第四十八話 先に引く線
補修方を呼びに行った兵が戻ってきたのは、それから間もなくだった。
連れてこられたのは、小柄な老婆だった。背は僕より少し高いくらいで、袖を肘までまくっている。今は治癒方の手伝いで布を洗ったり薬を運んだりしているが、若いころは壁を直す組にいたのだという。
机の地図を見て、水路の線を指でたどってから、こう言った。
「灰よけなら引ける」
「灰よけ?」
「壁はな、置いておけばずっとそこに立っている物ではない。石は緩むし、雨で目地が抜ける。直さねばならん時が来る。だから壁を大きく直す時に、一時だけ使う補修用の術式線があるんじゃ」
老婆が、机の上へ指で長い線を一本引いた。
「石をはがして積み直す。その時、その区間だけ術式が切れる。切れている間は、獣が寄ってくる」
老婆は、引いた線の真ん中を指で押さえた。
「だから直す所へ、銀墨で線を引いておく。直し終わったら拭き取る。それだけの物だ」
撃退のための術ではなかった。壁を直している間、その場所を一時的に守るための物だ。
「効くんですか?」
「効く。何十年もそうしてきた。効かなけりゃ壁は直せん」
老婆は、引いた線の端から端まで指を滑らせた。
「言っておくが、線は長いほど強い。短く囲えば、それだけ薄くなる」
灰の獣に効くことは、確かめられている。確かめたのは戦いではなくて、補修の記録の方だった。
「その銀墨というのは」
「町で練る。銀を挽いた粉を、松の脂と灰で混ぜる。他にもいろいろ混ぜるが、よそでは作っとらん」
老婆は腰の袋から親指ほどの筒を出して机へ置いた。栓が蝋で固めてある。
「壁の一区間ぶんで、これが三本いる。まだ多少の在庫はあるが、限りがあるからな。何本も使えんぞ」
筒を机へ置いた指が、そのまま地図の町の壁をたたいた。
「それと、町にとって一番大事なのはこの壁じゃ。墨は壁のためにある」
「灰に対して、具体的にはどういう効果があるんですか?」
「取り付かせん」
老婆が掌を立てて、指の腹をこちらへ向けた。
「登れんのではない。触りたがらんのだ。面へ寄ってこん。だから上がってこられん」
「水路にも、その線を引けますか?」
「壁の一部と床じゃな」
老婆は、地図の水路の線を指の腹でなぞった。
「ここまで来る間に、だいたいの話は聞いた。あの獣を、一か所へ留めておきたいんじゃろう」
「……はい」
「それなら、床から壁、壁からまた床へ、ぐるっと一続きに引く。輪じゃ」
老婆は、水路の線の途中へ小さな輪を一つ描いた。
「腰の高さの石壁だけでは、あの図体には低すぎるからな。さっき言った通り、分けて引くより一続きの方が強い」
「輪の中へ落とすんですか?」
「落とすのが先じゃ。中へ入ってから通す」
通すまでは、ただの墨だ。獣は気にせず入ってくる。入った後で通せば、内側からも線へ触れられなくなる。
出られなくなる。
「僕はどこにいればいいですか?」
「輪の外じゃ」
老婆が、描いた輪の縁を指で押さえた。
「線はおまえには効かん。獣にだけ効く。外に立って、突く時だけ入ればいい」
輪の中に白喰いがいて、僕は外にいる。あれは出られないし、僕は入れる。
閉じ込めるための線だ。守るための線ではない。
「入っている間は、守られませんね」
「守られん」
老婆は、そこをごまかさなかった。
「輪の中は、獣と同じ場所じゃ。入って、突いて、出る。それだけを速くやれ」
壁にも線が回るなら、輪の上に立てば安全なのでは、と一瞬思って、すぐ消えた。
背中の灰は変わらず厚い。上からでは、どのみち届かない。
「効き目は、どれくらい持ちますか?」
「開いてから、六十数える間ほどじゃろう」
「……かなり短いですね」
「壁を直す時は、一区間ぶんの長い線が引ける。長けりゃ、その分だけ持つ」
老婆は、地図の水路の線を指で挟んだ。
「そこはこれだけの長さじゃ。六十というのも、わしの見当でしかない」
「一度引いたら、何度も通せますか?」
「通せん。一度きりだ」
老婆は、机の上の筒を指の背で軽くたたいた。
「効いた後、線は死ぬ。墨は残るが、術式としては終わっとる。もう一度使うなら拭いて引き直す」
「引き直すのに、どのくらいかかりますか?」
「町の壁の一区間なら、日が傾くくらいじゃ」
老婆は、地図の水路の線を指で短く区切った。
「そこの長さでも、引くのに半刻。乾くのに、同じだけ待つ」
合わせて一刻。獣を前にして引き直せる長さではない。一度の作戦で、一度きりだ。
「乾いた後は、消えやすいんですか」
僕が聞くと、老婆は指の腹で机の線をこすった。乾いた墨は、爪の跡もつかない。
「乾けば石へ食い込む。雨で流れるようなら、壁の補修に使えんじゃろう」
言われてみればそうだ。壁は外にある。
「物が上を滑るくらいでは、どうもならん。落とすなら水と布で擦る。それでようやく落ちる」
老婆は、机へ引いた線を指の背でもう一度たどった。
「引く前と、乾いた後じゃ。心配する所が違う」
一刻のうち、危ないのは前の半分だけだ。乾いてしまえば、夜が来ようが雨が降ろうが線は線のままでいる。
「それに、発動には魔力がいる」
老婆は、机の上の筒へ目を落としたまま続けた。
「引く手間、墨、通す者。三つそろわんと動かん。持ち歩いて振り回す道具ではないな」
そうか、と思った。
板にでも書いて持ち歩けば、いざという時に出せて便利だと考えていた。けれど、書けたところで通す者がいなければ何も起きない。持ち歩けても、使えない。
「白喰いには効くのか」
ニルスさんが、地図から目を上げずに聞いた。
「知らん」
老婆は、あっさり首を横へ振った。
「壁を直している間に来るのは灰の獣だけだ。おまえらが白喰いと呼んでいる獣は、直しの現場で見たことがない」
「壁へ来たことはあるのか」
「ありません」
答えたのは、壁の見張りをしている兵だった。
「壁へ来るのは灰の獣だけです。白喰いは、村の方と東の道でしか見ていません」
部屋が黙った。
同じ灰をまとっていても、同じ物だとは誰も確かめていない。
「少し、鳴らしてもいいですか?」
セラが布を取って、銀の鐘を机の上へ出した。
「その墨で、短い線を一本だけ引いてもらえますか。効かない長さで構いません」
老婆が栓を抜き、机の隅へ指の長さほどの線を引いた。線の端に、丸を一つ足す。
「ここが口じゃ。魔力はここから通す。線を端からなぞるわけではないぞ」
乾くのを待って、術者が丸へ指を当てた。
セラは鐘を近づけ、鎖を短く持ったまま、一度だけ振った。
澄んだ音が鳴って、すぐ消える。その後に、消えたはずの音がもう一度、短く返った。
僕には音の意味が分からない。分かったのは、セラの指が鎖の上で止まったことだけだ。
「返りました」
セラが、鐘を持った手を下ろさないまま言った。
「私の鐘と、似た返り方をします。石でも木でもなく、灰へ届く音です」
「同じ物か」
「似ていますが、ずっと弱いです」
セラは鐘を膝へ戻し、布の端をそろえてから続けた。
「これで灰をはがすことはできません。私が三度鳴らしてようやくはがれるものを、この線ではできないと思います」
鐘は白喰いの灰をはがせる。この線は、はがせない。それでも、同じ所へ届いている。
「白喰いに効くと言えるか」
ニルスさんが、今度はセラの手元を見ながら聞いた。
「灰の獣のように完全に追い返せるかは分かりません。でも、少なくとも効果はあると思います」
セラは、そこを曖昧にしなかった。
「墨は足りるか」
ザハルさんが、腕を組んだまま聞いた。
「壁と床をつなぐとなると、一本では足りん」
老婆が、腰の袋の中身を思い出す顔で指を折った。
「倉から持ち出せば足りる。ただ、残りはわずかになる。何度も試せんぞ」
「いつ引きに行く」
「今日じゃ」
老婆は、当たり前のことのように言った。
「明日の朝から引いたのでは、乾く前に獣が来る。一刻かかるんじゃぞ」
「今、二体とも外にいます」
僕が言うと、ニルスさんが地図の東側を指した。
「石囲いと、北の畑道だ。水路からは離れている。跡を見ながらなら入れる」
「兵を四人つける」
ザハルさんが決めた。それから、部屋の入口に立っていた兵の方を向く。
「日が暮れる前に戻れ。線を引くだけだ。獣が寄ってきたら、引かずに戻れ。この人を無事に連れ帰ることが先だ」
「頼もしいのぅ」
老婆が、部屋の誰にともなく漏らした。
「それで、術式に魔力を通す方はどうする」
ニルスさんが、部屋の隅に立ったままの術者へ目を戻した。
「誰でも通せるわけではありません」
術者は、自分の手を一度開いて閉じてから言った。
「その術式を分かっていて、通す訓練をした者でないと、線は開きません。私は門から離れられない。ほかの者は、その日の魔力を怪我人へ使い切っています」
「では」
「私がやります」
セラが声を上げた。
全員がそちらを見る。セラは鐘から手を離して、膝の上でそろえた。
「術式を引くのは、私にはできません。でも、私の鐘の波長に近いなら、魔力を通せるかもしれません」
「見習いだろう」
「教わった術は少ないです。ただ、魔力の操作のたしかさと、持っている魔力量は、褒められたことがあります」
術者が薄い銅板を一枚、机へ置いた。
「では、これで試してみてください」
「銅ですか?」
「銅は魔力を通しにくい。石より難しくなります。また難しいぶん、必要な魔力も多くなる。ここへ通せるなら、水路の石でも通ります」
老婆が銅板へ、短い線を一つ引いた。乾くのを待って、術者が印をなぞる。
セラが、袖を肘の上まで押さえてから、両手を板へ当てた。
一度、指が滑るように動いて、止まる。息を一つ吸って、そこから動かなくなった。
三つ数えたところで、線が淡く光った。
術者が板を裏返し、もう一度表を見る。
「……通っています」
「もう一枚、いけますか」
「何枚でも」
言ってから、セラは少しだけ首をすくめた。
「量だけは、昔から言われていました。使い方を教わっていないので、あまり役に立ちませんでしたけど」
「役に立つ」
ガランさんが、机の端から短く言った。
「術式線は補修方が引く。魔力を通すのはセラだ。それでいいな」
「一つ聞いていいですか?」
僕は、机の上の銅板を見ていた。銀墨の線は乾いて、板とほとんど同じ色になっている。
「その墨は、石にも銅にも引けるんですね」
「木にもな」
老婆が、筒へ栓を戻しながら言った。
「乾く前に触らなければ、板でも柱でも同じだ」
村の柵は、木だ。
柵には術式が届かないと、壁の上で兵が言っていた。村の柵も同じで、届かないのは柵だからだと思っていたけれど、そうではなかった。線が引かれていないだけだ。
「村の柵にも引けますか?」
部屋が、一度静かになった。
「引ける」
答えたのはザハルさんだった。
「墨がいる。引ける者がいる。通せる者もいる。三つそろえば、どこでも引ける」
三つ目は、僕の横にいる。
「墨は壁のために使うと聞きましたが」
「そうだ。今は壁のぶんで手いっぱいだ」
ザハルさんが地図の東の端を指した。橋の落ちた所だ。
「材料が入れば、練る量も増える。入ってこんのは、道が閉じているからだ」
東の道が閉じているから、村からの材料が入らない。材料が入らないから、墨が足りない。墨が足りないから、壁の一区間も直せないし、村の柵にも回ってこない。
全部、同じ一本の道につながっていた。




