第四十六話 三つの約束
朝、目を開けてすぐ胸の三つ目へ意識を向けると、くぼみの底に青いものが沈んでいた。昨日そこへ収まった時のままで、縁へ引っかかって揺れてはいない。息を一つ吐いてもう一度確かめても、二度目は同じだった。
《灯名帳》を開き、《青火纏い》のページへ、収まった、と一行足して日付を入れた。
その下のページには、前に写した三つの約束がある。ガランさんが西門の話をした日、紙へ書き取って、後から帳面へ移したものだ。
一つ。次は柵がなく、今日以上の敵だ。必ず退路を用意しろ。
二つ。あの青い火は四十で消える。二度目は弱く、三度目は出ない。地下であの数を相手にして、二度で足りると思うな。進む前に、正確に状況を把握しろ。
三つ。墓喰らいは、やられた手を覚える。青い火を見せれば、次はそれを塞いでくる。使うなら、一度で終わらせる形を先に作れ。
はい、約束します、と答えたのは僕だ。三つとも、まだ果たしていない。
◇
詰所へ行く前に馬小屋の前を通ると、まだ来るはずのない時刻なのに、ガランさんが柱へ寄りかかって待っていた。呼ばれた覚えはない。
「収まったそうだな」
「はい」
「なら二つ目を読め」
帳面を開いたまま、前に書き写した文字を目で追って答えた。
「あの青い火は四十で消える。二度目は弱く、三度目は出ない。……進む前に、正確に状況を把握しろ」
「今のお前の状況を言え」
「火は三つです。使えるのは一つずつ。役目が終われば、眠らなくても次へ渡せます」
「渡したことがあるのはどれとどれだ」
答えようとして、口が止まった。
斥候の火と門番の火の間では、西門で一度、広場で二度渡している。数えられる。
槍兵の火へは、一度もない。柵の内側で使った日は、まだ借りている火だった。
「……三つ目へ渡したことは、ありません」
「昨日までのそれは、借りていた火だ。借り物なら、渡すも何もない。今日からは違う」
ガランさんは、土がむき出しになった床を一度見てから、馬小屋の柱へ背を預けた。
「試していないものを、できることの数へ入れるな。それが二つ目だ」
◇
馬小屋の奥は、崩れた柱が二本、土の上へ倒れたままになっている。訓練で壊してもいい場所として借りているから、片づける人もいない。
その手前に立って、倒れた柱の間を抜けて向こうの壁際へ出る三歩、と願いを決めた。
(《三歩の道》!)
青い足跡が三つ浮いた。一つ目は柱の手前。二つ目は柱と柱の間の、土が固い所。三つ目は壁際だ。
自分で踏む。一つ、二つ、三つ。
壁際に着いて後ろを見ると、足跡は薄くなっていった。広場で確かめた時と同じだ。あの時も、示した道を自分で踏むまで火は動かなかった。
「道は、ここまでだ」
声に出すと胸の中で壁の火の一つが暗くなり、そのまま槍兵の火へ手を伸ばした。
来ない。
斥候から門番へ渡した時は、こちらが呼ぶ前に寄ってきた。今度は間が空いて、火の方が僕を見ている、と思うくらいの長さがあった。借りていた時には、この間はなかった。
やがて灯皿の縁へ、青いものがゆっくり寄った。
「出してみろ」
ガランさんが短剣を、柄の方から差し出した。
(届いてほしい。《青火纏い》!)
握ると、刃の縁を青い火が細く走った。
「出ました」
「数えているか」
うなずいた。
途中から数え始めていたから正しくはないが、数え直せばその分まで分からなくなるので、やめた。
「消える前に盾へ渡してみろ」
言われて火を見たが、まだ何も突いてはいない。
胸の中へ、役目は終わりました、と言おうとして、終わっていないから言えなかった。
門番の火は動かない。灯皿の縁も動かない。青い火だけが、刃の縁に細く残ったままだった。
「動きません」
「理由は」
「……届いていないからです」
槍兵の火が引き受けているのは、届かせることだ。何にも触らないうちに終わりましたと言うのは、道を出しておいて誰にも通らせずに消すのと同じだった。
やがて青が短くなり、四十を過ぎた所で刃の先から消えて、指の付け根が内側から押された。
「書いておけ」
ガランさんが、こちらの手元から目を離さずに言った。
「突く前に盾は出せん。突いた後なら出せるかもしれんが、それも今日は分からん。分からんものを、できることの数へ入れるな」
帳面へ、渡せた、と、渡せなかった、を並べて二行書いた。
「もう一つある」
ガランさんが、さっきまで青い足跡の浮いていた辺りへ目をやった。
「今、槍の火は役目を終えずに消えた。もう一度出せるか」
(もう一度。《青火纏い》!)
短剣を握り直して指へ力を入れると、青は戻ってきたが、前より薄い。
「出ます。二度目です。前より薄いです」
ここは前に確かめた通りで、この小屋で三度出した日も、柵の内側で出し直した時も、二度目は弱く、三度目は来なかった。同じ火を続けて呼べば弱くなる。それは数えてある。
「なら盾はどうだ」
薄い青を灯したまま、もう一度、門番の火へ声をかけた。
動かない。薄い青は刃の縁に細く残ったままだ。
「……変わりません。二度目でも、何も反応がありません」
「まだ消すな。もう一つ試す」
ガランさんが、掌を上に向けて手を出した。
「それを俺へ渡せ」
柄を先にして差し出すと、ガランさんの指が柄へ掛かって、僕の指が柄から離れた。
その瞬間に、青が消えた。
薄くなったのでも、短くなったのでもない。刃の上から無くなった。ガランさんは短剣を目の高さまで上げ、両面を見てから柄をこちらへ返す。
「何も残っとらん」
受け取り直して、指へ力を入れた。火は来ない。
「三度目です。もう出ません」
握った手から届く相手が伝わってくる、と初めの日に言った。伝わってくるのは僕の手にだけで、手が離れれば、刃はただの短剣に戻る。
この火は武器へ移るのではない。武器を握っている僕から出ている。
そこまで考えて、別のことに気づいた。
ガランさんには、青が消えたことが分かった。柵の内側で短槍へ灯した時も、隣にいた兵が息をのんだ。この火は、みんなに見えている。
盾も同じだ。地下道でも西門でも、あれは僕以外の目に映っていた。
斥候の火の足跡だけが、誰にも見えない。父さんは足跡の無い地面と僕の顔を見比べたし、セラは僕の言葉だけを頼りに足を置いた。
違いは何だろう。
三つとも同じ胸のくぼみから出ていて、同じ青をしている。それなのに、一つだけが僕の中に留まったままだ。
分からない。まだ分からないことの欄が、また一行増えるだけだ。
それに、今日確かめに来たのはそこではない。
同じ火を何度出せるかは、前に数えた。確かめていなかったのは、その火から降りられるかどうかの方だ。
槍兵の火が引き受けているのは、届かせることだ。届く相手は灰と、その中にある核の火だけで、木にも石にも何も起きない。この小屋で柱と小石を押した時、何も起きなかったのはそのためだった。
だから、灰の中の火へ届くまで、この火の役目は終わらない。終わらないから、他の火へは変えられない。
一度渡したら、届かせるまで降りられない。
炭筆を持ったまま、指が止まった。
朝に灯っている火は、使うまで待っていられる。今日だって、いつ足場を出すかを決めたのは僕で、使う所まで来てから出せばよかった。一つ目は、そういう火だ。
渡した先は、そうならない。
足跡が薄くなったあの時、寄ってこられる火は門番の火と槍兵の火の二つあって、どちらへ渡すかを、あの一瞬で決めなければいけなかった。槍兵の火へ渡してしまえば、灰の核へ届くまで戻れない。
一つ目は、使う時まで持っていられる。二つ目は、渡す一瞬で決まって、そこから降りられない。
しかも、届かせる手は僕の手しかない。誰かへ刃を預けて代わりに突いてもらうことはできない。
「顔が変わったな」
「……渡す先を、渡す前に決めておかないといけません」
「いつ渡すかは」
「それも先に決めます。渡した所から届く所までは、その火のまま行くしかありません」
言ってから、自分で怖くなった。
さっき、三度目は出なかった。届かせる機会は二度しかない。一度目で届かなければ、薄くなった二度目で届かせるしかなくて、その二度目でも届かなければ、そこで終わる。
終わるというのは、青い火が出せなくなるだけではない。役目が終わっていないから、盾へも足場へも変えられない。何も持っていない状態で、白喰いの前に立っていることになる。
「明日それが起きたら、どうすればいいですか」
「その日は下がるしかない」
ガランさんは、刃の縁を親指で一度なぞってから、短剣を鞘へ戻した。
「だが、下がった後のことは俺にも分からん。役目が終わらんまま夜になったら、朝に何が灯る。前の二つは、寝る前に終わっていたんだろう」
「……終わっていました」
斥候の火も門番の火も、眠る前に役目を終えている。終わらないまま眠ったことは、一度もない。
帳面のまだ分からないことの欄へ、役目が終わらないまま眠った翌朝に火は選び直せるか、と一行書いた。
「それが二つ目の条件だ」
ガランさんが、柄の側から短剣を受け取った。
「進む前に把握しろというのは、そういう意味だ。今、自分で見つけたな」
僕は帳面を抱え直した。表紙の角が、汗で少し柔らかくなっている。
ガランさんは、朝から何も教えていない。試させて、聞いて、書いておけと言っただけだ。それでも、朝より知っていることは増えている。
約束の一つ目も三つ目も、まだ何も書けない。二つ目の下にだけ、渡す先と渡す場所を先に決めておく、という一行が増えた。
その一行を書く時だけ、炭筆を持つ手に力が入っていた。




