↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
名もなき英雄の残火 ~死者の技を継ぐたび、少年は強くなる~  作者: 冬月樹
第一部 青い火の古戦場

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
38/78

第三十八話 二十年の形

 触れる場所は、評定の部屋の隅に決まった。窓のない壁際で、外の音が届きにくい。父さん、セラ、ガランさん、それに治療の途中で呼ばれてきたエルナさんが立ち会う。


「意識が飛ぶのなら、私が見ます」


「息が浅くなったら止めてくれ」


 父さんが言うと、エルナさんはうなずいて、僕の手首へ指を当てた。


「名前を言ってください」


「カイ。ここは西の町の評定の部屋」


「二回目も言えるように」


 僕は布の包みを開け、折れた槍の穂先を先に出した。使者の標章は布の中へ入れたままにしておく。二つを続けて見るのは危ないと、セラが言ったからだ。


 右手を伸ばし、指先が青い火へ触れた瞬間、部屋が消えた。


          ◇


 石の壁が高かった。今の町の壁ではなく、もっと低く、もっと荒い積み方の壁だ。その上を、火のついた矢が越えていく。


 僕は、壁の内側に立つ男の目から見ていた。見えるだけで、手も声も男のものだ。男は槍を両手で構えている。柄は長く、穂先の下に付いた赤い房は焦げて、半分がなくなっていた。


『下がるな。門はまだ閉まらん』


 誰かが叫んだ。


 男は前へ出た。壁の切れ目から入ってくる灰色の獣は、今の町の外で見たものより大きく、脚は四本ある。灰をまとった体が、槍の穂先へぶつかった。


 突く。灰が散る。散った灰が集まって、また立つ。


 男は同じ場所を三度突いてから、突き方を変えた。灰の表面ではなく、その奥で手応えの抜ける所を探り、そこへ槍を通す。今度は、獣がすぐには形を戻さなかった。


『奥に空洞がある! そこを突け! 崩せるぞ!』


 男が後ろへ叫ぶ。答える声は少ない。


 後ろから、走ってきたばかりの、息の上がった声が届いた。


『門が閉まった。避難民は坂の下だ』


 男は振り返らなかった。


 次の獣が来た。男はさっきと同じ場所を狙ったが、今度は穂先が横から押される。獣の脚が柄へかかって体重が乗り、木がきしみ、ねじれ、折れた。


 柄は穂の少し下で折れ、穂先の側が石の間へ落ちた。男の手に残ったのは、ただの長い棒だ。男はそれを投げ捨てた。武器がない。


 周りを見ると、倒れている兵の脇に剣が一本落ちていた。男は走って拾い、握る。軽すぎるし、長さも足りない。これでは灰を抜けず、届かない。


 それでも男は剣を握り直した。届かなくても、何も持たないよりはいい。そういう握り方だった。


 その時、古い記憶が浮かんだ。若いころ、町の術者に手を見てもらったことがある。筋はある、と言われた。ただ、育てるには金と年月がいる。お前は明日から槍を持て。それきりだった。


 握った形は、二十年ぶんの形だった。刃先をどこへ置き、どこへ体重を乗せ、どの高さで止めるか。剣は槍ではないのに、手はその通りに動いた。


 自分の胸の奥が熱くなり、剣の刃へ青い火が這った。燃えているのに刃は焼けず、柄を握る手も熱くならない。ただ、刃の縁だけが青く輝いている。炎ではなく、魔力が火の形を借りたものだった。


 男は気づいていない。手元が光っていることは、この人の中では起きていなかった。見ているのは目の前の一体だけだ。


 男はその剣で獣を突いた。届いた。それまで灰の途中で止まっていた刃が、奥の空洞まで入り、そこで硬いものを割った。獣は灰へ戻らないまま動かなくなる。


『借りるぞ』


 男は倒れた兵へそう言ってから、次の獣へ向かった。


 剣が折れると、足元に落ちていた斧を拾った。ここで戦った兵のものだろうか、他にもいくつか武器が散らばっている。斧が欠けると槍を拾い、槍が折れると木の棒を拾って戦った。


 棒でも同じだった。青い火が這うと、届かないはずの物が届く物に変わる。灰を抜け、空洞へ入る。


 男は自分の武器を最後まで持たなかった。ただ、今その手にある物を、届く物へ変えていた。


          ◇


 どれだけ続いたのか分からない。


 やがて壁の内側の人が減り、獣も減った。男の周りに立っている兵は、三人しかいない。


 あと何人生きているのか。周りを確かめる余裕もなく、男はひたすら戦った。


 突いて、崩す。灰が寄り始める前に、もう一度突く。


 三体目が崩れてから、男は肩で息をしながら壁の切れ目を見た。まだ獣は来るが、数は少ない。


『誰か、東へ走れる者はいるか』


 男が言った。


 若い声が答えた。


『走れます』


 振り向いた先に、男より頭一つ小さい人が立っていた。走るための軽い装いで、胸には翼を折りたたんだ鳥の印の円い板を下げている。


 男は棒を左手へ持ち替え、右手で若い使者の肩をつかんだ。


『東の分隊へ伝えろ。ここは持たん。だが避難民は坂を下りきる。だから』


 その先が聞こえなかった。壁の外で何かが崩れる音がして、男の顔がそちらへ向いたからだ。使者は既に走り出していて、背中がすぐに小さくなる。


 男が棒を握り直すと、また火が這った。最後の獣が来て、空洞を突く。届いた。届いたけれど、獣の脚は止まらなかった。


 棒が折れ、男の胸へ灰が入る。倒れながら男は東を見たが、使者の背中はもう見えなかった。


 男の最後に考えたことが、僕の胸へ入ってきた。


 ――伝わったか。


 ――あの子は、逃げたと思われるかもしれない。


 ――俺が最後に言ったのは、下がれではない。


 そこで、火は終わった。


          ◇


 評定の部屋が戻ってきた。


 エルナさんの指がまだ僕の手首にあり、父さんの腕が背中を支えていた。


「名前」


「カイ。西の町の評定の部屋」


「立ち会っているのは」


「父さん、セラ、ガランさん、エルナさん」


 エルナさんが手首から指を離した。


「息は乱れていません。前より軽い方ですか」


「軽いです。水路の時より、ずっと」


 あの時は溺れる感覚に引かれたが、今回は最初から、外から見ている形だった。


「何が見えた」


 ガランさんが尋ねる。


 僕は順に話した。壁が今より低かったこと。槍が折れたこと。剣を拾ったら刃へ青い火が這ったこと。斧も棒も同じだったこと。灰の奥の空洞を突けば、普通の槍でもしばらく立ち上がれなくなること。青い火の刃なら、その奥の硬いものが割れて、灰がもう戻らないこと。そして最後に、若い使者へ命令を渡したこと。


「火は、燃える火じゃなかった。魔力が火の形をしてただけだ。それが刃に付くと、届かなかった物が届くようになる」


「あの方は術者ですか」


 セラが尋ねた。


「あの人は槍兵だ。術者じゃない」


 僕は答えた。


「でも、若いころに手を見てもらって、筋はあると言われたって。ただ、術を磨くには金と年月がいるから、お前は槍を持てと言われて、それきり」


 セラは銀の鐘を握ったまま、少し考えてから言った。


「筋があって、使い方を教わらないままの人は、町にも村にもいます。ほとんどは一生そのままです」


「でも、あの人の術は、最後に発動していた」


 セラは布の上の穂先へ目を向けた。


「二十年かけて体へ刻んだ武術と、育てられなかった魔術が、最後に武器を媒体として発動したのかもしれません」


「そうなのかもしれない」


 僕も穂先を見た。錆びて、短くて、もう槍の形をしていない。この人が最後に持てたのは、どれも借りた物だった。


「あの人は、使者を東へ走らせた。そのあとで死んだ」


「命令の中身は」


「聞こえなかった。『ここは持たん。だが避難民は坂を下りきる。だから』まで」


「そこで切れたのか」


「切れた。壁の外で音がして、そっちを見たから」


 言ってから、僕は自分の言い方をもう一度確かめた。


「聞こえなかっただけだ。言わなかったわけじゃない」


 セラが銀の鐘を握ったまま尋ねた。


「最後に考えたことは、分かりましたか」


「分かった。伝わったか、って。それと、あの子は逃げたと思われるかもしれない、って」


 部屋が静かになった。


「逃げたと思われる、か」


 ガランさんが低く言った。


「使者が命令を持って走れば、後ろは崩れる。生き残った者から見れば、伝令だけが先に逃げたように見える」


「実際にそう記録された例は、私も読んだことがあります」


 セラが言う。


「戦の記録では、部隊が全滅した後に、使者だけが別の場所で見つかることがあります。命令書が残っていなければ、逃亡と書かれます」


 僕は布に包んだままの標章を見た。すぐそばに落ちていた二つ。槍兵はそこで死んで、使者は東へ走ったはずだ。なら、なぜ標章が同じ場所にあるのか。


「セラ。使者は、走ったあとに戻ってきたのかな」


「分かりません」


「標章が、あそこにあった」


「落とした場所と、亡くなった場所は、必ずしも同じではありません」


 そのとおりだと思って、僕は口を閉じた。見た記憶は槍兵の最後の場面だけで、使者がどこへ行ったかは、この火の記憶に入っていない。


「見たことと、考えたことを分ける」


 父さんが言った。


「今の話で、確かなのはどこまでだ」


 僕は《灯名帳》を開いて、線を引いた。


 ――見たこと。槍兵は槍を折られた後、剣、斧、棒を拾い、その刃へ青い火が這って、灰の獣の弱点と思われる空洞を突けた。


 ――見たこと。槍兵は火が出ていることに気づいていない。


 ――見たこと。槍兵は若い使者へ命令を渡し、使者は東へ走った。命令の中身は最後まで聞こえていない。


 ――見たこと。槍兵は「あの子は逃げたと思われるかもしれない」と考えて死んだ。


 ――まだ分からないこと。使者が命令を届けたかどうか。


 ――まだ分からないこと。使者の標章が、なぜ槍兵のすぐそばにあったか。


 ――まだ分からないこと。あの火を、その場にいた誰かが見たかどうか。そもそも何人いたのかを、僕は確認できなかった。


 書いてから、最後の欄を空けたまま炭筆を置いた。


「今日はここまでにします」


「標章の方は」


 エルナさんが尋ねた。


「触りません。今日二つ目は、たぶん危ない」


 言ってから、本当の理由も足しておくことにした。


「それと、先に槍の人のことを決めたくない。標章の火を見たら、そっちの見え方で槍の人の話を埋めてしまう気がします」


 セラが小さくうなずいた。


「順番を守るのは、記録の側の作法です」


          ◇


 その夜、僕は胸の中の灯皿を思い浮かべた。斥候の火と門番の火が並び、その隣にまだ場所がある。


 触れた時に胸が熱くなったのは覚えている。剣の刃へ火が這った瞬間、僕の中でも同じものが動いた。けれど、火は移ってこなかった。


 斥候の時も門番の時も、僕は火へ向かって答えを返している。名もなき斥候には「僕が伝える」と言い、門番には「立つ前に後ろを確かめる」と言った。今回は、まだ何も返していない。


 あの人が最後に残したのは後悔だった。伝わったか。あの子は逃げたと思われるかもしれない。その二つに僕が答えられないのは、届けたかどうかを知らないからだ。


 ――返せる言葉が見つかるまで、火は来ない。


 僕は考えたことの欄へそう書いた。


 書きながら、村を出る前に自分で決めたことを思い出した。死者の思いを大切にすることと、死者へ都合のいい物語を足すことは違う。あの人が望んだ答えを、僕が想像で作って渡すことはできない。


 窓の外では壁の上の足音がまだ続いていて、布の中の折れた穂先は静かなままだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。