第五十二話 盾に残るもの
父さんが戻ってくる。
そう分かっているのに、畝から姿が出るたびに後ろの二人まで目で追ってしまう。骨の音は続いていた。白喰いも、その音から離れていない。
僕は短槍を握ったまま道の脇に立っていた。
ここで盾を出せば、三人が門へ入るまで支えられるだろうか。灰の獣を受けた両肩がまだ重い。次に受けるのは六本脚で、あれよりずっと大きい相手だ。
「カイ、そこだ」
ニルスさんの声に、出しかけた足を止めた。
「前を空けておけ」
僕の横を兵が一人通り、門の内側へ手を振る。重い戸の開いた先で、別の兵がこちらを待っていた。
戻る道はもうできている。足りなくなった時に僕が立つ場所も、決まっている。
父さんが畑道からこちらへ曲がった。背へ回していた音具を手元へ寄せ、後ろの兵二人へ何か言っている。距離があって言葉までは聞こえない。
骨と小石が土へ落ちた。乾いた音が跳ねて、それきり鳴らなくなる。白喰いの頭が下がった。
捨てられた音具へ寄った間に、兵二人が父さんの横を走り抜ける。父さんも鉤棒を持ち直して門へ向かった。
早く。
声に出せばこちらを向かせてしまう。歯をかみしめて待つ僕の前で、六本脚が止まった。音のしなくなった骨から、走る三人へ頭が向く。
「通せ!」
ニルスさんが腕を振った。
兵二人が続けて門へ入り、最後に父さんが僕の横を抜ける。その顔を見ようとした時には、もう背中へ手が回っていた。
「お前もだ」
「僕は、まだ」
「全員戻った。入れ」
ニルスさんの声が重なる。
押されて門をくぐり、振り返ると白い体が戸の隙間に見えた。壁の上では兵が石を持ち上げている。投げるより先に戸が閉まった。術者の手の下から青白い筋が伸び、開いていた所へつながっていく。
すぐ外で重い音がした。肩に力が入り、短槍の柄を握る指が痛んだ。もう一度ぶつかる音を聞いても、戸は開かない。
次の音を待つ。何も来なかった。
「離れたぞ」
壁の上から声がした。
石垣の隙間へ目を寄せると、白喰いは壁沿いに歩いていた。前脚を上げかけては下ろし、登れる場所を探すように首を振っている。
水路の輪でも、あの爪は線を越えられなかった。町の壁にも同じ働きがある。知っていたことなのに、今は隙間へ当てた手を離せなかった。
向こうに白喰いがいる。こちらには父さんがいる。僕が盾を出さなくても、その間はふさがっていた。
◇
「九人。全員いるな」
ニルスさんが最後に僕を見て数え終えた。
父さんは鉤棒を壁へ立てかけ、両手を膝についた。肩が大きく上下している。何か言おうと近づくと、顔を上げて先に聞かれた。
「怪我は」
「肩が痛い。盾で受けた分だと思う」
「爪は?」
「当たってないよ」
父さんは短く息を吐いた。それから僕の向こうへ目をやる。
セラは銀の鐘を抱えて壁際に座っていた。布の端を結ぼうとする指がうまく動かず、結びかけたところを一度ほどいている。
「私も傷はありません。指は、少し休めれば戻ると思います」
「線へ通した方か」
「はい。あの長さへ一度に通すのは、初めてでしたから」
父さんがうなずき、ニルスさんは兵へ水を持ってくるよう頼んだ。
誰も欠けていない。底で二体が崩れた時とは違うところで、ようやく息を吐けた。
「カイ」
門の脇からガランさんが来た。角笛を腰へ戻す右手を見て、何を聞かれるのか分かった。
「二度目も聞こえたな」
「……はい」
「それでも進んだ」
うなずこうとして、途中でやめた。ただ命令を忘れたわけではない。聞こえていて、それでもあの時は進む方がいいと決めたのだ。
「三つ目を踏まないと、ほかの火へ渡せませんでした」
ガランさんは口を挟まなかった。
「灰の獣がどこにいるか、下からは見えなくて。道の火のまま上がったら、盾も出せないと思ったんです」
「だから、先に白喰いを倒したか」
「はい。倒せば青火も役目を終えるから、盾へ渡せます」
話しているうちに、あの時の考えがもう一度つながった。爪を越えて三つ目へ行く。槍を届かせる。それから盾を出す。
実際にできた。それでもガランさんの顔を見ていると、できましたとは続けられなかった。
「槍が外れていたら?」
返事が止まる。
「届くまで、青火のままか」
「……そうなります」
「その間に、上から獣が来る」
水路の縁に立った四本脚を思い出した。あれを見上げた時には、白喰いはもう崩れていた。もし、まだ目の前にいたら。
「上からは、それが見えた」
ガランさんは両手を腰へ添え、僕の顔を見ている。
「お前が進めば、縄を引く兵も残る。ニルスも下がれん。お前一人で決めた先へ、ほかの奴も連れていくんだ」
長槍が二本、輪の中へ伸びてきた。あの時は、残ってくれたのだとしか思わなかった。僕が戻ることをやめたから、二人も戻れなくなったのだ。
「すみません」
今度は何も足せなかった。
ガランさんが門へ目を向ける。
「俺は笛を鳴らしてから下へ来た。門を開けさせるつもりだった」
壁の上から姿が消えていた理由が、そこで分かった。せっかく肩が治りかけているのに、また無理をさせるところだった。
「次に同じ音が鳴ったら、まず戻るために動け。自分の見えていない所も見ている奴がいる」
「はい」
ガランさんはしばらく僕を見ていたが、やがて短槍の穂先へ視線を下ろした。
「ただ、火を渡すのは速かった」
「え?」
「三つ目から槍。槍から盾。あそこで迷わなかったのはいい」
叱られたばかりで、どんな顔をすればいいか分からなかった。
「次も使え。だが、戻る方にも使え」
ガランさんはそれだけ言って、ニルスさんの所へ歩いていった。
短槍へ目を落とす。強くなったつもりだった。初めて白喰いから逃げた時より、できることは確かに増えた。
けれど今日は、僕の後ろで何人が足を止めたのだろう。何人の人を危険にさらしただろう。
あの底で戦っていたのは、僕一人じゃなかった。縄を握る手も、縁から伸びた長槍も、角笛を鳴らした人も、みんな同じ一つの動きの中にいた。次からは、それを忘れずに前へ出たい。
◇
「カイ、肩は動きますか」
セラに呼ばれ、隣へ腰を下ろした。槍を地面へ置いて腕を上げると、両肩に同じ重さが残っている。
「動くよ。しびれてはいない」
「盾を消した後も、痛みは残るのですね」
「うん。前にもあったから」
そこで言葉が止まった。前にはなかったものもある。
「最後の一本、見えた?」
セラが僕の肩から顔へ目を移した。
「ほかの線が消えた後に残ったものですか」
「そう。受けた重さが、そこに残ってるみたいだった」
胸へ手を当てた。門番の火は静かで、さっきの盾はもうどこにも見えない。
「二度、動いたんだ。それから消えた」
「私には、そこまでは見えませんでした」
セラは膝の上の鐘へ指を置いた。
「ただ、同じ音が二度返ってきました。盾が消えた後にも」
僕だけが感じたことではなかった。もう一度出せば何か分かるだろうかと考えて、肩へ置いた手を下ろす。今の僕には、誰もいない所で同じことが起きるのかさえ分からない。
紙片を出して、一本だけ残ったことと、二度脈打って消えたことを書いた。セラが聞いた音は、その下へ別に記す。受けたものが残ったのかもしれない。まだ返ったわけでも、次に使えたわけでもない。そこまで書き、続きを空けて紙を畳んだ。
門の向こうで爪が石をかく音がした。顔を上げると、セラも同じ方を見ていた。
「水路の火、まだ残ってるよね」
「はい。送れていません」
小さな青い欠片が灰の上に浮いていた。触れても名前は分からず、記憶も見えなかった。それでも、誰かが最後まで手放さなかったものだ。
「戻れたら、送ってくれる?」
「もちろんです」
セラはためらわずに答え、それから門へ目を戻した。
「ですが、今は出られません」
僕にも分かっていた。青火はもう出ないし、セラの指もまだ戻っていない。外の一体を避けながら、あの場所へ立たせるわけにはいかなかった。
それでも、倒した後なら送れると思っていた。倒せば終わるのだと、どこかで思っていたのだ。
父さんが戻ってきて、僕の前へ水を差し出した。
「飲め。帰るぞ」
受け取って飲むと、乾いていたのどが少し痛んだ。
今日は白喰いと灰の獣を一体ずつ倒せた。村で逃げることしかできなかった白喰いに、今度は自分の槍が届いたのだ。九人とも戻ってきたことを確かめてから思い返すと、水を飲んだ口元が少し緩んだ。
次は、戻る合図も守る。その上で、あそこまで行く。
「セラ」
立ち上がりかけた背中へ声をかけた。
「あの火を、置いたままにはしない」
「はい」
銀の鐘を抱え直したセラが、僕の横で門を見た。
戸は閉まっている。
その向こうで、残った一体がまだ歩いていた。
僕たちが戻ろうとしている道と、送り届けるはずだった火の間を。




