第四十七話 二つの円
馬小屋を出ると、ガランさんは朝のことをニルスさんへ話しに、詰所の方へ歩いていった。
僕は書いたばかりの帳面を抱えたまま、少し離れて後ろをついて歩いた。
途中で二度、さっき書いた所を開き直した。渡せた、渡せなかった、と並んだ二行は、昨日までの帳面には無かった形だ。
できることの下へ、できないことが同じ大きさで書いてある。
指の付け根の重さは歩いているうちに薄れていき、代わりに、書いた二行の方が重くなっていった。
昼前、評定の部屋へ呼ばれた。
届く刃は、もう借り物ではない。けれど朝に分かったのは、届かせる場所を先に決めておかないと使えず、そのためにはどこに何がいるかを先に知らないといけない、ということだった。
地下道は一本道で、左右には逃げ場がない。中で決め損なえば、そこで終わる。入る前に、外の道を空けておかないといけない。
ガランさんに言われた三つのうち、一つ目もまだ果たせていない。次は柵がなく、今日以上の敵だ。必ず退路を用意しろ。
東の道が通れなければ、地下道から下がった時に逃げる先がない。村へ薬草を取りに行くことも、町から薬を届けることもできない。墓喰らいを倒した後で村へ着いても、その時に運ぶ道がなければ意味がない。
だから今日決めておくのは、退路の方だ。
そもそも今日は出られない。朝の検証で足場の火も青い火も使い切ってしまって、僕には出せる火が一つも残っていなかった。
机の上へ広げてあった東の地図に、ニルスさんが二つの印を置いた。
「あんたたちが白喰いと呼んでいる獣の跡は、今朝もあった。大きさが違う。一体は橋へ続く道、一体は石囲いの残火の周りだ」
父さんが、村へ返す手紙の入った革袋を見た。
「こいつらを残せば、東の見回りも矢文も続かん」
「橋を直す人も近づけません」
セラが、地図の東側から目を離さずに言う。
「白喰いは残火を追います。石囲いの火へ寄った可能性があります」
そう続けて、膝へ置いた銀の鐘を布の上から押さえた。
「あの火を送れば、離れるのか」
ニルスさんが聞いた。
「白喰いが既に取り込んでいなければ。ただ、近くで鐘を鳴らせば、二体とも音を追います」
「一度にどちらも相手はしない。一体ずつ確実に潰す」
父さんが言い、ガランさんが地図の東側を掌で押さえた。
「まず二体を離す。片方は北へ連れていく。もう片方は、別の所で止める」
「別の所」
「そうだ。止める場所がいる」
「囲めばいいのでは」
「あれは六本脚で走る。四本の獣より速いし、向きを変えるのも速い。開けた所でやれば、追いつかれて終わりだ」
ガランさんは掌を平らにしたまま、地図の上を一度なでた。
「東の道に、足を取られるような所はないか。起伏でも、崩れた壁でもいい」
そこで、ニルスさんの方を見た。
「一つある」
ニルスさんが炭筆を取って、東の道の途中へ短い線を引いた。
「乾いた水路の跡だ」
「そこはどういう場所なんですか?」
僕が聞くと、ニルスさんが石壁の線を指でなぞった。
「地図に引くと道と変わらんが、実物は狭い。底へ立って両手を広げりゃ、左右の石壁へ指が届く」
「水は流れていないんですか?」
「とうに流れとらん。乾いた砂と、崩れた石が残っているだけだ」
ニルスさんは、線の両側を指の腹で挟んだ。
「その石壁が腰の高さで残っている。あの間へ落とせば、横へ向き直れん」
六本脚は、幅がないと方向を変えられない。石壁に挟まれれば、前と後ろへしか動けなくなる。開けた畑の上より、よっぽど動きを把握しやすい。
「それなら使えそうだな」
ガランさんが、机の上へ身を乗り出した。
「ただ、どうやっておびき出すか」
ニルスさんが、地図を見たまま独り言のように言った。
「音具を使え」
ガランさんが言った。
「白喰いは音につられる。骨に穴を開けて、小石と一緒に細縄で結ぶ。それだけの物だ。古戦場で水路へ投げて、白喰いを置き去りにしたことがある」
ニルスさんが、地図から顔を上げた。ガランさんの顔を、何かを確かめるように少しだけ長く見てから、口の端だけで笑う。
「王国騎士団の『盾撃のガラン』が、骨と小石か」
「盾なら、古戦場に置いてきた」
ガランさんはそう答えてから、壁に立てかけてあるニルスさんの長槍へ目をやった。
「隣の隊の連中が、あんたの槍の前には立つなと言っていた。町の門を任されているなら、町は安心だな」
「昔の話だ」
短いやり取りだったのに、部屋の空気が少し変わった。
セラが、小さく息をのんだ。
「……盾撃。北の詰め所で、何度も聞いた呼び名です」
僕にだけ聞こえる声だった。古戦場で初めてガランさんに会った日、セラは名前を聞いただけで、北の街道の戦で盾一枚で敵を押し返した騎士だと言い当てていた。その騎士の呼び名を、町の兵の口から聞くことになるとは思わなかった。父さんも二人を見比べてから、何も言わずに地図へ目を戻した。
二人は、前から互いを知っている。どこで、どう知り合ったのか聞いてみたかったが、ガランさんはもう水路の線を指でなぞっていた。ニルスさんも地図へ目を落としたまま、続きを話そうとしない。二人とも、昔の話はここで終わりだという顔をしていた。
盾撃と呼ばれていた頃のことも、騎士団を離れた理由も、僕はまだ何も知らない。いつか、ガランさんは昔の話をしてくれるのだろうか。
……今考えるのは、白喰いをどう落とすかだ。僕も考えを地図の上へ戻した。骨と小石には、覚えがある。ガランさんが村へ着いた日、水の流れが骨と小石を鳴らし続けている間に、その場を離れたと話していた。救出の時に持っていた最後の一つは、十一人で帰る日に使い切っている。
「あそこは水が流れていました」
「ここは流れとらん。だから縄を長く取って、外から引く」
ニルスさんが水路の底へ、短い印を一つ描いた。
「投げて、少しずつ引き戻すか」
「そうだ。音が底を動く。追って下りてくるはずだ」
ガランさんは、水路の線を端から端まで指でなぞった。
「地図を見る限り、かなり長いな。両側が壁だ。音が動く先も限られる。思わぬ方へ逸れることがない」
「北の方も同じ物でいけますか?」
僕が聞くと、ガランさんはうなずいた。
「大きく作れ。あちらは鳴らし続ける役だ」
人が下りていれば、白喰いは音を追って下りてくる。物が、人より大きい音を立てるなら、そちらへ行くだろう。
鳴る場所が二つになる。音が似ていてもいい。どちらが近いかだけが重要だ。
ザハルさんが地図へ指を置いた。北の畑道と、乾いた水路。二つの円を描いてから、その間にある壁の線を軽くたたく。
「よし、落とすところまでは、これでいい」
ザハルさんは指を止めたまま、しばらく地図を見ていた。
「問題は、白喰いを落とした後、どうやって仕留めるかだ」
誰も言い返さなかった。
底へ落とせば横へは向き直れない。けれど前と後ろは空いている。六本脚は、狭くても前へは出られる。長槍で押さえるといっても、押さえているのは石壁の外に立つ二人だけだ。
「上から突くのでは駄目ですか?」
僕が聞いた。石壁は腰の高さだ。上に立って下へ向けて突けば、底へ下りなくて済む。
「灰が一番厚いのは背中だ」
ニルスさんが言った。
「上から入れれば、まずそこを抜くことになる。柵で十四体やった時も、上から入れた穂先は途中で止まっている」
「だから狙うなら……」
言いかけた僕を、ニルスさんが引き取った。
「前脚の外と、口の脇だ。あそこは薄い。お前が柵で入れたのも、全部そこだろう」
「どうして、そこだけ薄いんですか?」
「おそらく、動く所には灰が乗りづらいんだろう」
ニルスさんが、自分の肩と顎を順に指した。
「脚の付け根も、口の端も同じだ。厚く積もれば、開くたびに割れる。背中は動かんから、いくらでも積もる」
言われて思い出した。僕が穂先を入れたのは、首の下と、ぶつかって離れる一瞬の隙間。上から刺したことは、一度もない。
「それに、あの壁は腰の高さだ」
ガランさんが続けた。
「六本脚が前脚を掛ければ、上に立っている者へ届く。底で身動きが取りにくいぶん、多少はましだろうが、安全ではない」
石壁の上は、長槍を出す所であって、立って戦う所ではなかった。
「下りて仕留めるのであれば、刃を届けられるカイだな」
「はい」
「その一人が十二歳だ」
ザハルさんは僕を見ずに言った。
「逃げ場のない所へ子どもを下ろして、押さえるのは外からの二人。届かなければ、こちらから手の出しようがない。ここまで詰めても、危険が残る」
父さんは何も言わなかった。言い返さないのは、同じことを思っているからだ。
「ほかに案のある者は」
僕は地図の水路を見ていた。両側に石壁がある。石壁。
「町の壁は、灰の獣が上がってこられないようにしてありますよね」
顔を上げると、何人かがこちらを見た。
「あれと同じ物は、水路にはできませんか」
部屋の隅にいた術者が、首を横へ振った。この二日、東門の線を開け閉めしていた人だ。
「同じ物にはなりません。町の壁は、石を切り出す所から術式に合わせて作ってあります。水路の石は百年前の物で、しかも崩れかけている」
「そうですか……」
「ただ」
術者は、言い切ってから言い直した。
「似た物ならあります。私の受け持ちではありませんが」
ザハルさんが顔を上げた。
「補修方か」
「はい。呼びますか」
ザハルさんがうなずき、兵が一人、部屋を出ていった。
机の地図には、白喰いと向き合う場所に、二つの円が描かれていた。




