第三十八話 二十年の形
触れる場所は、評定の部屋の隅に決まった。窓のない壁際で、外の音が届きにくい。父さん、セラ、ガランさん、それに治療の途中で呼ばれてきたエルナさんが立ち会う。
「意識が飛ぶのなら、私が見ます」
「息が浅くなったら止めてくれ」
父さんが言うと、エルナさんはうなずいて、僕の手首へ指を当てた。
「名前を言ってください」
「カイ。ここは西の町の評定の部屋」
「二回目も言えるように」
僕は布の包みを開け、折れた槍の穂先を先に出した。使者の標章は布の中へ入れたままにしておく。二つを続けて見るのは危ないと、セラが言ったからだ。
右手を伸ばし、指先が青い火へ触れた瞬間、部屋が消えた。
◇
石の壁が高かった。今の町の壁ではなく、もっと低く、もっと荒い積み方の壁だ。その上を、火のついた矢が越えていく。
僕は、壁の内側に立つ男の目から見ていた。見えるだけで、手も声も男のものだ。男は槍を両手で構えている。柄は長く、穂先の下に付いた赤い房は焦げて、半分がなくなっていた。
『下がるな。門はまだ閉まらん』
誰かが叫んだ。
男は前へ出た。壁の切れ目から入ってくる灰色の獣は、今の町の外で見たものより大きく、脚は四本ある。灰をまとった体が、槍の穂先へぶつかった。
突く。灰が散る。散った灰が集まって、また立つ。
男は同じ場所を三度突いてから、突き方を変えた。灰の表面ではなく、その奥で手応えの抜ける所を探り、そこへ槍を通す。今度は、獣がすぐには形を戻さなかった。
『奥に空洞がある! そこを突け! 崩せるぞ!』
男が後ろへ叫ぶ。答える声は少ない。
後ろから、走ってきたばかりの、息の上がった声が届いた。
『門が閉まった。避難民は坂の下だ』
男は振り返らなかった。
次の獣が来た。男はさっきと同じ場所を狙ったが、今度は穂先が横から押される。獣の脚が柄へかかって体重が乗り、木がきしみ、ねじれ、折れた。
柄は穂の少し下で折れ、穂先の側が石の間へ落ちた。男の手に残ったのは、ただの長い棒だ。男はそれを投げ捨てた。武器がない。
周りを見ると、倒れている兵の脇に剣が一本落ちていた。男は走って拾い、握る。軽すぎるし、長さも足りない。これでは灰を抜けず、届かない。
それでも男は剣を握り直した。届かなくても、何も持たないよりはいい。そういう握り方だった。
その時、古い記憶が浮かんだ。若いころ、町の術者に手を見てもらったことがある。筋はある、と言われた。ただ、育てるには金と年月がいる。お前は明日から槍を持て。それきりだった。
握った形は、二十年ぶんの形だった。刃先をどこへ置き、どこへ体重を乗せ、どの高さで止めるか。剣は槍ではないのに、手はその通りに動いた。
自分の胸の奥が熱くなり、剣の刃へ青い火が這った。燃えているのに刃は焼けず、柄を握る手も熱くならない。ただ、刃の縁だけが青く輝いている。炎ではなく、魔力が火の形を借りたものだった。
男は気づいていない。手元が光っていることは、この人の中では起きていなかった。見ているのは目の前の一体だけだ。
男はその剣で獣を突いた。届いた。それまで灰の途中で止まっていた刃が、奥の空洞まで入り、そこで硬いものを割った。獣は灰へ戻らないまま動かなくなる。
『借りるぞ』
男は倒れた兵へそう言ってから、次の獣へ向かった。
剣が折れると、足元に落ちていた斧を拾った。ここで戦った兵のものだろうか、他にもいくつか武器が散らばっている。斧が欠けると槍を拾い、槍が折れると木の棒を拾って戦った。
棒でも同じだった。青い火が這うと、届かないはずの物が届く物に変わる。灰を抜け、空洞へ入る。
男は自分の武器を最後まで持たなかった。ただ、今その手にある物を、届く物へ変えていた。
◇
どれだけ続いたのか分からない。
やがて壁の内側の人が減り、獣も減った。男の周りに立っている兵は、三人しかいない。
あと何人生きているのか。周りを確かめる余裕もなく、男はひたすら戦った。
突いて、崩す。灰が寄り始める前に、もう一度突く。
三体目が崩れてから、男は肩で息をしながら壁の切れ目を見た。まだ獣は来るが、数は少ない。
『誰か、東へ走れる者はいるか』
男が言った。
若い声が答えた。
『走れます』
振り向いた先に、男より頭一つ小さい人が立っていた。走るための軽い装いで、胸には翼を折りたたんだ鳥の印の円い板を下げている。
男は棒を左手へ持ち替え、右手で若い使者の肩をつかんだ。
『東の分隊へ伝えろ。ここは持たん。だが避難民は坂を下りきる。だから』
その先が聞こえなかった。壁の外で何かが崩れる音がして、男の顔がそちらへ向いたからだ。使者は既に走り出していて、背中がすぐに小さくなる。
男が棒を握り直すと、また火が這った。最後の獣が来て、空洞を突く。届いた。届いたけれど、獣の脚は止まらなかった。
棒が折れ、男の胸へ灰が入る。倒れながら男は東を見たが、使者の背中はもう見えなかった。
男の最後に考えたことが、僕の胸へ入ってきた。
――伝わったか。
――あの子は、逃げたと思われるかもしれない。
――俺が最後に言ったのは、下がれではない。
そこで、火は終わった。
◇
評定の部屋が戻ってきた。
エルナさんの指がまだ僕の手首にあり、父さんの腕が背中を支えていた。
「名前」
「カイ。西の町の評定の部屋」
「立ち会っているのは」
「父さん、セラ、ガランさん、エルナさん」
エルナさんが手首から指を離した。
「息は乱れていません。前より軽い方ですか」
「軽いです。水路の時より、ずっと」
あの時は溺れる感覚に引かれたが、今回は最初から、外から見ている形だった。
「何が見えた」
ガランさんが尋ねる。
僕は順に話した。壁が今より低かったこと。槍が折れたこと。剣を拾ったら刃へ青い火が這ったこと。斧も棒も同じだったこと。灰の奥の空洞を突けば、普通の槍でもしばらく立ち上がれなくなること。青い火の刃なら、その奥の硬いものが割れて、灰がもう戻らないこと。そして最後に、若い使者へ命令を渡したこと。
「火は、燃える火じゃなかった。魔力が火の形をしてただけだ。それが刃に付くと、届かなかった物が届くようになる」
「あの方は術者ですか」
セラが尋ねた。
「あの人は槍兵だ。術者じゃない」
僕は答えた。
「でも、若いころに手を見てもらって、筋はあると言われたって。ただ、術を磨くには金と年月がいるから、お前は槍を持てと言われて、それきり」
セラは銀の鐘を握ったまま、少し考えてから言った。
「筋があって、使い方を教わらないままの人は、町にも村にもいます。ほとんどは一生そのままです」
「でも、あの人の術は、最後に発動していた」
セラは布の上の穂先へ目を向けた。
「二十年かけて体へ刻んだ武術と、育てられなかった魔術が、最後に武器を媒体として発動したのかもしれません」
「そうなのかもしれない」
僕も穂先を見た。錆びて、短くて、もう槍の形をしていない。この人が最後に持てたのは、どれも借りた物だった。
「あの人は、使者を東へ走らせた。そのあとで死んだ」
「命令の中身は」
「聞こえなかった。『ここは持たん。だが避難民は坂を下りきる。だから』まで」
「そこで切れたのか」
「切れた。壁の外で音がして、そっちを見たから」
言ってから、僕は自分の言い方をもう一度確かめた。
「聞こえなかっただけだ。言わなかったわけじゃない」
セラが銀の鐘を握ったまま尋ねた。
「最後に考えたことは、分かりましたか」
「分かった。伝わったか、って。それと、あの子は逃げたと思われるかもしれない、って」
部屋が静かになった。
「逃げたと思われる、か」
ガランさんが低く言った。
「使者が命令を持って走れば、後ろは崩れる。生き残った者から見れば、伝令だけが先に逃げたように見える」
「実際にそう記録された例は、私も読んだことがあります」
セラが言う。
「戦の記録では、部隊が全滅した後に、使者だけが別の場所で見つかることがあります。命令書が残っていなければ、逃亡と書かれます」
僕は布に包んだままの標章を見た。すぐそばに落ちていた二つ。槍兵はそこで死んで、使者は東へ走ったはずだ。なら、なぜ標章が同じ場所にあるのか。
「セラ。使者は、走ったあとに戻ってきたのかな」
「分かりません」
「標章が、あそこにあった」
「落とした場所と、亡くなった場所は、必ずしも同じではありません」
そのとおりだと思って、僕は口を閉じた。見た記憶は槍兵の最後の場面だけで、使者がどこへ行ったかは、この火の記憶に入っていない。
「見たことと、考えたことを分ける」
父さんが言った。
「今の話で、確かなのはどこまでだ」
僕は《灯名帳》を開いて、線を引いた。
――見たこと。槍兵は槍を折られた後、剣、斧、棒を拾い、その刃へ青い火が這って、灰の獣の弱点と思われる空洞を突けた。
――見たこと。槍兵は火が出ていることに気づいていない。
――見たこと。槍兵は若い使者へ命令を渡し、使者は東へ走った。命令の中身は最後まで聞こえていない。
――見たこと。槍兵は「あの子は逃げたと思われるかもしれない」と考えて死んだ。
――まだ分からないこと。使者が命令を届けたかどうか。
――まだ分からないこと。使者の標章が、なぜ槍兵のすぐそばにあったか。
――まだ分からないこと。あの火を、その場にいた誰かが見たかどうか。そもそも何人いたのかを、僕は確認できなかった。
書いてから、最後の欄を空けたまま炭筆を置いた。
「今日はここまでにします」
「標章の方は」
エルナさんが尋ねた。
「触りません。今日二つ目は、たぶん危ない」
言ってから、本当の理由も足しておくことにした。
「それと、先に槍の人のことを決めたくない。標章の火を見たら、そっちの見え方で槍の人の話を埋めてしまう気がします」
セラが小さくうなずいた。
「順番を守るのは、記録の側の作法です」
◇
その夜、僕は胸の中の灯皿を思い浮かべた。斥候の火と門番の火が並び、その隣にまだ場所がある。
触れた時に胸が熱くなったのは覚えている。剣の刃へ火が這った瞬間、僕の中でも同じものが動いた。けれど、火は移ってこなかった。
斥候の時も門番の時も、僕は火へ向かって答えを返している。名もなき斥候には「僕が伝える」と言い、門番には「立つ前に後ろを確かめる」と言った。今回は、まだ何も返していない。
あの人が最後に残したのは後悔だった。伝わったか。あの子は逃げたと思われるかもしれない。その二つに僕が答えられないのは、届けたかどうかを知らないからだ。
――返せる言葉が見つかるまで、火は来ない。
僕は考えたことの欄へそう書いた。
書きながら、村を出る前に自分で決めたことを思い出した。死者の思いを大切にすることと、死者へ都合のいい物語を足すことは違う。あの人が望んだ答えを、僕が想像で作って渡すことはできない。
窓の外では壁の上の足音がまだ続いていて、布の中の折れた穂先は静かなままだった。




