第五十話 二つの音
朝、目を開けてすぐ胸を見た。
灯皿にいるのは斥候の火だった。三つ目のくぼみでは、槍兵の火が底へ沈んだまま動かない。役目を終えていないのに、順番の方は替わっている。
昨日の夜に書いた通りだった。
帳面を開き、まだ分からないことの欄の一行へ線を引く。役目が終わっていなくても、一日が終われば灯皿は空く。
どうしてそうなるのかは分からない。
思い当たるのは一つだけだ。
火の方が一日で区切りをつけていて、届いたかどうかとは別に、夜が来れば一度だけ手を放す。放したところへ、選んだ火が入る。何も選ばれていなければ、前の日の火がそのまま戻る。
選ぶところまでは僕だ。けれど、前の火が手を放さなければ、選んだ火は入れない。
線の下へもう一行足した。一度で決めない。今日でまだ一回目だ。
詰所へ入ってすぐ、ニルスさんより先にガランさんへ言った。
「選べていました。今日は《三歩の道》です」
「条件は満たしたな」
ガランさんはそれだけ言って、地図の方へ向き直った。
「二体は」
顔を上げないまま、続けて聞く。
「昨日と同じ所です」
答えたのは、夜明けに東門の上から見てきた兵だった。
「一体は石囲いのそば、もう一体は北の畑道です。夜のうちに動いた跡はありますが、どちらも戻っています。水路の底へは下りていません」
離せる位置にいる。それなら、昨日決めた形のまま進められる。
二つとも、朝のうちにそろった。
◇
東門の内側で、ザハルさんが全員を見回した。
「白喰いを倒しても、東の道が安全になるわけじゃない。だが二体を残せば、橋を見回ることも、村へ矢文を返すこともできん。決めた場所から外へ追うな。倒せなければ戻れ」
門の上でガランさんが角笛を握った。左腕はもう上まで上がるが、剣を振る許可はまだ出ていない。今日は戦わず、離れた二体と全員の退路を同時に見る役に徹する。
ニルスさんが、門を背にして僕の前へ立った。
「お前を水路へ入れるまでは、俺たちの仕事だ。勝手に前へ出るなよ」
「はい」
底で白喰いと向き合えば僕の目は前だけになり、振り向けばその間だけ爪から目が離れる。見ないのではなく、見られない。
「後ろは俺たちに任せろ」
ニルスさんはそれだけ言って、兵の並びを直しに行った。
白喰いが水路の石壁を越えた時。二体が離れなかった時。角笛が二度鳴った時。そのどれかで、戦わずに戻る。
灰の獣は今のところ見えないが、昼に出ないとは思わない。時間をかけすぎれば、別の獣が加わるかもしれない。
術者が門の線へ手を当てた。壁の術式は、開けた所だけが切れる。
「戻る時も同じだ。全員そろってから閉める」
ニルスさんが言い、術者がうなずいた。
門が開く。
外へ出てからは、誰も背筋を伸ばさなかった。
東の道は畑の間を抜けていて、畝が腰の高さまで盛り上がっている。そこへ体を沈めながら、一列で進んだ。金物は布で巻いてあり、槍の穂先は下へ向けたままだ。僕は列の真ん中に入れられている。
石囲いは南、北の畑道はもっと先で、どちらも水路からは離れている。それでも先頭のニルスさんは何度も足を止めて、白い山が動いていないかを確かめた。
見つかってから走るのと、見つかる前に着くのとでは、その後にできることが違う。
水路の縁まで、思っていたより長くかかった。
まず町兵が音具と縄を運び入れた。輪の中の底へ二本の縄をたるませて渡し、端を左右の石壁の上へ置く。縄には町で刻んだ札が挟んである。三本目は結び目を作って、町側の壁の内へ巻いた。
乾いた水路の底へ、音具が一つ下ろされる。獣の骨へ穴を開けて、小石と一緒に細縄で結んだだけの物だ。
結んだ縄の反対の端は、水路の町側の縁まで伸びている。
ニルスさんが縄を短く引くと、骨と小石が石を打って、乾いた木を割るような音を立てた。ここは水が流れていないので、引かないかぎり鳴らない。
水路の両側には、腰ほどの石壁が残っている。白喰いが中へ入れば、六本脚でも横へ向き直りにくい。
僕は石壁の縁から底をのぞいた。
昨日引かれた線は、聞いていた通り、近づかないと見えなかった。石の色とほとんど変わらず、日の当たっている所だけが、水を薄く流したように光っている。
底から壁へ上がり、壁を伝った後でまた底へ下りて、線は輪になって閉じていた。
その内側へ落とせば、白喰いは出られなくなる。
セラは水路の縁へ膝をつき、布を巻いたままの銀の鐘を横へ置いた。かざした手の先に、輪の端から出ている口がある。
「白喰いが中へ入ったら、ここから通します」
父さんたちは畝を伝って、そのまま北へ回っていった。大きい方の音具は父さんが背へ回している。
僕は水路の縁で、短槍を握った。
東の道の先に、白い山が二つあった。
一つは石囲いの手前、もう一つはずっと北の畑道の方で、どちらもこちらへ背を向けたまま動かない。遠すぎて六本脚の形までは分からず、白さだけが土から浮いて見える。
それでも、青い点はいくつも見えた。灰の獣なら核は一つで、見えるのも一つだ。白い中で散らばっているということは、どちらも残火を食べている。
一つ一つが、誰かの残した火だ。名前は分からない。名簿の三つ目の欄に書いた十一人のうちの誰かかもしれないし、百年前からここにいた誰かかもしれない。
今それを確かめる方法はない。倒してから、セラが送る。
ほかの人には、灰の中は白いだけのように見えるらしい。
柵で戦った灰の獣は、灰を押し広げれば核まで槍が届いた。そこだけ手応えが抜ける。目で見えるものではなく、槍を通して分かる。
ただし、押し広げたのは兵で、核を潰したのは僕だった。
白喰いは違う。食べた欠片がいくつも入っていて抜ける所も一つではないから、一つ突いただけではたぶん倒れない。
灰の獣なら、僕が火と呼ぶ場所と、兵が空洞と呼ぶ場所は同じになる。白喰いでは、僕の方がいくつも多く見えている。
「見えるか」
「二体とも、残火を食べています」
「一体目を倒しても、火へ寄るな。もう一体が戻る」
「はい」
水路の底へ目を落とす。輪の縁がどこを通っているかは、上からなら分かる。
線の内側へ入るのは、突く時だけだ。
《継火》で青い火へ渡してしまえば、届かせるまで戻れない。
水路の中へ下りるのは僕だけで、兵は立たない。左右の二人は縄の端を握り、長槍は足元へ置いている。もう一人は僕の退路を見て、結び目のある縄を持つ。
白喰いを倒す役と、僕を戻す役を同じ人へ重ねない配置だ。
壁の上でガランさんが右手を上げると、北の畑から父さんの鉤棒が一度だけ光を返した。あちらも位置へ着いた合図だ。
角笛が一度、短く鳴った。
◇
最初の音が畑の向こうから聞こえ、白い灰の山が二つ反応する。骨と小石が続けて鳴る、乾いた音だった。石囲いのそばに伏せていた白喰いも、六本脚を伸ばして立ち上がった。
一体は村で見たものと同じくらいで、もう一体は少し小さい。それでも横一文字の口は僕の肩幅より広く、前脚の爪が土へ三本の線を引く。
村で初めて会った白喰いは、僕の背中へ三本の傷を残した。あの時は灰の奥に何がいるかも分からず、逃げる足場を探すだけだった。
今日は違う。細い本体がいることも、青い刃ならその奥へ届くことも知っている。
あの日、僕にできたのは村の柵まで走ることだけだった。走った先で、大人が代わりに立った。
今日は、僕が白喰いの前に立つ。
怖くないわけではない。それでも、あの底へ下りられるのは僕だけだ。
北の音が間を詰めて鳴り続けると、二体が畑道の方へ走り出した。
「今だ」
ニルスさんが縄を引く。
骨と小石が水路の石を打った。二度。
後ろの白喰いが急に向きを変えるが、前の一体は大きい方の音具のすぐ横にいて、振り向きもしない。
「離れた!」
ガランさんの声が、壁の上から落ちてきた。
もう一体は北の音を追い、畑の畝へ隠れていく。父さんたちの姿も見えなくなり、骨の鳴る音だけが遠ざかった。
ニルスさんが縄を短く引き、音具を水路の奥へずらす。
白喰いが底へ飛び下りると、六本脚が狭い石壁の間へ入り、白い背中が細くなった。
輪の縁を越えた。
「入りました。通します」
セラが縁で膝をつき、両手を線の口へ当てる。
三つ数えるあいだ、何も起きない。
それから、底の石を伝って細い光が走った。輪の形が一度だけ浮かび、すぐ石の色へ戻る。
「開きました。六十を数えます」
音を失った白喰いが頭を左右へ振り、次に僕たちの足音を拾った。
石壁へ前脚をかけようとして、届く手前で止まる。爪が空をかき、白い体がねじれて足を踏み外した。
もう一度。今度は反対側だ。同じ所で止まり、同じように落ちる。
登れないのではなく、触りたがらない。老婆の言った通りだった。
「効いてます!」
叫んでから、それが自分の声だと気づいた。
左右の兵は、足元の長槍ではなく、縄を握りしめた。
「縄!」
ニルスさんの声で、二人が同時に端を引いた。たるんでいた二本が底から持ち上がり、前脚を根元で締める。
白喰いが前へ出ようとして、その場で止まった。
輪の中で、前へも横へも出られない。
胸の奥で、槍兵の火はもう縁へ引っかかっていない。三つ目のくぼみに収まり、静かに待っている。
先に呼んだのは、斥候の火だ。
「輪の外から、あの体へ届く三歩。《三歩の道》!」
三つの青い足跡が現れた。一つ目は輪の手前の底。二つ目は縁のすぐ内側。三つ目は、前脚の外を回った先、胸の脇にある。
足跡が示すのは、届く道であって、勝ち方ではない。あそこまで入っても、槍を外せば倒れない。
「道が出ました」
「三つ目はどこだ」
「輪の中です。あそこまで入れば、槍が節へ届きます」
言ってから、自分の声が思ったより低いことに気づいた。
「行け」
ニルスさんが半歩下がって、前を空けた。
水路の底へ下りて一つ目を踏むと、石の冷たさが靴の裏から上がってきた。
壁の上から、セラの声が降りてくる。
「十」
六十のうちの十は、もう無い。
逃げるためではない三歩が、白い爪の先へ続いている。
その一つ目の上で、白喰いが前脚を振った。
爪が胸の前を通る。ここでは槍を振らない。右の石壁へ肩を寄せる。
二つ目の足跡は、輪の縁のすぐ内側にある。爪が戻りきる前なら、越えられる。
体重を右足へ移した。
その時、頭の上で角笛が鳴った。
一度。
二度。
全員撤退。
昨日の部屋で決めた二つのうち、重い方だった。




