第三話 柵の下の抜け道
本日3話目です。
雨は夜明け前にやんだ。
夜更けからの雨で、家の前の道にはあちこちに水たまりができている。東の山には、朝になっても厚い雨雲が残っていた。
僕はほとんど眠れなかった。屋根から落ちる雫の音を聞くたび、濁った水が流れ込む資料館と、地下で暴れる白喰いが交互に浮かんできたからだ。
藤代明人。
昨夜思い出した名前は、朝になっても消えていなかった。
けれど、資料館も、そこで使われていた物も、今の僕が知る暮らしとはあまりに違う。遠い昔なのか、遠い国なのか、それとも別の世界なのかは、まだ分からない。
昨夜の記憶にあった白い明かりが電灯で、文字を映していた物が画面だということは分かった。けれど、それ以外の道具や暮らしを思い出そうとすると、霧に遮られたように曖昧になる。電灯がどう光るのかも、画面をどう使うのかも出てこなかった。
はっきりたどれるのは、資料館で手紙を整理していた場面と、濁った水が流れ込んだ後に人々を出口へ導いた場面だけだ。そこでは明人の体が自分の意思で動き、何を考えていたのかも自分の記憶として分かる。知らない男の最期を外から見た斥候の記憶とは、記憶の中にいる感じが違っていた。
使いかけの帳面には、斥候から受け取った記憶と、藤代明人について思い出したことを分けて書いた。どちらも続きを知りたいけれど、今は無理に思い出そうとしないことにする。
考えて分からないことは、分かっている所から書く。
それが藤代明人の記憶から出た考えなのか、カイとして今考えたことなのかは、うまく区別できなかった。
「背中を見せて」
朝食の前に、母さんが傷へ巻いた布を取り替えた。三本の傷はまだ赤く、体をひねると痛むけれど、血は止まっている。
「歩くと痛む?」
「普通に歩くなら大丈夫。走ったり、重い物を持ったりすると痛むと思う」
母さんは布の結び目へ指を一本入れ、きつすぎないことを確かめた。
「自分の体のことは、昨日より説明できるようになったわね」
作業台では、父さんが縄と長い鉤棒を確かめていた。
戸口では、ノアの父で猟師のダリオさんのほかに、村の男が二人待っていた。一人は木こりのロイさんで、父さんより少し若く、腰に手斧を下げていた。もう一人は墓地の近くに住む村の人だ。ダリオさんは狩りに使う弓を背負い、地面の跡を調べる短い棒を持っている。
「白喰いを穴から引っぱり出すの?」
「違う。柵の向こうに倒れた北の灯籠を、こちら側へ引き寄せるだけだ」
父さんは縄を肩へかけた。
「北の灯籠を回収したら、柵の外から跡を調べる。白喰いがまだ地下にいるなら、今日は近づかない」
「僕なら、どこで白喰いが落ちたか分かる」
「お前を案内役にして古戦場へ入る気はない」
予想していた答えだった。それでも、灯籠が倒れていた位置も、白喰いが現れた向きも、僕にしか説明できない。
「入らなくていい。柵のこっち側から、昨日どう動いたかを指すだけ」
父さんは母さんと顔を見合わせた。
すぐには答えが返ってこなかった。父さんの視線は肩の縄と僕の背中を行き来し、母さんは使い切った薬の包みを指先で畳み直している。僕の説明が必要なことと、怪我をしている子どもを連れていく危うさを、二人で比べているのだと思う。
「北の石台までだ。柵へは近づかない。青い足跡が見えても、勝手に使わない。何かあれば大人より先に逃げること」
「分かった」
母さんは余った傷布を僕の腰袋へ入れ、口をしっかり結んだ。
「背中が痛んだら、すぐ父さんに言いなさい」
「うん。でも、案内するだけだから安心して」
その返事を聞き、母さんはようやく手を離した。
◇
夜の古戦場は、青い火と白喰いのうなり声で、別の世界のように見えた。
朝になれば少しは普通の場所へ戻るかと思っていたのに、白喰いのうなり声が聞こえなくなっても、雨上がりの古戦場から不気味さは消えていない。濡れた石柱が薄い光を返し、柵の向こうには白い霧が地面すれすれに残っていた。
北の石台の脇には、二つの灯籠を置いた跡だけが雨に濡れて残っている。
古戦場の側では、北の灯籠が昨日と同じ場所に倒れていた。雨で火は消え、丸い金属のふたに水がたまっている。
「僕とノアは、あの隙間から入った。灯籠の近くに白喰いがいて、僕たちと柵の間へ回り込んだんだ」
柵から離れた所で、昨日の動きを指さしながら説明する。
ダリオさんは返事の代わりにしゃがみ込み、石台から柵へ続く引きずり跡を調べ始めた。雨で輪郭の大半は崩れている。それでも、重い灯籠の底が地面を深くえぐった所だけは、細い溝になって残っていた。
「白喰いが運んだ跡じゃない」
しばらくして、ダリオさんが言った。
「どうして分かるの?」
「ここを見てみろ」
呼ばれ、父さんと一緒に二歩近づいた。
引きずり跡の縁に、大きなくぼみが重なっている。雨水がたまって形は崩れているが、白喰いの六本脚のうち一つが踏んだ跡らしい。
「足跡が、引きずった溝の上にある。先に灯籠が古戦場へ動いて、その後から白喰いが来たんだ」
僕には、どちらも雨で崩れた跡にしか見えない。けれど、獣の足跡を追う猟師には、くぼみと溝の重なりから、どちらが先についたのかまで分かるらしい。
「じゃあ、何かが灯籠を動かした?」
父さんの問いに、答える者はいなかった。
人が運んだのなら、灯籠の横に足跡があるはずだ。雨で消えたのかもしれないけれど、重い物を引いた溝だけがまっすぐ柵の下へ続いているのは、どう見ても不自然だった。
「昨日、ここに青い火はあったか?」
父さんに聞かれ、首を横へ振る。
「最初に見た青い火は、もっと奥だった。灯籠のそばにはなかったと思う」
少なくとも、覚えている限りでは。
父さんはそれ以上聞かずに、長い鉤棒を持って柵へ近づいた。ダリオさんが父さんの腰へ縄を結び、結び目に挟んだ小さな銅札の印を指でなぞる。淡い光が、結び目の周りだけを固く締めた。
町で術式を刻んでもらった、縄の補強札だ。だが古戦場の近くでは、その力も結び目から先へは広がらない。残る二人も後ろから縄を支えた。万一地面が崩れても、古戦場の側へ落ちないためだ。
僕は父さんと決めた通り、石台の手前に立っていた。
鉤棒の先が柵の隙間を通り、倒れた灯籠の取っ手へ近づく。あと少しで届く所で、父さんが右足を置いた地面から、小さな音がした。
こつ、と石同士がぶつかるような音だった。
父さんたちは気づいていない。
昨夜、白喰いの下で地面をふさいでいた石板が割れた光景がよみがえる。この下にも古い地下道があるなら、父さんの足元も崩れるかもしれない。
(父さんを、あそこから離さなきゃ)
そう思った瞬間、胸の奥の青い火が揺れた。
石台の横へ、三つの青い足跡が浮かび上がる。父さんたちが立つ場所から離れ、硬い墓道へ向かう足跡だった。
「父さん、三歩下がって!」
「何?」
「足元が崩れるかもしれない! 僕と同じ所を踏んで!」
父さんたちの方へ少し駆け寄り、一つ目の足跡へ足を置く。
「ここ!」
鉤棒から手を離した父さんへ足元を示しながら、二つ目へ移る。空いた一つ目を、父さんが踏んだ。
「ここ!」
三つ目へ足を置くと、父さんが二つ目へ、ダリオさんが一つ目へ続いた。
「ここ!」
三つ目から墓道へ下り、父さんのために場所を空ける。父さんが三つ目へ移ると、ダリオさんとロイさんも一つずつ前の足跡へ進み、最後の一人が一つ目へ足を置いた。
そのまま父さんが墓道へ下り、後ろの三人も順に前へ詰めていく。空いた足跡を一人ずつ追いながら、縄を引いて石台から離れた。
全員が三つ目の足跡を踏み終えた直後、石台の横で鈍い音が響いた。
地面が、沈んだ。
最初は小さなくぼみだった。それが雨水を吸い込みながら広がり、土と石をまとめてのみ込んでいく。父さんが立っていた場所に、大人が二人並んで入れるほどの穴が開いた。
左足を曲げ伸ばししてみる。痛みはなく、いつも通りに動いた。
「今、何か見えていたのか?」
ダリオさんが、穴と僕を見比べた。
「うん。青い足跡が三つ見えた。僕にしか見えないんだ」
父さんが僕の前へ来る。
「使うなと言ったよな」
「……ごめん」
「だが、助かった。左足は動くか?」
怒られると思っていたのに、先に体を心配された。僕はその場で膝を曲げ、足首も動かしてみせた。
「痛くない。歩ける」
「ならいい。今の足跡を追えなければ、俺たち全員が落ちていた」
父さんは穴へ目を戻した。
「次からは痛みも一緒に言え。平気なふりをされる方が困る」
「分かった」
(昨日から、分かったって何回言ってるんだろう)
そろそろ言葉だけでは信用してもらえなくなりそうだった。けれど今は、父さんも僕も、それ以上話している場合ではない。
崩れた穴の底に、道があった。
◇
土の下から現れたのは、自然にできた獣の穴ではなかった。左右の壁には同じ大きさの石が積まれ、人が立って歩けるほどの幅がある。
「おそらく古戦場の地下道だな」
父さんが低い声で言った。
百年以上前の戦で使われた道が、柵の下を通り、村の側まで延びていたのだ。
白喰いが通って傷んだ天井へ、昨夜の雨水がしみ込んだのだろう。昨日僕たちが安全だと思って下がった墓道の下にも、地下道が通っている所があるのかもしれない。
ダリオさんは縄を体へ結び直し、崩れていない地面に腹ばいになり、穴の中をのぞき込んだ。中へは下りず、短い棒の先で底の土をなぞる。
棒の先に、白い灰がついた。
「新しい。雨に濡れていない」
穴の中には、六本の脚が石をかいた跡も残っていた。白い灰は古戦場の側から続き、そのまま村の墓道の下へ消えている。
白喰いは、まだ地下にいる。
しかも、柵の向こうではない。
「白喰いが地下にいるうちに、一人は村へ戻って鐘を三度鳴らせ。全員を家へ入れろ。もう一人は村長へ知らせるんだ」
ルカ村で三度の鐘は、外にいる者へすぐ家へ入れと知らせる合図だ。父さんの声から、さっきまでの迷いが消えていた。
「カイ、お前も戻れ。母さんに、北側の窓と戸を閉めるよう伝えろ」
「父さんは?」
「地下道の出口を探す。白喰いが地上へ出る前に見つける」
反対したかった。けれど僕がここに残れば、父さんは僕を守りながら調べることになる。
「分かった。絶対に古戦場へ入らないで」
「それは俺の台詞だ」
背中の傷が引きつるのをこらえ、木こりのロイさんと一緒に墓道を走り出した。
十歩も進まないうちに、足元から低い音が聞こえる。
土の下で、硬い爪が石を引っかいていた。
立ち止まった僕たちの前で、道の脇にある古い墓石が、ほんの少し持ち上がる。
隙間から、白い灰がこぼれ出した。
白喰いは、村のもうすぐそばまで来ていた。




