第四十二話 二人の使者
翌朝、借りた短槍を握っても、青い火は出なかった。広間の隅で呼吸を整え、もう一度、胸の三つ目へ意識を向ける。斥候の火と門番の火は、そこにあると分かる。けれど槍の人の火だけは、くぼみの縁で小さく揺れていた。
昨夜より体は軽く、右手の震えも止まっている。それでも火は、刃へ流れなかった。
「疲れだけではなさそうです」
セラが布を巻いた銀の鐘を胸元へ戻した。
「あの時は使えたのに」
「一度使えたからといって、火がカイのものになったとは限りません」
僕もそう思っていた。槍の人へ、僕は約束した。
――途中で切れた言葉の先を、僕が継ぐ。
けれど、若い使者が命令を届けたかどうかは、まだ分からない。槍の人が最後まで案じていたことを置いたまま、力だけを借りている。
「このままじゃ、墓喰らいには届かない」
地下道を塞ぐ獣を倒せなければ、村へ帰る道は開かない。村と町をつなぐこともできない。
僕は短槍を布へ戻した。
「先に、約束を果たします」
評定の部屋へ移り、欠けた標章を布の上へ置いた。父さんとセラとエルナさんがそばにいる。エルナさんが僕の手首へ指を当て、セラは布を詰めた銀の鐘を膝に置いたまま、標章から目を離さない。
僕は名前と場所を言い、父さんの腕が背へ回ったのを確かめてから、標章の青い火へ触れた。
◇
門の内側へ、人が押し寄せている。僕は使者の目で、人の波の隙間を走った。胸で円い標章が跳ねる。翼を折りたたんだ鳥の印。服へ何度も当たっていた。
『門を閉める! 坂の下へ下がれ!』
背後で太い木がきしむ。使者は門の横にいた兵から報せを受け取り、壁の切れ目へ向かった。
倒れた荷車を避け、石段を下りる。息は苦しい。それでも足は止まらない。何度も走った道だった。
『門が閉まった。避難民は坂の下だ!』
壁の切れ目で、長い槍を持つ兵の背がわずかに動いた。振り返らず、目の前の灰の獣を突き続けている。
声は届いている。
使者は振り返らずに、来た道を駆け上がった。報せを運ぶ者は、渡し終えれば門へ戻る。
次に同じ石段を駆け下りてきた時には、両腕がふさがっていた。壁へ肩を当てて段を数え、槍の兵のすぐ後ろへ駆け込む。そこで、崩れた石の陰から灰が膨らんだ。
爪が標章の鎖へかかる。首を引かれ、鳥の印の円い板が胸を打った。次の爪で体が石壁へ押しつけられた。
標章の鎖が切れる。腕の中の物が石の上へ散らばり、右の縁が欠けた円い板が石の間へ落ちて、使者もその横へ崩れた。
槍の兵は、まだ前を向いて戦っている。
次の報せを運べなかった悔しさが残った。その奥には、少しだけ安堵があった。
――門の報せは渡した。
――坂の下まで、逃げられる。
◇
「カイ。西の町の評定の部屋。父さんと、セラと、エルナさんがいます」
戻るとすぐに名乗った。エルナさんが脈と目の動きを確かめる。
「痛むところは?」
「脇腹を押された感じだけです。もう薄くなってます」
僕は、門の内側から走ったこと、槍の人へ報せを渡したこと、戻ろうとして灰の獣に倒されたことを順に話した。
「この標章は、若い使者の物じゃありません」
欠けた縁を指す。
「門から走ってきた別の使者が持っていました。槍の人の記憶では、若い使者は槍の人から命令を受けて、東へ走っています。あの場には使者が二人いたんです」
「それを、ほかの者にも確かめられるか」
途中から部屋へ入ってきたザハルさんが尋ねた。
「できません。僕が確かめられたのは槍兵の記憶だけです」
僕の記憶だけで、百年前の記録を書き換えることはできない。セラが、火の記憶を疑っているのではなく、町の誰もが確かめられる物が必要なのだと付け足した。
《灯名帳》を開く。前には、槍の人が案じた相手を、欠けた標章の持ち主だと書いていた。その一行を消さず、下へ訂正を足す。
――槍兵が案じた若い使者と、欠けた標章の使者は別人。壁の切れ目には二人の使者がいた。
それから、見たことと、まだ分からないことを分けた。欠けた標章の使者が門の報せを届けたこと。若い使者が命令を受け、東へ走り出したこと。そこまでは分かった。
若い使者が東へ着いたかは、まだ分からない。
「調べに行けませんか?」
「町の兵を、百年前の物探しだけには出せん」
ザハルさんは地図の上へ手を置いた。
「昨日の獣で負傷者が増えた。壁も東の橋も見回らねばならん」
「分かっています」
僕は地図の東側を見た。
「でも、東の道を見回る時なら、一緒に探せます。僕には、あの人が走った道が分かります」
ザハルさんは少し考えてから、地図の東側へ目を落とした。
「東の道が開けば、こちらも助かる。怪我人が増えて、薬が足りん。薬草の多くは、そちらの村から届いていたからな」
「僕も村へ帰る道を開きたいです。町へ着いてから、もう何日も過ぎています。村が今どうなっているのかも、ユハンさんの怪我がどうなったのかも分かりません」
地図の西側、地下道の線へ目を移した。
「村へ帰るには、墓喰らいを倒さないといけません。そのためには《青火纏い》が必要です。でも、今は出せない。槍の人との約束を果たしていないからだと思います」
火が出ないことだけが事実で、理由はまだ僕の考えだ。それも伝えると、ザハルさんは東門から橋へ続く道を指でなぞった。
「次の東巡回では、ニルスたちが橋へ続く古道を見回る予定だ」
ニルスさんは東門の見回りを任されている町兵だ。町兵は交代で、東の橋へ続く道を定期的に見回っている。昨日の戦いでは、壁の上から角笛を吹いていた。
「その巡回へ、私たちも加わるということですか」
セラが聞いた。
「外へ出られる状態ならだ。古い道を知るカイと、残火を調べるセラ。ヨルンは二人を連れ戻す役だ。兵の前へは出るな」
父さんがうなずいた。
「探すのは巡回の道から外れない範囲だけだ」
「はい」
町に、余った人はいない。それでも東の橋は、町と村をつなぐもう一つの道になる。見回りと、若い使者の足跡は、同じ方角にあった。
話が決まった後も、すぐには布を閉じなかった。欠けた標章へ顔を向ける。
「あなたの報せは届いていました」
青い火が、標章の縁から全体へ薄く広がる。胸には入ってこない。セラが銀の鐘を近づけると、布を詰めたままでも小さな返りがあった。
「まとまった火は残っています。でも、先ほどより静かです」
この人が残したのは、技ではない。命を使って渡した、一つの言葉だった。
この人の言葉は返せた。けれど、東へ走ったもう一人の言葉は、まだ見つかっていない。
◇
その後、記録庫で使者の名簿を見た。焼け残った板には、壁の切れ目を守る部隊の使者が一人だけ刻まれている。名前は半分欠けていた。
「一人しかいません」
「残っているのは、その一人だけだ。ほかの使者がどこへ記されていたかは、もう確かめられん」
老人は欠けた標章を包んだ布へ目を向けた。
「戦の後に一つだけ標章が見つかれば、残った名簿へ合わせる。ほかに合わせようがない」
「それで、逃げた使者の物だと思われたのかもしれないんですね」
「かもしれん。まだ、それ以上は言えん」
記録にないことと、起きなかったことは同じではない。明人が欠けた名簿を見るたび、自分へ言い聞かせていた言葉だった。
今、手元には一人ぶんの標章があり、記憶の中には二人いる。足りないのは、東へ走った若い使者が持っていたもう一つだ。
まだ分からないことの欄へ、若い使者の標章は東へ走った時には胸にあった、その先を探すと書いた。




