第四十三話 麦と一本の矢
朝の広間に、焦げた麦の匂いが広がっていた。長机の半分を粉の袋が占め、壁際の鉄板では薄いパンが焼かれている。ドルグさんたちが持ち帰った麦を使ったものだ。
「二枚目も黒いです」
僕が言うと、鉄板の前にいたドルグさんが振り向いた。
「火のせいだ」
鉄板の下に薪はない。町の術者が石へ刻んだ線へ魔力を流し、中央だけを赤くしていた。けれどドルグさんは、その真ん中へ生地を置き続けている。
「置く場所だと思います」
「少年。生きて帰った次の朝くらい、農夫に花を持たせろ」
父さんが焦げた一枚を取り、半分に割ると、硬い音と一緒に欠片が飛んだ。
「食える」
「父さん、それは褒めてないよ」
「食えるなら十分だ」
向かいのセラも端を小さく割って口へ入れた。何度もかんだ後、水を飲む。
「保存には向いています」
「セラも褒めてないよね」
広間の端では、ドルグさんの奥さんと子どももパンを配っていた。子どもは父親のそばを離れず、渡すたびに服の裾をつかみ直す。ドルグさんはそれをほどこうとせず、片手のまま生地を返していた。
次に僕の皿へ来た一枚は、端まできつね色だった。曲げると少ししなる。
「これは、おいしそうです」
「最初から火が言うことを聞けば、全部こうなった」
術者が何か言い返す前に戸が開き、ガランさんが短い木剣を持って入ってくる。左肩の布は外れていたが、腕を胸より高くは上げていない。
その後ろから入ってきたエルナさんが、ガランさんの手元を見て言った。
「木剣は今必要ありません」
「振りはせん。持つだけだ」
「持つ必要はありません」
木剣はすぐに取り上げられた。ドルグさんが最初の黒いパンを差し出す。
「代わりに、こいつを持つか。盾より硬いぞ」
「投げれば武器になるな」
「それは食べ物です」
エルナさんの声で、笑いが少し大きくなった。
食事が終わると、エルナさんは机へ小さな布包みを置いた。中には乾いた葉と、細く刻んだ茎が入っている。
「町の外に残っていた薬草です。残りも少なくなってしまいました」
十四体との戦いで、町には多くの怪我人が出た。治癒方が使える魔力にも限りがあり、擦り傷や浅い切り傷まで術で治していれば、深い傷を負った人へ回す分がなくなる。
「薬草はそのまま当てても、折れた骨や深い傷は治りません」
エルナさんが乾いた葉を指先で崩した。
「薬にすると効果は上がります。ただ、薬は煮出すだけではできません。町の器具と、治癒方の調合が必要です」
「村で使っていた薬も、そうやってできていたんですね。もし村に帰ることができて、また薬草を持ってこられたら、薬にしてもらえますか?」
「はい、もちろんです。できれば、まとまった量があると助かります。町で使う分と分け、骨や深い傷の治りを助ける薬にもできます」
ユハンさんの顔が浮かんだ。折れた肋骨は、村の薬草だけではつながらない。安静にして、体の自然治癒を待つしかなかった。村は町の薬や塩や布、鉄を必要とし、町は村の薬草を必要としている。
道が開けば、どちらか一方だけが助かるのではない。双方が助かるのだ。
食事の後、父さんが古い町の図を広げた。現在の東門と、百年以上前の壁の切れ目は少しずれている。
「若い使者は、ここから東へ走った」
古い壁の線から、坂へ向かって指が動く。
「ただしその道は今、壁の外だ。灰の獣も消えていない」
「分かってる。僕だけでは行かない」
「それだけじゃ足りん。ニルスたちが先を見る。お前は二列目から出ない。角笛が二度鳴ったら、何を見つけても門へ戻る」
「分かりました。僕が見るのは、道と残火だけです。槍は、ニルスさんたちに任せます」
セラも銀の鐘へ布を詰め、腰へ固定した。残火のまとまりを調べ、鳴らす必要がある時は先に全員へ知らせる。
「俺も行く」
ガランさんが言うと、エルナさんが机の木剣を持ち上げた。
「駄目です。先日の戦いで左腕を使ったでしょう。また少し腫れてきています」
「道を見るだけだ」
「町の壁からも見えます」
「遠い」
「では、目を鍛えてください」
父さんが口元だけで笑った。
壁の上から道を見比べると、記憶の中でまっすぐに見えた古道は、畑の下へ斜めに埋もれていた。坂の途中には、土から角だけ出た平たい石がある。
「あの石までだと思う。使者は一度だけ左へよけてた。古い図も、そこで曲がっている」
父さんはニルスさんへ伝え、最初に確かめる範囲を決めた。
◇
同じ朝、ルカ村では、テオがユハンの胸へ耳を当てていた。
「ゆっくり吸ってくれ」
ユハンは寝台の端へ手をつき、時間をかけて息を吸った。前より深く吸える。咳に血が混じることもなくなった。
それでも、立って畑へ出られる状態ではない。体を起こすだけで顔から血の気が引き、折れた肋骨の辺りを押さえた。
「少しずつ良くなってる。だが、働くのも旅に出るのも、まだ駄目だ」
テオは薬草を挟んだ布を巻き直した。
「これは痛みと腫れを和らげるだけだ。骨を治してるわけじゃない」
「分かってる」
「分かってない顔だな」
寝台の脇には、矢を握ったダリオが立っていた。
「畑へ出たら、俺が射る」
「怪我人を射るな」
ユハンが笑おうとして、胸を押さえる。まだ笑うだけでも痛むらしい。
家の外では、橋へ運ぶ材木を削る音がしていた。村側の橋は、直せるところから準備を進めている。縄も板も集まり始めていた。
けれど、橋へ近づく作業は止まっている。
カイたちが村を出てから、ルカ村では見たことのない灰の獣が、対岸へ現れるようになった。三日前も昨日も、日が高いうちから何体も橋の町側をうろついている。
橋が落ちている今は、獣もこちら岸へ渡ってこない。それだけは、よかったのかもしれない。だが橋をつなぐ作業を始めれば、対岸の獣と向き合わなければならない。
「今日も向こうの偵察に行くのか」
ユハンがダリオへ尋ねた。
「ああ、見るだけだ。近づかん」
「嘘をつけ。お前の見るだけは、弓が届くところまで行くということだ」
ダリオは答えず、矢筒を背負った。
オルバンから預かった短い手紙は、油紙に包まれ、白い布で矢へ結んである。町側に誰かが現れた時のため、何日も前から用意していた物だ。
◇
昼前、ダリオは村の男二人と橋を見下ろす高みへ出た。谷の下に、壊れた橋が見える。村側には折れた板が垂れ、町側の足場も途中で崩れている。その向こうでは、町の兵が二人、橋へ続く道を見回っていた。一人は弓を背負っている。灰の獣の跡を調べ、崩れた足場を遠くから確かめていた。
村の男が、高みの木へ吊るされた警戒用の板を木槌で三度打った。火事や襲撃を知らせる鐘の代わりに、畑や橋で使ってきた板だ。乾いた音が谷に返り、町兵二人が足を止めて顔を上げた。
町兵がこちらを見たのを確かめてから、ダリオは白い布を結んだ普通の矢をつがえた。硬化印は刻まれていない。
「人へ向けるなよ」
「分かってる」
狙ったのは、兵たちから離れた裸の地面だった。弦が鳴り、矢は谷を越えて土へ深く立った。白い布が風に揺れる。
町兵が槍を構えたが、すぐには近づかなかった。矢が二本目も飛んでこないことを確かめ、一人がゆっくり寄る。
白い布をほどいて油紙を開いた兵が、顔を上げた。手紙には、町へ向かったカイたち四人のことも書かれている。兵たちは、四人が東門から町へ入ったことも、昨日の戦いを無事に終えたことも知っていた。
弓を背負っていた兵は、持っていた炭筆で手紙の裏へ「四人無事」と書いた。同じ言葉を別の白い布にも写すと、矢筒から抜いた一本へ結ぶ。即席の矢文が人のいない村側の地面へ立ち、ダリオの隣にいた男が走って拾いに行った。
「カイたち四人は無事だ」
戻ってきた布を読み上げた男が、両手を上げる。ダリオは弓を下ろしたまま、目を細めた。
町へ着いた。それだけで、ユハンとカイの母のメリアへ持ち帰る言葉としては十分だった。
◇
その日の夕方、ニルスさんが広間へ一本の矢を持ってきた。東の橋の偵察に出ていた兵が帰ってきたらしい。
ニルスさんは矢を僕へ渡す前に、広間の隅にいるガランさんへ一度だけ目をやった。ガランさんも、パンを持ったまま小さくうなずき返した。
白い布の内側には、オルバンさんの字が並んでいる。ユハンさんは安静にしていれば少しずつ良くなる。村側でも橋の修復準備をしているが、昼に灰の獣が出るため近づけない。最後に、母さんの短い言葉が足されていた。
――四人とも、生きて帰ってきて。
僕は、その一行を二度読んだ。
「返事を持っていけますか」
「四人が無事だという返事は、もう送ってある。急ぐ必要はない」
ニルスさんが答えた。
「明日の東巡回で橋まで行けたら渡す。無理なら持ち帰る」
矢文が毎日届くわけではない。次に両側の見張りが同時に来るとも限らない。けれど、途切れていた道に、一度だけ言葉が渡った。それだけで、今は十分だ。
その横で、ドルグさんがまたパンを焦がした。今日は、みんなの顔が引きつっていた。




