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名もなき英雄の残火 ~死者の技を継ぐたび、少年は強くなる~  作者: 冬月樹
第一部 青い火の古戦場

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第五十三話 前へ立つ人

 借りている部屋へ戻る途中で、父さんが僕の短槍へ手を伸ばした。渡したとたんに腕が軽くなり、自分がまだ柄を握りしめていたことに気づいた。


「穂先は拭いたか」


「まだ。灰が付いたままだと思う」


「じゃあ、先に水場だな」


 父さんが濡らした布で灰を落としていくと、刃の付け根に詰まっていた白い粒が水受けへ流れた。灰の下から出てきた鉄の色を見ているうちに、白喰いの胸へ突き入れた時の感触が両手へ戻ってくる。


 灰の獣なら柵の内側から十体を止めたが、白喰いを倒したのはこの穂先で突いた今朝が初めてだった。


 村の広場で鐘の下に閉じ込めた一体は、誰の刃も届かないまま、昼過ぎに灰になった。なぜ崩れたのかは、今も分からない。北の柵の一体も、送火で灰を失ったまま古戦場の奥へ逃げていった。刃で胸の節を割って白喰いを倒したことは、あれから一度もなかった。今朝のこの穂先が、初めてだ。そう思うと、水受けへ流れていく白い粒まで、なんとなく惜しく思えてくる。


 門の内側で返そうとした時、ニルスさんからは次に使う者は決まっていないから持っておけと言われた。


「欠けてない?」


「見たところはな。戻ったら乾かしておく」


 乾かすのは自分でやると言いかけたのは、肩を気遣われたくないからではなく、もう一度この柄を握っておきたかったからだ。言葉にする前に、セラが半分ほど水の入った桶を両手で抱えてきた。


「それ、僕が」


「これくらいなら持てます。カイは肩が痛いのでしょう」


 桶を下ろしても取っ手に残っていたセラの指は赤く、僕が手を伸ばす前に父さんが横から持ち上げた。


「二人とも座ってろ。俺が洗った方が早い」


 水場の端へ並んで腰を下ろすと、セラも僕を見て困ったように笑った。


「こうして座らされていると、何もできない子どもに戻ったみたいですね」


「うん。動くなと言われている時間の方が、走っている時より長く感じる」


 門の外の灰の上に置いたままの青い欠片も、外にもう一体いるあいだは誰にも迎えに行けない。


 膝の上に両手を置いて待っていると、父さんの袖口に泥がこびりついているのが見えた。水路へ下りていない父さんにも、畑道を走ってきた跡が残っていた。


「父さんの服も洗わないと」


「これは乾いてから落とす」


 袖を裏返した父さんは、内側まで泥が染みていないことを見せてくれた。


「先に水を使うと、広がるだけだ」


 母さんに同じことを言われた覚えがあり、僕は自分の膝へ付いた泥から手を離した。家にいれば今ごろは戸口で止められ、泥を落とすまで中へ入れてもらえないだろう。


「帰ったら、母さんに怒られそう」


「怒るとしても後回しになる。母さんはお前の顔を見たら、まず服を脱がせて、体中の傷を一つずつ確かめる人だ」


 父さんは布を絞り終えると、刃を包んだ短槍を水の掛からない方へ立てかけた。母さんが鍋のふたを開ける姿を思い浮かべたら、朝から忘れていた空腹が少し戻ってきた。


          ◇


 昼過ぎに来たエルナさんが僕の腕を見られるように、父さんは食事を置くはずだった椅子を寝台の脇へ寄せた。


「両方とも、盾で受けた時からです」


 そう言って腕を前へ出すと、肩の奥に残っていた重さが戻ってきた。エルナさんは左右を比べながら手を添え、痛む位置を指で確かめた。


「しびれはありませんか」


「ありません。ここまで上げると重いです」


「では、今日はそこまでにしましょう。槍も持たないこと」


 壁へ立てかけた短槍へ目を向けると、穂先にはもう乾いた布が巻かれていた。父さんが僕の視線に気づいて口の端を上げた。


「槍は逃げんよ」


「分かってる」


 答えながらも、布の下の刃をもう一度見てしまった。


 エルナさんが薄く塗ってくれた薬は冷たく、少し経つと肩の熱が和らいだ。続いてセラの指を診てもらう間、僕は片手で上着を整えた。


「握って、開いてください」


 セラの指は朝より滑らかに動いたが、小指だけが少し遅れた。


「長い線へ一度に通しました。途中で止めるわけにはいかなくて」


「今日はもう魔力を使わずに休んでください。食事と水も忘れずに」


 うなずいたセラが、寝台へ置いた銀の鐘を布ごと奥へ寄せる。薬の入れ物をしまうエルナさんへ、父さんが昼のパンを一つ差し出した。


「食べていくか?」


「いえ、次の人が待っていますから」


「なら、持っていってくれ」


 断りかけたエルナさんの口が止まり、空いている方の手がパンを受け取った。


「ありがとうございます」


 戸口から出ていく背中を見送っている間に、僕のお腹が鳴った。父さんが残りのパンを割る音がやけに大きく聞こえた。


「こっちは待てんらしいな」


 セラが下を向いて笑い、僕は渡された大きい方へすぐにかじりついた。


 固い皮をかみ切ると内側にはまだ柔らかい所があり、飲み込む前から次の一口へ手が動いた。セラは小さくちぎったパンを口へ運び、鐘を置いた方へ落ちかけたくずを手のひらで受けていた。


「それ、包んだままで平気なの?」


「はい。今は何も聞こうとしていませんから」


 そのまま鐘を見ていると、セラは僕の手に残ったパンを指した。


「カイも、食べている間は槍を見なくていいと思います」


「そんなに見てた?」


「私が鐘を見るくらいには」


 父さんまでうなずいたので言い返せず、僕は二口目を少し大きく取った。かんでいる間に隣でもパンがちぎられ、しばらくは誰も門の外の話をしなかった。


          ◇


 夕方に戸をたたいたのは、水路の縁で縄を引いてくれた町の兵が二人だった。ニルスさんも後ろに立ち、部屋へ入る前に僕の顔を確かめた。


「起きていて平気か」


「はい。肩を休ませるように言われました」


「こちらも、明日は外へ出ない。ザハル殿が一日置くと決めた」


 父さんが椅子を渡すと、ニルスさんは腰を下ろして膝へ両手を置いた。もう一人が戸の横へ下ろした縄は、僕が水路から上がる時に両手で握ったものだった。


「切れてたんですか」


「いや。泥を落として干してきたところだ」


 兵が縄を持ち直した手のひらには、赤く擦れた筋があった。あの時は引かれる方に必死で、上にいる人の手まで見ていなかった。


「僕が下に残ったから、怪我したんですね」


 兵は自分の手へ目を落とし、開いてからまた縄へ戻した。


「これか。縄仕事をすりゃできる」


「でも、獣が来てたのに」


「来てたな」


 そこでニルスさんが僕の方へ体を向けた。


「だから、次は合図で上がれ。上で槍を並べれば、あの四本脚は近づかせずに済む」


 水路の底から見上げた穂先を思い浮かべると、上がった先に自分が立てたはずの場所も見えてきた。


「はい、上で止めてもらっている間に、ほかの火へ渡す方法を考えます」


「それを先に相談してくれればいい」


「はい」


「前へ立つというのは、一番前に一人でいることじゃない。後ろへ誰を通すか先に決める役だ」


 今日あの底で先に決めていたのは僕ではなく、上から縄を下ろしていた人たちの方だった。うなずいた僕を見て、戸の横の兵が少し笑った。


「ただ、白い方が崩れた時は、俺も声が出た」


「そうなんですか?」


「ああ。思わずお前を抱きしめに行こうかと思ったよ」


 上から聞こえた声を思い出そうとしても、縄との間へ落ちてきた獣の爪ばかりが先に浮かんだ。


「本当に、崩れましたね」


 口にすると兵が大きくうなずき、僕もつられて笑ってしまった。


「見たとも。あんなのが畑の向こうに二体もいて、ずっと手を出せなかったんだ」


 残った一体のことを足そうとしてやめた。今は倒せた一体の話をしていていい。父さんも椅子の後ろで笑っており、しばらく誰も続きを急がなかった。


 やがてニルスさんが窓の外の明るさを確かめて立ち上がった。


「残った方は壁から離れて、石囲いの方へ戻った。見張りは続ける」


「水路へは、まだ行けませんよね」


 セラの問いにニルスさんがうなずいた。


「今はな。動く場所が分かれば、次に出る時の助けになる」


「では、見張りの方にもお願いします。カイが、灰の上にまだ小さな火が残っていると言っています」


「ガランからも聞いた。そこを通る者には近づかないよう伝えてある」


 セラが頭を下げる横で、僕も寝台から足を下ろした。


 見送りに立った僕へ、兵が肩には触れず手を上げた。


「次も縄は持っていく。今日は寝ろ」


「はい。ありがとうございます」


 戸の外で縄を担ぎ直す姿が見えなくなるまで、僕はそこに立っていた。夕方の道には水を運ぶ人も、壁へ向かう兵もいる。朝の水路で僕の後ろにいた人たちは、ここへ戻ってからも働いていた。


「カイ、戸を閉めてくれ」


 振り返ると父さんが寝台の布を引き直し、セラは鐘を抱えてあくびをかみ殺していた。僕が戻る場所にも、今日を終わらせる支度ができている。


 戸を閉めて腰を下ろすと、父さんが上着を畳んで枕元へ置いてくれた。


「明日は寝坊してもいい?」


「俺も寝る。起こす奴がいなくなるぞ」


「二人とも怒られるやつだ」


 隣からセラの小さな笑い声が聞こえた。


 横になると肩の重さを寝台が受け止め、さっきまで耳に残っていた骨の音も遠くなった。布を巻かれた短槍は、手を伸ばさなくても見える所に立っていた。

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