第五十五話 昼に出るもの
朝いちばんに壁の上へ上がるのは、町へ来た日から途切れずに続いている僕の役目になっている。
上がるのは東の空が白んで畑の畝の形がようやく見え始める頃で、日はまだ山の向こうにある。日が昇りきってしまうと外の火は朝の光の色へ紛れて、同じ数を数えるのに倍の時間がかかる。
畑の縁に七つ、崩れた小屋の跡に三つ、柵の根元に八つ、道の脇に三つ。合わせて二十一で、昨日と同じだった。どれも人の胸くらいの高さに浮いたまま、風が石の上を渡っていっても位置を変えない。
僕が数え終わるまで槍を立てて待っている見張りの兵は、終わると決まって同じことを聞く。
「増えてますか」
「今日は増えていません」
「そうですか」
増えていないと答えても、この人は減ったかどうかを聞かない。減らないことの方は、もうこの壁の上では確かめるまでもないものになっている。
石段を下りた所でニルスさんに呼び止められて、僕はそのまま評定の部屋へ連れていかれた。昨日の巡回で東の橋まで行った町兵の話を、これから評定へ出すのだという。机へ広げてあったのは白喰いを落とした水路までの図ではなく、町から東の橋までが一枚に収まった大きい方だった。
「下の柱が一本、谷へ落ちています」
谷の絵の真ん中を炭筆の尻で押さえたニルスさんは、指をそこから動かさずに続けた。
「残った柱へ下りる道も斜面ごと削れていました。向こう側から見ても同じ形に見えるはずです」
「板を何枚か渡せば人が通れるのか」
「柱を立て直すところからです」
答えを聞いたザハルさんは、返事の代わりに図の縁を指の腹で二度たたいた。
村を出る前に聞いた、村の側だけで直すなら十日以上かかるという見立ては、オルバンさんの手紙にも同じ数で書いてあった。村の側と町の側の両方から手を出せば、そのぶん日数は短くなるはずだった。ただし短くなるのは、同じ日に谷の両岸へ人が出て、同じ時間だけ働いている時に限られる。
「人は出せる」
言い切ったザハルさんは間を置かずに自分の言葉へ足した。
「出せるが、置いておけん」
置いておけないという言い方の意味を取り損ねて、僕は隣のセラを見てしまった。
「昼のうちに、あの四本脚が出るからです」
壁からいくらか離れた畑側へ指を移したニルスさんが、東の道をまたぐ大きさの丸をそこへ描いた。
「前は壁の近くの畑まででした。今は東の道の途中まで来ます。昨日の行きも、二体見て道を変えました」
石を積む人も削れた斜面へ足場を組む人も、働いているあいだは両手がふさがったままになる。手のふさがった人の横には、代わりに外を見ていられる人が立たなければならない。
「一人働かせるのにも、見張りが必要ということですね」
「いる。手のふさがった者は、自分では気づけん」
壁の補修の相談で呼ばれていた婆さんが、部屋の隅の椅子から口を挟んだ。
「昔は、外に何匹おるかを日が落ちてから数えればよかったんじゃ」
治癒方の手伝いに使う布を膝へ抱えたまま、婆さんは誰の方も見ないで話している。
「わしが壁を直しとった頃は、朝から日暮れまでが仕事の時間じゃった。獣が出るのは、その後の話じゃ」
「今はどうなんです」
「今は朝から立ってなきゃならん。仕事の時間と獣の時間が重なっとる」
「それは、いつからですか」
ニルスさんが呼びに行かせた壁の見張りは、腰から下げた帳面を最初の方までめくってから答えた。
「昼に出たのを最初に書いたのは、皆さんが着かれる四日前です」
◇
僕は《灯名帳》とも名簿とも別の紙を開いて、壁の外の火の数を並べた所を机へ置いた。町へ着いた日が九つで、その夜には十一になっている。次の日は昼に十四まで増えて、夜には十七だった。そこからは動きが遅くなって、十日ほど前に十九、今朝が二十一だった。
「増えとるな」
「はい。ただ、増え方はそろっていません」
九つから十七までが二日足らずなのに、十七から二十一までは半月以上かかっている。
「火が増えたせいで獣が昼へ出るようになった、ということはありませんね」
「なぜだ」
「火が増えたのは、獣が昼へ出るようになった後です。順が逆になります」
ザハルさんは炭筆を置かないまま、図の上で指先だけをゆっくり動かしている。
「考えが一つ消えたな。だが、消えただけだ」
「はい」
「獣がなぜ昼にも出るようになったのかは、まだどこにも書いてない」
僕は紙の端へ数と日付のほかには何も足さずにおいた。
人の割り振りの話はそこから半刻ほど続いた。壁の上と東の道と橋の足場へ順に人を置いていくたびに、置いた先のどこかで数が足りなくなる。
「壁を薄くするわけにはいかん」
ザハルさんが最初に外したのは、壁の上から人を抜いて橋へ回す案だった。
「中にいる人数がいちばん多い。ここを破られたら、橋を直しても運ぶ相手がいなくなる」
「では、東の道の見回りを減らしますか」
「減らせば、橋へ出した連中が帰ってこられん」
どの数を削っても、削った先で誰かが帰れなくなる並びにしかならなかった。
「橋の足場の周りへ、線は引けませんか」
それまで黙って聞いていたセラが初めて図の谷へ指を伸ばした。
「引ければ人は減らせる。だが墨がない」
短く答えたザハルさんの後を、ニルスさんがそのまま引き取った。
「墨は町の壁のぶんで手いっぱいです。新しく練るための銀は、東の道が通らないと入ってきません」
「墨があったとしてもじゃ」
膝の布を持ち直した婆さんが、そこで初めて机の図の方へ体を向けた。
「あれは持ちも強さも長さで決まる。水路のあの輪で、六十数えるあいだというのがわしの見当じゃった」
「足場の周りだと、もっと短くなりますか」
「短い。線は長いほど強くて長く持つ。柱一本を囲うだけなら、囲わんのとそう変わらん。しかも一度きりじゃ。通したら、その線はそこで終わりじゃ」
一日じゅう人が働いている所へ、六十を数えるあいだだけの囲いを引くことになる。引くのに半刻、乾くのに半刻かかることを思えば、置いてある時間の方がずっと短い。
線を引くには東の道が必要で、その東の道を空けるためには線が欲しい。先に必要な物が、後でしか手に入らない物になっている。同じ形の行き止まりをこの部屋で聞くのは、僕にとって二度目だった。
図から目を上げないままガランさんがそこで初めて口を開いた。
「日を分ける手はある。三日に一度、人を集めて半日だけ出す」
「進みますか、それで」
「進まん。だが止まりもせん」
止まらないというだけのその案を、部屋の誰もすぐには否定しなかった。
「今の獣の出方がこのまま続くなら、その形しかありません」
続かないかもしれないという含みが、ニルスさんの言い方の後ろに残っていた。
「なぜ昼に出るようになったかが分かれば、話は変わりますか」
僕が聞くとザハルさんはそこでようやく炭筆を置いた。
「変わる。理由が分かれば、出る時を先に読めるかもしれん」
「読めなかったら」
「読めんでも、止める手が見つかるかもしれん。今はそのどちらも無い」
理由が分かれば、相手の出る時を先に読んで、こちらの並べ方の方を変えられる。相手を弱くするのではなく、こちらの置き方を変える。白喰い二体を離した時と同じ考え方だった。今はその形が読めないから、朝から日暮れまで見張りを立てておくしかない。
「分からんうちは、何人置いても足りん」
その一言で割り振りの話は終わった。
部屋を出る時に図の東側をもう一度見ているセラの横から、僕も同じ所へ目を落とした。炭筆で描かれた橋の絵の向こうには、まだ何も書き足されていない村がある。そこまでの線を僕は町へ着いてから一本も引けていない。
◇
昼を過ぎてから、東門の内側でドルグさんに呼び止められた。半月前に道で水を分けてくれた人で、今は壁の内側の畑を見て回っているらしい。
「橋の話は決まったか」
「三日に一度、半日だけ人を出すことになりました」
ドルグさんは僕の顔をひととおり見てから、空の荷車の車輪へ手を置いて背を伸ばした。
「うちの蔵は、もう行けん」
「東の畑の方ですか」
「日の高いうちに行って帰るつもりで組んだ道だ。その時間に出るようになったら、行きようがない」
去年の麦を取りに出たあの日のことを、僕は帳面へ書いた文字の並びの方で覚えている。あの時は日帰りのつもりで六人で出て、八日かけて六人で帰ってきた。
「壁の中の畑だけでは足りませんか」
「足りん。壁の中の畑の土は人が多すぎて休ませられん」
荷台の板を親指でたたいたドルグさんは、それきり橋の話の方へは戻らなかった。外へ出られない理由が、橋にも蔵にも同じ形で刺さっている。
◇
その夜寝る前に《灯名帳》の今日の欄を開いた。
――壁の外の火は二十一。昼に獣が出始めたのは僕たちが着く四日前から。
その下へ名簿の時に覚えたやり方で分けて書く。
――火が増えたから昼に出たのではない。順が逆だった。
――獣がなぜ昼にも出るようになったのかは、分からない。
書き終えてみると、分かったことの下に、分からないことの一行が残った。それでも消さなかったのは、数えないと無いことになるからだ。




