第四話 墓石の下
本日4話目です。
墓石が、もう一度持ち上がった。
今度は見間違いではない。雨を吸った土が左右へ割れ、白い灰に覆われた前脚が隙間から突き出している。
「止まれ!」
後ろから父さんの声が飛んできた。僕と一緒にいた木こりのロイさんが、踏み出しかけた足を止める。僕も息をのみ、足へ入れかけた力を抜いた。
白喰いには目がなく、音と地面の揺れを追う。分かっていたはずなのに、足元から出てくるとまでは思っていなかった。
墓石が横へ倒れ、その下から白喰いの頭が出てきた。横一文字の口が開き、黒い歯の間から泥がこぼれる。六本の脚を順番に地面へかけ、狭い穴から体を引きずり出していく。
古戦場で見た時より動きが鈍い。地下へ落ちた時に傷ついたのか、後ろの脚を一本引きずっている。それでも、人間よりはずっと速い。
昨日すぐ後ろまで迫った足音を思い出すと、背中の三本の傷が、布の下で急に熱くなった気がした。
隣にいるロイさんは、両手を体の横で固く握っている。腰には木を割る手斧があるのに、抜こうとはしなかった。白喰いの口が届く距離で斧を振るうのは、戦うというより食べられに行くようなものだ。
僕には《三歩の道》がある。けれど安全な足場が分かっても、ここで一人だけ動けば、白喰いはその振動を追ってくる。僕が避けた先にロイさんがいれば、かえって危険になる。使えるからといって、今使っていいとは限らなかった。
「カイ。俺が音を出したら、村へ下がれ」
父さんが低い声で言った。振り返らなくても、父さんとダリオさんが少しずつ近づいているのが分かる。もう一人の村の人は村長へ知らせに別の道へ向かい、鐘を鳴らす役の人は、僕たちより先を走っていた。
父さんが鐘を三度鳴らすよう伝えた時、白喰いはまだ地下にいた。地上へ出る前に村人を家へ入れるための警告だったのに、白喰いはもう村の墓地へ出てきている。
(まずい)
「今、鐘を鳴らしたら、白喰いも村へ行く」
体を動かさないまま、できるだけ声を落として伝えた。父さんの足が止まる。
白喰いは音を追う。村中へ響く鐘を鳴らせば、危険を知らせるだけでなく、村の場所まで教えてしまう。
しかも村人は、警告の鐘を聞けば、家へ入るために一斉に走り出す。大勢の足音まで重なれば、白喰いにとっては広場まで続く道しるべになる。さっきまで村を守るための合図だった鐘が、今は白喰いを広場へ呼ぶ合図に変わっていた。
「先に行った人を止めないと」
「そのためにも、まずここから離れる」
ダリオさんが弓を構える音がした。白喰いの六本の脚が地上へ出そろい、頭が左右へ動き、地面から伝わる小さな揺れを探している。
弓の弦が鳴った。
矢は白喰いではなく、古戦場の側に立つ黒い石柱へ当たった。硬い音が朝の空気を裂き、白喰いがその音の方へ頭を向ける。
目のない相手へ、偽物の獲物を作ったのだ。続いて父さんが長い鉤棒で柵を強くたたく。一度、二度。白喰いは僕たちへ背を向け、柵の方へ足を踏み出した。
「今だ。ゆっくり下がれ」
ロイさんが僕の肩へ手を添えた。地面を踏み鳴らさないように、一歩ずつ後ろへ下がる。走りたい気持ちを抑え、白喰いが別の音を追っている間に距離を広げていった。
靴の下で小石が動くたび、心臓が跳ねる。白喰いから目を離さず、足裏だけで墓道の石を確かめた。
十歩。二十歩。
僕たちの足音より、父さんたちが作る音の方が大きい。白喰いは、まだ柵の近くにいた。
父さんが柵をたたき、ダリオさんが次の矢を別の石柱へ当てる。二人は交互に音を出し、白喰いの頭を村とは反対へ向け続けた。
墓道の曲がり角まで下がると、父さんが腕を振った。
「今だ! 走れ!」
僕とロイさんは同時に駆け出した。背中の傷が一歩ごとに痛むが、止まれない。鐘を鳴らす役の人に追いつかなければならなかった。
「追いつける?」
「雨で足場は悪いが、追いつくには畑を突っ切るしかない!」
墓道を外れて畑の間の細い道へ入ったロイさんの後へ、僕も続いた。
畑には昨夜の雨水が残り、土が靴へまとわりつく。転びそうになっても、《三歩の道》は使わなかった。ロイさんが選んだ畑道なら、鐘楼までの道は分かる。今はぬかるみに足を取られないことだけに集中した。
畑の向こうでは、何も知らない村人たちが朝の仕事を始めていた。家畜小屋から鶏の鳴き声がし、家々の煙突からは細い煙が上がっている。
いつもの朝だった。あの鐘が鳴らなければ。
村の屋根が見えてきた時、背後で太い木が裂ける音がした。
振り向くと、白喰いは柵に体当たりしていた。ダリオさんの矢が鳴らした石柱は、柵の向こうにある。その音へ向かおうとしているのだ。古い木が大きくしなり、父さんとダリオさんが左右へ離れる。もう、音だけで足止めするのは難しい。
「俺が先に行く! カイは村の人に危険を伝えながら来い!」
ロイさんは返事を待たずに、泥を跳ね上げて僕の前へ出た。僕も道沿いの家へ危険を伝えられるよう、村へ向かって走り続ける。
けれど、ロイさんが村の端へ着くより先に、鐘楼に人影が見えた。鐘を鳴らす役の村の人が、太い綱を両手で握っている。
その人は、白喰いが地下道を村へ向かっていたことは知っていても、自分が墓道を離れた後で地上へ出たことまでは知らない。
先を走るロイさんと、その後を追う僕の姿は見えているはずなのに、声までは届かなかった。村の人は一度こちらを見たが、二人とも警告に従って戻ってきたように見えたのだろう。
結局、決められた合図の方を優先し、綱へ体重をかけた。
「鳴らすな!」
ロイさんの叫びに、僕も声を重ねる。
「待って! 鳴らさないで!」
遠すぎた。
村の人が綱を引き、一度目の鐘が鳴った。大きな音が村中へ広がり、墓道まで届く。
三度そろって初めて、外にいる者へ家へ入れと伝える警告になる。まだ一度目だ。家の戸が開き、大人たちが子どもを呼び寄せながら鐘楼を見上げ、畑の人たちも道具を手にしたまま次の鐘を待っていた。
白喰いが柵への体当たりをやめた。目も鼻もない顔が、村の中央へ向く。
父さんが鉤棒を柵へたたきつけ、ダリオさんも矢を放つ。けれど村全体を震わせた鐘の音に比べれば、どちらも小さすぎた。
白喰いは六本の脚を沈めて土をつかむ。次の瞬間、その脚が一斉に地面を蹴った。
鐘の音を追い、走り出す。傷ついた後ろ脚まで地面へつき、体を不自然に傾けながら加速していった。




