランさんが図から目を上げた。
「受け切れたのは、あの時あそこが一本道だったからだ」
あの広間で見せたのは、道から盾への一続きだった。今の僕は青火も持っているが、出す順はいつも同じで、道で入って、盾で止めて、青火で抜く。最初の二つを見られている以上、その先まで読まれると思った方がいい。
「順番を変えられますか」
セラに聞かれて僕はすぐには答えられなかった。三つのうち二つを続けて出せるのは前の火の役目が終わった時だけで、終わる時機を決めているのは僕ではない。
「変えられる所と、変えられない所があります」
帳面へ書き出せた並びは、道から盾、盾から青火、道から青火、それに何かへ届いた後の青火から盾の四つだった。一度渡した火をもう一度使うには、水路の底でしたように呼び直すしかない。呼び直した青は細く、長くはもたなかった。
「呼び直した火が細いなら、先に人を並べておくしかありませんね」
自分の口から出た言い方が、石囲いの手前でニルスさんが言った言葉と同じ形をしていた。西門の広間で何があったかは、町へ着いた日に父さんがひととおり話してある。板も糸も知ったうえで、ニルスさんは「今日の順番のままでは通らん」と言い、人の並びで倒す形を作っていたのだ。
役の分け方だけはその日のうちに枠が決まった。扉を上げるのは補修方と町兵、外を見るのはガランさんとニルスさん、広間へ入る順を決めるのはまだ先の話。治癒方から誰を出すかは怪我人の数を見てからエルナさんが決める。
セラと僕は、行く日が決まるまでに三つのことを確かめておくよう言われた。同じ《三歩の道》で、三歩の置き所をどこまで変えられるのか。鐘の音は石扉の向こうまで届くのか。そして火を渡す順番を、どこまで入れ替えられるのか。
「今日はここまでだ」
ザハルさんが炭筆を置いたところで、部屋の戸が外から二度たたかれた。入ってきた兵は外套の肩を濡らしたまま革の筒を差し出した。
「北回りが戻りました」
冠灯院からの返事だと分かって僕より先にセラの背筋が伸びた。筒から出てきた紙は二枚で、ザハルさんは一枚目を読んでから机へ置いた。
「受け取ったという紙だ。日付と、着いた者の名しか無い」
二枚目を開いた時ザハルさんの指がいったん止まった。
「ルカ村の北の古戦場について、こちらでも測りの動きを見ている。近く人を出す」
「何を測っているとは、書いてないんですか」
「書いてない。その測りを誰が動かしているともな」
ザハルさんは紙を裏返し、そこにも何も無いことを確かめてから続きを読んだ。
「それまで残火に関する処置は行わないこと、だ」
処置というのが僕の火を送ることだというのは、聞かなくても分かった。規則が変わったわけではなく動かすのを止められただけだ。
「セラ」
父さんが呼ぶと、セラは二枚目を両手で受け取ってからしばらく黙っていた。
「誰が書いたのかが、どこにも記されていません」
セラは紙を胸の高さで持ったまま、上から下まで二度たどった。
「院からの返事には、書いた人の名が必ず入ります」
「書いた者が分からんということか」
「はい。私の報告を受け取ったのが誰なのかも、これでは分かりません。師の名もありません。返事が来るなら、まず師の名で来るはずでした」
紙を机へ戻したセラの指は、折り目の上でしばらく止まったままだった。
「近く人を出す、とだけあります。誰が来るのかは、着いてから分かることになります」
僕は三行を目で追って、そこに人の名が一つも入っていないのを自分でも確かめた。僕の火の処置を止めたのも、近く人を出すと決めたのも、名前の書かれていない誰かだ。
◇
その夜、《灯名帳》の今日の欄を開いた。
――西門は上げれば閉じられない。上げるのに二日はかかり、楔が足りない。
――北から紙が二枚来た。測りが動いているとだけ書いてある。
いつもなら分からないことを下へ並べるのだけれど、今日はその欄が一行で足りた。
――誰が、何のために測っているのか。
消さずに残したその一行の下へ僕は日付だけを入れて帳面を閉じた。




