第四十話 届く刃
次の日から、僕は毎朝ガランさんに馬小屋へ呼ばれた。
「立て」
最初の日、土の上には石が三つ置かれていた。ガランさんは動く右手を伸ばし、その前へ立つ。左肩はまだ布で留めてある。それでも右手の届く範囲は、僕の背丈より広かった。
「この三つのどれかの上に立ち、俺の腕が届かない場所を選べ」
一番遠い石へ乗った。けれどガランさんが一歩出ると、伸ばした手はあっさり肩へ届き、そのままたたかれた。
「相手は止まってない。今いる場所ではなく、一歩で来る場所を測れ」
(どの石を選んでも届いたんじゃないか。ずるい)
口には出さなかった。出せば、たたく力が強くなる気がした。
二日目は朝から雨だった。石は五つに増え、馬小屋の屋根を打つ音に、土を蹴る音が混じる。目を閉じ、雨音の中から足音だけを拾って距離を当てた。
「灰の獣は音を立てる。脚が四本なら、四つの音が一組になる」
その日の終わりに、自分から聞いた。
「あと何日で、壁の外へ出られますか」
ガランさんは石を拾う手を止めた。
「六人が心配か」
「はい」
「今のお前が外へ出たら、迎えに行く人数がもう一人増える」
名簿の四つ目の欄は、目を閉じても見える。それでも今の僕では、届く場所まで行けない。
「ただ、その気持ちはよく分かる。明日からは、より実戦に近い形でやる」
三日目から、町兵の短い槍を持たされた。柄は僕の背丈に合わせて切ってある。
「足、間合い、突きだ。この順を崩すな。立つ場所が決まっていない突きは、覚悟のない、意味のない突きだ」
藁を巻いた棒へ一度だけ突くと、ガランさんは僕の手首を見てから足元を指した。
穂先は棒の中央へ入ったが、前へ出した足が土を滑っていた。ガランさんは藁ではなく、僕が残した足跡を見ている。
「腕は悪くない。足が遅れてる。突く前に、もう半歩いる」
「今のは、槍の人の癖に助けられました」
「そうだ。手はもう出来上がってるのに、そこまで運ぶ体が追いついてない。お前の中で、そこだけが十二歳だ」
次は棒を少し横へ動かされた。腕だけで追うと、穂先が藁の端を滑る。足を先に置き、腰と肩を同じ方へ向けると、穂先がようやく棒の中央へ戻った。
槍の人の手は、届く角度を知っている。そこへ十二歳の体を運ぶのは、僕の仕事だった。
馬小屋から戻るたび、名簿の四つ目の欄を見た。六。増えも減りもしない。三つ目の欄に書いた十一も同じだった。
壁から見える火は増えていない。外で誰も死んでいないということでもある。ただし、僕に見える範囲では、という但し書きが付く。東の蔵は、壁の上から見えない。
――見えない場所は数えられない。数えられない場所を、無いことにしない。
そう書き足した翌日の夕方、壁の鐘が二度鳴った。
◇
壁の階段を上がると、父さんとガランさん、セラがいた。ザハルさんも、年上の兵から報告を受けている。
「今日は多い。十四体、柵の東側だ」
壁の縁から外を見ると、灰の獣が急ごしらえの柵の前に並んでいた。数えると十四いる。どの体にも、首の付け根の少し下へ青い核が見えた。
「火……いや、核は全部、同じ場所です。首の付け根の少し下を狙ってください」
僕が告げると、ザハルさんが振り返った。
「全部、同じ場所か」
「同じです。十四体とも」
「今までは、ただ押し返すことしか考えていなかったが、違う戦い方ができるかもしれんな」
柵の内側では、兵が槍を構えていた。突けば灰は崩れるが、核が残ればまた戻る。押し返して朝を待つ。それが、この町の戦い方だった。
僕は父さんの顔を見た。
「柵の内側から突けば、届く」
父さんはすぐには答えず、柵の向こうを一度見てから、ガランさんへ目を向けた。
「カイは行けそうか」
「十分ではない。だが、形にはなった。柵の隙間から突かせるだけだ。俺も横につく」
父さんはもう一度十四体を見てから、短くうなずいた。
「分かった。無理だと思ったら、すぐに下がれ」
ザハルさんは話を止めるように手を上げた。
「待て。私が頼んでおいて、おかしな話だが。本当にいいのか。お前はまだ子どもだぞ」
「僕も、できることをしたいです。何より苦しいのは」
僕はザハルさんの目を見て言った。
「明日また、火が増えることです」
上げていたザハルさんの手が、途中で止まった。
「昨日、外の火は十七でした。今日は十九です。二つ増えたぶん、二人死んでいます」
「……そうか」
「私も柵へ下ります」
セラが銀の鐘を持ち上げた。
「私は一体ずつなら送れます。足手まといにはなりません。ただ、今回は数が多いので、カイの補佐として動きます」
「突き損ねたら、お願いします」
「はい。任せてください。灰を浮かせます」
ザハルさんは短く言った。
「……すまない。恩に着る」
柵の内側は、思っていたより狭かった。木材と荷車を組み合わせただけで、僕の胸ほどの高さしかない。隙間は手のひら二つ分。槍は通るが、体は通らない。
その時、向こう側から一体が勢いよくぶつかり、木がしなった。柵全体の揺れが、足の裏まで来る。
兵五人の間へ入り、短槍を握る。ガランさんは右斜め後ろ、セラは左、父さんは鉤棒を持ってさらに外側へ立った。
「カイ、行けるか」
短槍の穂先には、印が何も刻まれていない。二日前から握ってきた、町の武器だ。
「はい、行けます!」
僕は柄を握り、指へ力を入れた。穂先に青い火が這い、隣の兵が息をのむ。
「なんだ、それは」
「灰を抜けて、中の火へ届きます。今から数えて、四十で消えます」
言い終わる前に、一体が柵へ体をぶつけた。木がしなる。それでも僕は突かなかった。
「まだだ」
ガランさんの声が後ろから来る。
「ぶつかった直後は、体が縮んでる。核が奥へ入る」
同じ一体が同じ場所へぶつかって離れる。その瞬間、灰の中の青が前へ出た。
「今」
僕は半歩踏み込んで、隙間から突いた。穂先が灰へ入り、その奥で硬いものに当たった。割れる手応えが腕へ抜けて、灰の中の青が消えた。
灰が散り、その灰は待っても集まらなかった。
「倒した」
声が出た。この手で終わらせたのは、これが初めてだった。
けれど、その感じを確かめている暇はない。次が来る。
「同じだ。ぶつかって、離れる時」
ガランさんが言う。
二体目。突く。届く。
三体目は少し浅く、灰は散ったのに青が残っていた。
「残っています! 私が対応します!」
澄んだ鐘の音が一度鳴り、核の周りへまとわりついていた灰が薄く浮いた。隣の兵がそこへ槍を入れ、灰を押し広げる。
「今です!」
セラが言った。
僕が突き直すと、核が割れて火が消えた。一人で全部する必要はない。セラが浮かせ、兵が開き、僕が届かせる。
「鐘の後なら、こっちも入るぞ」
隣の兵が言った。手を止めて、そちらを見る。
灰の浮いた所へ長槍が入る。途中で止まらない。前脚の付け根まで進んだ。
押し込まれた獣が前のめりに落ちた。四本のうち二本が、伸びたまま動かない。
「潰れたか」
「いえ。火は残っています」
崩れた灰の奥で、青は同じ強さのまま灯っている。壊せてはいない。
けれど、立てなくはなっている。
「立たんなら、それでいい」
ガランさんが言うと、兵は次の一体へ槍を向け直した。
四体目は、その隣の兵が長槍で頭を柵から離した。動きが止まった一瞬に、首の下へ青い穂先を入れる。灰は僕の腕へかかったが、核となる火を失うと指の間から崩れていった。
「右から来るぞ!」
父さんが鉤棒で柵の板をたたく。音へ獣の向きが寄った。
左へ二歩動いてから突く。突く前に、立つ場所を決める。ガランさんが三日かけて教えたのは、それだった。
足を決めずに腕だけを伸ばせば、柵へ肩が当たる。下がりすぎれば穂先が核まで届かない。石の上で何度もたたかれた距離が、今は目の前の隙間へ重なっていた。
五体目。六体目。
数えていた四十が近づき、穂先の青が目に見えて薄くなってきた。
「消えます!」
「下がって出し直せ」
僕は柵から一歩下がり、指へ力を入れ直した。青は戻ってきたが、前より薄い。
「弱いです」
「弱くても届くか」
「浅いと戻ります。深く入れます」
七体目は、薄いぶんだけ深く突いてようやく届いた。八体目で腕が重くなり、指の付け根を内側から押される感じが強くなる。自分から声を出した。
「あと二回か三回です!」
「なら二回で決めろ。全部やる必要はない」
残り六体のうち、四体は柵から離れ、回り込もうとしていた。二体だけが、同じ場所へぶつかり続けている。回る方は兵の槍で押せるが、ぶつかる方を残せば柵が壊れる。
「ぶつかっている方を潰します」
九体目へ突く。届いた。
十体目はぶつかる瞬間を待ち、離れる時に突いた。核へ届いたところで青い火が消え、指を握っても戻らなかった。
「終わりです。もう出ません」
「よくやった。下がれ」
ガランさんが右手で僕の肩を押し、兵の後ろへ回した。
残った四体は、セラの鐘で動きを鈍くされ、兵の槍と縄で押し返された。核は残っている。それでも四体なら、柵を越えられない。
兵が立てなくした一体も、灰はその場に残っていた。
「朝までに寄り直します」
セラが外を見たまま言った。
「潰さないかぎり、灰はまた形を探しますから」
壊せるのは僕とセラだけだ。そこは変わらない。
変わったのは、止めるのが僕でなくてよくなったことだった。
座り込んでから、自分の手を見た。痛みではなく、力が抜けたために震えている。
エルナさんに教わった通り、指を一本ずつ曲げた。動く。手首も返せる。腕は上がらないが、しびれはなかった。
「十四体のうち、十体を倒したのか」
「今までは、一晩で一体も減らせなかった」
柵の内側の兵が何人か、僕の方を見た。それから短槍の穂先へ目を移す。
見られているのが自分だと分かるまで、少しかかった。
年上の兵が、僕の前まで来た。
「さっきの火は、あんたの魔術か」
「借りています。昔、ここで戦った人のものです」
兵はしばらく黙り、壁の外の暗がりへ目を向けた。
「そうか。昔のここにも、そんな兵がいたのか。……その火が、今も町を助けてくれるんだな」
「はい。でも、僕はまだ借りているだけです」
兵はそれ以上聞かず、戻り始めた四体へ槍を向け直した。
そのとき、東門で鐘が短く三度鳴った。柵の内側にいた兵が、一斉に立ち上がる。獣なら二度、人が来た時は三度だ。
僕は柵の隙間から道の先を見た。暗がりの中を、二つの黒い形がゆっくり動いている。
右手を握った。指の付け根はまだ重く、火は来ない。もう出ないと分かっていたのに、握らずにはいられなかった。
「下がってろ」
ガランさんが僕を柵から離した。
「荷車だ。二台とも積んでる」
年上の兵が言った。
「押してるのは人だ」
その瞬間、残っていた四体の獣が、そちらへ向きを変えた。
「あれは俺たちの仕事だ」
ガランさんが言った。
兵八人が柵の口から出て、槍と縄で道の脇へ押しのける。核は残るから、灰はまた戻る。それでも、戻る前に荷車が通ればいい。
東門が、荷車一台ぶんだけ開いた。
兵は四体を倒そうとしなかった。槍で前脚を払い、縄で向きを変え、荷車が通る間だけ道を空ける。僕の青い火がなくても、町の兵には町の兵の戦い方があった。
やがて、荷車が二台とも東門の内側へ入った。押していたのは六人。
ドルグさんたちだ。道で会った時より、ひどくやつれていた。服が土で固まって、一人は右足を引きずっている。それでも六人だ。数えるまでもなく、六人だった。




