第五十四話 仕掛けのない日
二日後の朝に評定の部屋へ地図が広げられた時、机の上には筒も銅板も置かれていなかった。あるのは地図と炭筆が一本だけで、墨の話は誰からも出なかった。
「墨は無い」
ザハルさんが最初にそう言った。
「線は引けん。輪も作れん。今日決めるのは、人の並びだけだ」
一昨日と同じ形にはならないと分かってはいたが、机の上を見てから聞くと、置き場所の無さが手で触れるように分かった。
「残った一体は、石囲いと畑道の間から出ていない」
ニルスさんが北の円と石囲いを線でつないだ。
「二日、朝夕に見ている。同じ所を行き来しているだけだ。こちらから場所を選べる」
「選べるなら、どこだ」
「石囲いの手前だ。崩れた壁が二方向をふさいでいる。水路ほど狭くはないが、走って回り込む幅は無い」
使うのは地形だけで、引く線も閉じる輪もない。
「仕掛けが無いのは、困ることではない」
ザハルさんはそこで炭筆を置いた。
「一昨日の形は、墨と、引ける者と、通せる者がそろって初めて動いた。三つのうち一つ欠ければ何も起きん。あれを頼りに西門へ行くわけにはいかんのだ」
三つそろわんと動かん、と老婆が言った通りだった。持ち歩けない物は、必要な場所へ持っていけない。
「だから今日は、人と槍と地形だけでやる。そこで倒せる形を作っておく」
練習だとは誰も言わなかった。ただ、そういう意味だと部屋の全員が分かっていた。
◇
「腕は、もう動く」
地図の端に立っていたエルナさんへ、ガランさんが左肩を回してみせた。
胸の高さで止めずにそのまま耳の横まで上がり、速くはないが途中でも止まらない。エルナさんは机の横へ回って、ガランさんの左肩へ手を当てた。前へ、後ろへ、上へと順に動かし、途中で二度止める。二度とも痛みを探す止め方ではなく、どこまで動くかを測っている止め方だった。
「もう大丈夫なようですね」
「そうか」
「そうか、ではありません。私の見立てより七日早いんです」
エルナさんは手を離して、少しあきれた顔をした。
「同じ外し方をした人を何人も見ていますが、この戻り方は普通ではありません。腫れを早めたのは私ですが、そこから先は私の仕事ではないので」
「昔から治りは早い」
「そういう言い方をする人が、いちばん無理をします」
ついそこで、口を挟んでしまった。
「盾撃のガランさんは、治りも速いんですね」
ガランさんが、ゆっくりこちらを向いた。
「……その名で呼ぶな。次に呼んだら、朝の稽古を倍にする」
低い声だったが、口の端が少しだけ上がっていた。セラが横を向いて、肩を小さく震わせている。
叱られたついでに、もう一つだけ聞いてみたくなった。
「ちなみに、ニルスさんにも、そういう呼び名があるんですか」
地図の端で炭筆を持っていたニルスさんの手が、ぴたりと止まった。答えたのは、ガランさんの方だった。
「『槍衾のニルス』だ。一人で槍の壁を作る、と隣の隊では言われていた」
「ガラン」
ニルスさんが低く呼んだが、もう遅かった。
「槍衾……!」
セラが胸の前で両手を組み、身を乗り出していた。淡い青灰色の目が、きらきらと輝いている。
「一人で、穂先が壁に見えるほど速く突くなんて。すごいです。あの長槍の構えを見た時から、町の門を預かるだけの方ではないと思っていました。北の詰め所で聞いていたら、きっと一番に覚えていました」
「……見習い」
ニルスさんの声が、一段低くなった。
「次、その名を口にしたら、次回の見回りの荷は全部お前が持て」
「えっ」
組んでいた両手をほどいたまま、セラが固まった。ガランさんが喉の奥で短く笑い、エルナさんまで口元へ手を当てている。
ニルスさんは炭筆で地図の縁をとんとたたき、何事もなかったように石囲いの線を引き直した。その耳の端が、少しだけ赤かった。
笑いが収まると、エルナさんはガランさんへ向き直った。
「片手剣も長槍も構いません。大盾だけは、もう少し先にしてください。重さの掛かり方が違います」
「分かった」
ガランさんは机の方へ向き直って、地図の石囲いの手前へ指を一本置いた。
「俺が正面に立つ」
置いた指はそのままで、どう倒すかの話は続かなかった。
「あれには幅が必要だ。幅の無い所で正面をふさげば、横も後ろも使えん。倒すのは俺じゃない。倒せる向きに固定するのが俺の役だ」
戦うために外へ出るガランさんを見るのは、西門の地下道以来だった。僕の腕も休んだ間に重さが引き、今朝は上着を着る時にも痛まなかった。セラは銀の鐘を包んだ布の結び目を、小指まで使ってほどいていた。
◇
東門に集まったのは僕たち四人とニルスさん、それに長槍を持つ兵二人だった。父さんの手にある小さい音具を除けば、一昨日そろえたような道具はどこにも見当たらない。
「石囲いの手前にいる」
ニルスさんが壁の上から戻った兵の報告を聞き、僕たちへ向き直った。
「出た後はヨルンが引く。囲いの内側までは入れず、手前で止める」
「北へ抜けようとしたら?」
父さんが聞くと、ガランさんは右手の剣を鞘へ収め直した。
「俺がそちらに立つ。ヨルンは音を切って町側へ戻れ」
図の上では崩れた石壁が二方向をふさいでいたが、線のように爪を止めてくれるものはどこにもない。町側へ開いた所に立つのは、僕たちだった。
「僕はセラの後ろで待ちます。灰がはがれるまでは入りません」
「その後は」
ガランさんに聞かれ、昨夜選んだ斥候の火へ意識を向けた。
「胸へ届く場所まで三歩で行きます。そこから槍へ渡します」
「道が外へ向いたら追うな。ここへ戻れ」
指されたのは地図の印ではなく、今セラが立っている場所だった。隣の兵二人が槍を持ち直したので、僕はその間の広さを見てからうなずいた。
門をくぐる時にはセラの背中だけを追わず、戻る道に段差や転がった石がないかも見ていた。前は自分が飛び込む水路のことばかり考えていたが、今日は帰りに全員が通る幅も目に入った。
父さんは道端に引っ掛かった縄を拾って束へ戻し、それから僕の隣へ並んだ。
「帰りは俺も一緒だ。先に走るなよ」
「分かってるよ」
北へ遠ざかる背中を待たずに済むと分かるだけで、短槍を握る手から少し力が抜けた。
◇
石囲いの手前へ着くと、父さんが畑側へ離れて音具を揺らした。白い山が起き上がり、こちらへ向き直った口が横へ大きく開く。一昨日まで二体いたうちの、残った一体だった。
父さんは音を鳴らしながら後ろへ下がり、曲がった石壁の角へ相手を寄せた。白喰いが前脚を伸ばしたところで、ガランさんが父さんとの間へ出た。
「音を切れ」
骨を布で握り込む音がして、父さんはガランさんの後ろへ抜けた。
音の消えた先を探した白喰いの正面へ、ガランさんが半歩だけ横へ動いて入る。右手の片手剣は下げたままで、左手には何も持っていない。
もう半歩。前脚が出る先に、いつもガランさんの位置がある。近づいているのに、爪の届く所へは入っていない。
右へ回ろうとした体が石壁へ当たり、反対側では兵の穂先が横に並んでいた。村で僕が何度打ち込んでも届かなかった時と、足の置き方が同じだった。
「セラ」
「はい」
一度目の鐘で肩の白い灰が浮き、二度目で細い胴が透けた。
鐘へ向かおうとした白喰いが腹を地面へ落とし、兵の槍の下をくぐろうとする。その前脚の行く先には、もう寝かせた刃があった。爪が剣の腹を滑り、低く伸びた体が横へ跳ねて石壁の側へ戻される。
ガランさんは一度も振っていない。振らない剣が受ける物にもなるとは、村で打ち込んでいた頃には知らなかった。
三度目の鐘で、喉から胸へまとわりついていた灰が空へほどけた。
「カイ」
「はい」
胸の灯皿から斥候の火を呼ぶ。
「胸へ届く所まで。《三歩の道》!」
青い足跡が三つ出て、一つ目はセラの前、二つ目は前脚の外、三つ目は胸の脇だった。一昨日と同じ形をしていて、違うのはその三つが最初から空いていることだった。
誰かが空けてくれている。
二つ目を踏んだ時にも節は隠れず、穂先を構え直す間もそこにあった。三歩目を踏むと、足元の青い道が消えた。
(道は、ここまで届いた。あとは、あなたの番だ)
「《青火纏い》」
穂先へ走った火が刃を包み、むき出しの節へ一度で届いた。硬いものが割れる手応えが、腕へ抜ける。白喰いの脚が止まって細い胴が地面へ落ち、舞い上がった粉は視界を塞ぐほどでもない。今日は、セラが六十を数える必要も無かった。
◇
誰もすぐには動かなかった。
「終わりですか」
兵の一人が確かめるように言った。
「終わりだ」
ニルスさんが長槍の穂先を下げ、ガランさんは剣を鞘へ戻した。父さんが握り込んでいた音具から手を離すと骨が一つ鳴ったが、それを追って起き上がるものはなかった。
「左足は?」
父さんに聞かれて体重を掛け直しても、一度だけ道を使った足には痛みが出ていなかった。
「平気。肩も痛くないよ」
「あそこまで低く来るとは思わなかった」
父さんの言葉に、ガランさんは地面の一点を指した。
「鐘へ来るなら、通る所は一つだ」
剣を寝かせた跡と、白喰いが引っ込めた爪の跡が並んでいる。僕には同じ幅にしか見えなかった所に、あの人は先に刃を置いていた。
一昨日は九人で出た。一刻ぶんの墨と前日から引いた線、六十と四十を数える役までそろえても、足りるかどうか分からなかった。今日は七人で出て、道具は音具と縄だけで、誰も走っていない。
「これならいける」
言ったのは父さんで、誰へ向けた言葉でもなく口から落ちたという感じだった。ニルスさんがそれを拾った。
「白喰いならな。西門のあれは板をまとっているし、鐘で送っても糸で引き戻す。今日の順番のままでは通らん。だが、墨が無くても、人の並びだけで倒せる形は一つできた」
ガランさんは左肩を押さえてもいない。
僕は自分が何をしたかを数え直した。三歩を踏んで、渡して、一度突いた。それだけで足りたのは、届く所まで誰かが連れていってくれたからだった。
仕掛けが無くても倒せたと書ける。けれど仕掛けが無くても倒せたのは仕掛けの代わりに人が並んだからで、そこを混ぜてはいけない。
◇
青い欠片が灰から浮くのを、僕たちは少し離れた所で待った。セラが鐘を持って進むと、ニルスさんが兵を一人だけ畑側へ向けた。
倒れた相手の周りでも見張りは続いている。鐘の音が響くたびに小さな火がほどけ、最後の一つも灰の上から離れた。
次に向かった水路の底には、一昨日の輪がまだ残っていた。一度通した線は、墨が残っていてももう働かない。縁から見下ろしても、石とほとんど同じ色の筋が底を回っているだけだった。
「あそこです」
僕が指した灰の上では、小さな青い火がまだ揺れていた。セラは兵が支える縄を使って底へ下り、灰から少し離れて銀の鐘を構えた。
一昨日、灰の上で触れても、名前も記憶も見えなかった欠片だった。あの一つ一つにも帰りたい場所があったのか、僕には今も分からない。それでも、ここへ置いたままにせずに済んだ。
僕は縁から動かずに見ていた。近づけば火が見えるぶん、送り残しに気づけるかもしれない。それでも下りなかったのは、送るのがセラの役だからだ。見えていても、そこへ行っていいわけではない。
鐘を聞きながら顔を上げると、ガランさんは水路の向こうの道を見ていた。東の橋はまだ落ちたままで、あの道を進んでも村へは帰れない。
「次は西門だな」
父さんが言うと、ガランさんは剣の柄へ手を掛け直した。
「ああ。ただ、あいつは今日のようには待ってくれん」
「槍の下へ来たら、今日みたいに止められますか」
僕の問いにガランさんは少し考えてから首を振った。
「一度はな。見せた後は、別の所へ来ると思え」
墓喰らいの四本の腕と、閉じる西門へ伸びてきた黒い糸を思い出した。今日ガランさんが刃を置いた場所も、一度見れば避けてくるかもしれない。
「じゃあ、止めてもらった時に届かせます」
「ああ、そのために俺が前に立つ」
左肩をかばわずに立つ姿を見て、村で木剣を持って向き合った日が戻ってきた。あの時は越えられなかった人が、今度は同じ相手の前へ立ってくれる。
水路から最後の鐘が響き、僕はセラを迎える縄へ手を伸ばした。
◇
その夜、評定の部屋では村へ返す手紙が書かれていた。机の上には僕たちが受け取った矢も置いてあって、羽の付け根の焦げは村を出る前からのものだ。
書かれたのは、僕たち四人が無事であること。ガランさんの左腕が上まで上がるようになり、片手剣なら振ってよいと診てもらったこと。町にも怪我人が多く、治癒方の魔力が足りなくなり始めていること。
村の薬草があれば浅い傷や腫れに使えて、魔力を重い怪我人へ残せること。町へ運べる量が増えれば治癒方が調合し、骨や深い傷の治りを助ける薬を村へ返せること。町からは、薬と一緒に塩や布、鉄を出したいこと。
書き終えた紙は、最初の手紙より長くなった。最初のものは矢へ結ぶために細く切ってあって、書けたのは四人の無事だけだった。
「まだ、運べるとは書けん」
ザハルさんが言った。
「橋は壊れたままだ。白喰いを二体倒しても、昼の灰の獣は残っている」
手紙にはそこも隠さず書いて、できることとまだできないことを分けた。
オルバンさんの手紙には、三日に一度、日が一番高くなる頃に橋を見ると書いてあった。渡せるのは両側の見張りがそろった時だけで、次のその時に町兵が返事を持っていく。
僕も紙の端へ一行を足した。母さんへの返事とは別に、ユハンさんへ書きたいことがあった。
――ユハンさん。今はちゃんと寝ていてください。戻ったら僕も見張ります。
父さんが読んだ。
「お前が言えることか」
「僕はもう起きてるよ」
「昨日は一日、横になってた奴だろう」
言い返せずにいると、父さんは紙を折ってザハルさんの方へ滑らせた。
◇
さらに二日たって、ニルスさんたちは東の橋まで巡回した。途中で昼の灰の獣を二体見たため戦わずに道を変え、遠回りになって橋を見下ろす場所へ着いたのは予定より遅かった。
僕は行っていない。橋までの見回りはもともと町兵の役目で、こちらから頼んで加わる話ではなかった。
谷の向こうでは白い布が上がっていた。町の兵が矢へ手紙を結んで人のいない裸の地面へ射ると、風が谷から吹き上げていて一本目は途中で流され、二本目が村側の土へ立った。
向こうにいたダリオさんが片手を上げて手紙を拾い、何か言っている口の形は見えたが、声までは届かなかった。それでも返事が渡ったことは、上げ直された白い布で分かった。
翌朝にニルスさんから話を聞いた僕は《灯名帳》へ書いた。
――村と町の間を、二本目の矢が渡った。
その下へ、まだできていないことも書く。返事が着いたことと道が開いたことを混ぜないためだ。
――薬草も薬も、矢では運べない。村へ人と荷を通すには、道そのものを開かなければならない。
東の橋には昼に出る灰の獣がいて、もう一つの地下道には墓喰らいがいる。どちらも荷を運べる道にはなっておらず、白喰いを二体とも倒しても村までの線は一本もつながっていなかった。




