第三十九話 三つ目の火
次の日の朝、ザハルさんが「調べたいなら見ろ」と言って、鍵を持つ人を付けてくれた。町の記録庫は石の建物で、棚が四つ。紙より木の板の方が多く、古い記録は板へ刻んであるのだと、鍵を持つ老人が教えてくれた。
昨日、僕は槍の人へ答えを返せなかった。伝わったかどうかも、若い使者が逃げたと思われたかどうかも知らない。知らないまま安心させる言葉を作れば、それは記録ではなくなる。
知らないなら、調べるしかない。百年以上前の戦が残っている場所は、この町では記録庫だけだという。
「戦の時代の記録は、どのあたりですか」
「奥の棚だ。ただし、あの頃のものはほとんど残っとらん。戦の終わりごろ、町が焼けたからな。今の壁を建てた時にも、古い方の記録は運び出せなかった」
僕は奥の棚を端から見た。板は黒く変色し、刻まれた線の半分が読めない。触れば粉が落ちるので、父さんと同じ手つきで下へ紙を敷く。
半日かけて、あの日と関わりそうな板を三枚見つけた。一枚目には、部隊ごとの兵と武器の数が並んでいる。二枚目は貸し出しの記録だった。誰が誰へ何を貸したかを、戦の最中にも付けていたことに驚いた。
「戦っている間にも、貸した武器を書いたんですか」
「書かんと戻ってこん」
老人は当たり前のように答えた。
「武器は町の持ち物だ。兵が死んでも、次の者へ回す。誰が持っていたか分からんと、探せん」
その中に、同じ場所で貸した物が三行続いていた。
――剣一。第三門の脇にて貸与。返却なし。
――斧一。同。返却なし。
――棒。数不明。
返却なしばかりで、相手の名前は書かれていない。書く余裕がなかったのか、名前の板だけ焼けたのかは分からない。それでも剣と斧と棒が同じ場所で貸し出されていた。僕が見た武器と同じだった。
一字ずつ紙へ写した。槍の人の名前はなくても、借りた武器を手に最後まで戦った跡は、町から消えていなかった。
三枚目は一番読みにくかった。中央が焼け落ち、左端に「東」、右端に数字だけが残っている。
板の縁を灯りへ近づけ、横から光を当てた。灯守の帳面で、浅い文字を読む時に試した方法だ。三つの跡が浮かんだが、どれも文字にはならない。ただ、間隔だけがそろっていた。
「この三つの跡は、何ですか」
「日付だな。年、月、日で三つ刻む」
「でも、この板だけでは、何が東へ動いたか分かりませんね」
「ああ。こいつから読めるのは、そこまでだ」
老人は黒い板へ息をかけないよう、顔を離したまま言った。
槍の人へ返す答えを探すため、僕は調べた情報を紙へまとめた。東、日付、数字、板の真ん中は焼け落ちている。分かったことと分からないことを分けても、これで答えができたわけではない。
◇
夕方、折れた穂先を膝へ置いた。父さんとセラ、ガランさん、エルナさんが部屋にいる。今度は触れるためではない。
「話すんですか。その、火に」
セラが尋ねた。
僕はうなずいた。
「返事はもらえないと思う。でも、こっちからは伝えられる」
僕は布の上の穂先へ目を戻した。
「あなたが最後に考えたことを、僕は受け取りました」
返事はない。僕が一人で声に出して話しても、誰も笑わなかった。
「若い使者が命令を届けたか、まだ分かりません。逃げたと思われたかどうかも、記録が焼けていて読めませんでした」
届けたはずだと言えば、この火は安心するかもしれない。けれど、それは僕が作った話だ。
「だから、今は答えを渡せません」
胸の奥で何も動かなかった。
「代わりに調べます。すぐには無理です。何日かかるかも分かりません」
次の言葉を選ぶ間も、穂先の火は静かなままだった。
「逃げていたなら、そう書きます。逃げていなかったなら、そう書きます。あなたが安心する方へ変えたりはしません」
記録庫で写した紙を、穂先の横へ置く。
「町の記録は戦の終わりごろに焼けていました。それでも、あなたたちが借りた武器の記録は残っています。剣と斧と棒が、同じ場所で貸されて、返ってきていません」
紙の上を指でたどり、順に伝えた。
「あなたたちが最後まで戦ったことは、僕が想像しなくても分かります。若い使者のことだけが、まだ分かりません」
「それでも、一緒に確かめてくれるなら、力を貸してください。村へ帰る道に、灰と残火でできたものがいます。僕たちの武器は、そこへ届きません。あなたの力が必要です」
穂先の青い火が大きく揺れ、右手へ流れ込んだ。
聞こえのいい答えを言わなくても、火は来た。安心させる話より、分からないことを調べる約束を選んだ火だった。
◇
熱くはなかった。両手の指の付け根が、内側から押されるように重くなる。何も持っていないのに、手のひらには柄を握る感覚が残った。
胸の奥の暗い塔で、三つ目のくぼみが開く。
火はその前まで来たが、中へ入らなかった。くぼみの縁へ細く絡み、消えずに揺れている。
あの人の刃は、灰の獣へ届いていた。剣も、斧も、棒も、最後まで届いていた。それでも届かなかったのは、「ここは持たん。だが避難民は坂を下りきる。だから」で切れた言葉の先だ。
(途中で切れた言葉の先を、僕が継ぐ。あなたの言葉を、あの子が東へ届けられたのか、一緒に確かめよう)
火は少しだけ明るくなった。それでも、くぼみへは収まらない。
「来た。でも、入ってない」
「名前を言え」
父さんがすぐに言った。
「カイ。西の町。父さんはヨルン、母さんはメリア」
「痛みは」
「ない。手が何かを握ってる感じがする」
自分の手を見ると、何も持っていないのに指は柄を包む形になっていた。開こうとすれば開く。けれど力を抜くと、また同じ位置へ戻る。
セラは僕の胸ではなく、布の上の穂先を見た。残っていた青い火は消えている。
「火は移っています。ただ、ほかの二つと同じ収まり方ではありません」
「使えないのかな」
「確かめてみないと分かりません」
エルナさんが手首へ指を当て、脈の乱れだけでなく、指先の色と動きも確かめた。
「しびれはありませんか」
「ありません。自分の指だとも分かります」
ガランさんは部屋を見回してから立ち上がる。
「試すなら外だ。人のいない場所を借りる」
◇
町の南に、使われていない馬小屋があった。中は土がむき出しで、柱が二本残っている。
「馬はいないんですか」
「壁の外へ出た時に、やつらにやられた。荷を引く馬から先に食われる。逃げ足が遅いからな」
残っているのは伝令用の二頭だけで、壁の内側の狭い小屋へ移されている。冠灯院への知らせを北回りで出せるのも、その二頭がいるからだ。この広い小屋はもう使わないので、試すうちに壁や柱を壊しても構わないと言われた。
馬を失った空の小屋を、力試しのためだけに借りている。外に獣がいることを忘れない場所を、ガランさんが選んだのだと思った。
ガランさんから短剣を借りた。受け取った瞬間、指の位置が勝手に決まる。柄の端を余らせ、人差し指の付け根を鍔の少し下へ当てる。手首は寝かせず、刃の背を前腕の線へそろえた。昨日まで知らなかった握り方だった。
「お前の握り方じゃないな」
「僕もそう思います」
火を灯していなくても残る斥候の見方と同じだ。今度は槍の人が体で覚えたものの一部が、手へ残っている。
斥候の火は、安全な道を願えば足跡が出た。門番の火は、守ると決めれば盾が出た。この火は、何を願えばいいのか。
記憶の中で、槍の人は何も口にしていない。ただ、届かないと分かっている物を、届く物にしようとしていた。
短剣を見つめ、指へ力を入れた。
(届いてほしい)
青い火が刃の縁を走った。柄も刃も熱くならない。
「出た」
「触るなよ」
「触りません。でも、普通の物を焼く火ではないと思います」
「なぜ分かる」
「握った手から、届く相手が伝わってきます。灰と、その中にある残火です」
柱へ刃の腹を当てても、木は焦げず、切れもしなかった。地面の小石を押しても同じだ。灰と残火の核へだけ届くという感覚が、握った手から流れ込んでくる。
青い火を消すと、刃はただの短剣へ戻った。焦げも刃こぼれもなく、借りる前と同じ形をしている。
一度消し、もう一度出して数えた。十を三度数えたところで青が薄くなり、四度目の途中で消える。続けて呼ぶと、最初から少し弱かった。
「出せます。でも、さっきより弱いです」
「痛みは」
「ありません。指の付け根が重いだけです」
三度目も出してみた。青い線はさらに薄く、刃の先まで届く前に一度揺れる。痛みはなくても、使うたびに弱くなることは、目でも確かめられた。
「道と盾にも、続けて使う代償がありました」
「同じ物だと決めるな」
ガランさんが言うと、セラも僕の手と胸の間へ目を動かした。
「今回は、火がくぼみに収まっていません。弱くなる理由が、能力の限界だけとは限りません」
使えることは確かめた。自分の物になったとは、まだ言えなかった。
「借りられはしたな」
ガランさんが短剣を受け取り、鞘へ戻した。
「この力なら、灰の獣にも届くかもしれません」
「だが、自分の物になった顔はするな。お前はまだ、火との約束を果たしていない」
「分かっています」
「もう一つ覚えろ。誰かへ届く力を持つと、人は届く場所まで行きたくなる。お前は今すぐ、灰の獣へ通じるか試したいと考えているんだろう」
「……はい」
「今のお前に足りないのは、武器の振り方じゃない。立つ場所だ。火が届く距離まで、生きて近づかなければ意味がない」
短剣が手から離れても、握り方は指に残っていた。技を使う時間より、その場所へ近づくまでの方が長い。そこを自分の足で埋めなければならない。
「道と盾とは違います。道は場所を示して、盾は止める力でした。これは、僕が誰かを傷つける形です」
「そうだ。だから、立つ場所を先に覚えるんだ。届くからといって、すぐ攻撃するな。狙う相手と、戻る場所を決めてから届かせろ」
胸のくぼみの縁では、青い火がまだ入り口へ絡んだままだった。
その夜、《灯名帳》へ三つ目の項目を作った。
――今持っている武器へ、青い火をまとわせる。
――木と石には何も起こらない。ここまでは自分で確かめた。
――灰と残火の核へ届く。これは槍の人の記憶と、握った時の感覚だけで、まだ自分では試していない。
――四十ほどで消える。続けて出すと弱くなる。
――武器は作れない。武芸も受け取っていない。
――ただし、握り方と刃の置き所は手が覚えている。
――痛みはない。指の付け根が重くなる。火が収まっていないことと関係するかは、まだ分からない。
名前の欄は空けた。斥候の火は《三歩の道》、門番の火は《退かぬ盾》。どちらも形を確かめてから名づけた。三つ目も形は分かったが、くぼみへ収まっていない。
槍の人は、自分の武器で最後まで戦えなかった。その時に借りた物を、届く刃へ変え続けた。僕も今、その人の力を返す当てがないまま借りている。
名づければ、自分の技になったように見える。それが嫌だった。分からない名前を勝手に付けないのと同じで、果たしていない約束を終わった形にもしたくない。
――力は借りられた。約束は、まだ果たしていない。
布に包んだままの標章へ目を向ける。槍の人が最後に案じた相手を、僕はまだ知らない。
標章へ触れれば、別の記憶が入ってくるかもしれない。けれど今日は、三つ目の火を借りたばかりだ。セラからも、続けて新しい残火へ触れないよう言われている。
急いで答えを増やしても、何を見たのか混ざれば記録にできない。標章は布へ戻し、体の状態を確かめてから触れる物として机の右端へ置いた。
机を離れる前に、写した三枚の記録と標章の位置を紙へ残した。明日、記憶から戻った後でも、どこから調べ始めたのかを失わないためだ。
胸の縁で揺れる火と、布の中の火は別々に見える。槍の人が案じた誰かへ続く道は、まだそこで切れていた。




