第五十一話 三歩の先
「灰の獣が現れた!」
ニルスさんの声が上から落ちてきた時には、体重はもう右足へ乗っていて、二つ目の足跡まではあと半歩しかなかった。止まるなら今だと思ったのに、目に入ったのは、振り切った先から戻ってくる白喰いの爪の方だった。
ここで引き返しても、胸に灯っているのは斥候の火のままだ。盾も青火も呼べないまま、姿の見えない獣のいる上へ、手ぶらで這い上がることになる。
違う。
三つ目まで行って、届く手を持ってから上がる。
「戻れません!」
底の石壁に跳ね返った自分の声は、思っていたよりずっと大きかった。
「三つ目まで行きます!」
ニルスさんが言い返した声は言葉の形にならず、その代わりに長槍が二本、輪の縁を越えて伸びてきた。穂先は突くために構えられてはいない。白喰いが後ろへ下がった時にそこで止めるための置き方で、上の二人が逃げずに残ってくれたのだと、その向きで分かった。
二つ。
線をまたいで、二つ目の足跡へ足を下ろす。どこへ置けばいいか、考えるより先に体が分かっていた。
狭い石壁の間で白喰いが六本脚の体を折り曲げると、こすれた灰の奥に黒灰色の細い胴がのぞき、その胸に青い火の絡みついた節が見えた。
あそこだ。
三つ目の足跡は、縄に取られた前脚の外側を回り込んだ先にあった。
爪が戻ってくるより先にそこへ踏み込み、槍の柄を立てる。横一文字の口は背中の側へ回っていて、この位置までは届かない。足の下で、三つ目の青がふっと消えた。
「道は、ここまで」
斥候の火が灯皿を離れていくのと入れ替わりに、呼ぶより先に槍兵の火が縁へ寄ってきた。
「次は、あなたの番だ。《青火纏い》!」
柄から穂先へ青い火が走るのと、白喰いが体をねじって後ろ脚を振り上げるのが、ほとんど同時だった。脇から一度、突く。
穂先は白い灰を押し分けもせず中へ沈んでいき、握った手に返ってくるのは、水の中へ棒を差し込んだような手応えだけだった。
その途中で、重さがふっと抜ける所がある。灰の奥の空洞だ。
抜けば灰が寄ってきて、開けた穴をふさいでしまう。僕は抜かずに膝を送り、柄ごと体を押し込んだ。
穂先の青が節に食い込んだ。硬いものが割れる手応えが腕へ抜け、青い亀裂の走った節が、二つに割れた。
白喰いの脚が止まる。
まとっていた白い灰が水路の底へ落ち、細い胴も胸の切れ目から崩れていって、横一文字の口は閉じたまま、二度と開かなかった。
「上だ!」
今度ははっきり聞き取れたニルスさんの声に顔を上げると、水路の縁に、灰色の四本脚が立っていた。
六本ではない。四本だ。
昼でも出るかもしれない、と朝に考えていた獣が、本当にそこにいた。何に寄ってきたのかは分からない。左右の兵が長槍を向けても、穂先は灰を押し広げるばかりで、奥の核までは届かない。
灰の獣が縁を蹴り、僕と、上がるための縄とのあいだへ、灰色の背を落としてきた。
戻る所が無くなった。
胸の中では、届かせ終えた槍兵の火が、もう灯皿を離れかけている。
「前へ。《退かぬ盾》!」
門番の火は、呼ぶと同時に応えた。声を出し終える前に、十本の細い線を持つ青い盾が正面へ広がっていた。
走ってきた勢いのまま灰の獣がぶつかり、一本目の線が光って、重さが両肩へ落ちてくる。それでも、崩れてくる土を支えた時ほどの重さはなかった。二本目が光ったところで押し返すと、前脚が空を切り、灰色の体が横へ流れた。
盾を消しても、一本目の線だけが残っていた。
灰の獣を受け止めた重さが、その線の中にまだ残っている。線は二度、内側から押し返すように脈打ってから、ほかの線と同じように消えた。今までに見たことのない消え方だったが、確かめている暇はなかった。
灰の獣は、まだ倒れていない。盾の役目が終わる前に自分で消したから、槍兵の火は灯皿へ寄ってこなかった。沈みかけたその火を、こちらから呼び直すしかなかった。
「もう一度。《青火纏い》!」
同じ穂先へ再び走った青は、刃の先へ届く前に一度揺れた。長くはもたない細さだと分かる。けれど相手は灰の獣で、核は一つしかない。探す必要はなかった。
右足を半歩、外へ置く。ガランさんに三日かけて教わった置き方で、足元のどこにも青い足跡は出ていない。
この一歩は、僕が決めた。
薄い灰の上から、首の付け根の少し下へまっすぐ入れる。細い青でも、核に届いた手応えは硬かった。乾いた音が柄を伝って割れ、灰は形を失ったまま崩れ落ちた。
膝が石へ落ちた途端、受けたぶんの重さが肩と指の付け根へまとめて戻ってきた。青い火は、たぶんもう出ない。水路の底には、白い灰と灰色の灰が、少し離れて二つ積もっている。
急に静かになって、自分の息の音ばかりが大きく聞こえた。
白い灰の間から、白喰いに食べられていた青い欠片が浮き始める。形へ戻ろうとする動きではなく、ばらばらの高さで揺れたまま、互いに寄り合おうともしない。どれも小さくて、名前も、最後に考えたことも入っていないように見えた。それでも消えずに、誰かの火だったものが、まだそこに残っていた。
「戻らない」
ニルスさんが石壁の上から長槍で灰を押したが、どちらも動かなかった。
「二体とも倒した。上がれ」
「やった……!」
声が出てから、自分が笑っているのに気づいた。膝は震えているのに、それでも笑っていた。
◇
町側の縁から結び目を作った縄が下りてきて、足をかけて登ると、足りないぶんは上から引き上げられた。灰が二つ積もっているだけだと分かっていても、縁を越えるまで下は見なかった。石壁の内側へ入るまで町兵は長槍を下げず、水路から全員が離れたところで、ようやく一人が息を吐いた。
「二体やったぞ。あの子が」
「喜ぶのは後だ」
ニルスさんは、骨の音が消えた北の方へ顔を向けた。
「角笛は二度だ。北はもう下がり始めている」
全員撤退。
あの二度の音は、底にいた僕にも聞こえていた。聞こえていて、それでも僕は三つ目まで行くと決めたのだ。
火を送れるセラは、僕たちと一緒に水路の町側にいる。けれど北からは、父さんと兵二人が、もう一体を後ろに連れて戻ってくる。
「火は残す。全員、町側へ向かう」
兵たちが水路の縄を引き上げ、風が吹くたびに鳴って別の獣を呼びかねない音具も、底から引き出した。線だけは底に残したままだったが、一度通した線は、墨が残っていてももう開かない。
両手を開いてみると、指の付け根は重く、肩も受けたぶんだけ痛んだ。それでも足はまだ動くし、爪も口も、一度として僕まで届いていない。
「動けるか」
「動けます。ただ、青い火はもう出ないと思います」
「分かった。問題ない」
ニルスさんはそれ以上、何も言わなかった。
「盾は」
「一度使いました。二度目なら、たぶん出ます」
「なら、使わずに済む形にする」
一体倒したからといって、二体目も倒せるとは限らない。そもそもこれは倒しに行く話ではないのだと、そこでやっと分かった。
「一体目は、僕が中へ入る役でした。次は、三人が戻る道を守ります」
「なら、退路を頼む」
振り向くと、門までの道に兵が一列に並び、真ん中だけが空けてあった。僕が戻る場所と、父さんたちを通す場所を分けてあるのだ。
北の畑道から、骨と小石の鳴る音が近づいてくる。畝の向こうで白いものが一度沈んではまた持ち上がり、その間隔は、走る足が土を蹴るのと同じだった。
先に見えたのは父さんで、その後ろを兵が二人、間を崩さずに走ってくる。三人のさらに後ろに六本脚の影があったが、走ってはいなかった。鳴っている方へ、歩いて付いてきているだけだ。壁が見える所までは鳴らし続けるという、昨日の部屋で決めた通りの戻り方だった。
壁の上へ目をやると、角笛を持っていたはずの人影がそこに無い。門の方へ下りたのかもしれなかった。
汗で滑る柄を握り直すと、胸の中では、役目を終えた青い火が灯皿を離れかけていた。呼べば、門番の火はもう一度来るはずだ。それでも今の僕は、ここに立っているだけで足りる形の中にいる。
決めた通りに動かなかったのは、今日一日のうちで、僕だけだった。




